遠くにキラキラ

 雪のように降る桜の中には新しい緑もちらほら見える。じっと眠っていた紫陽花だって芽吹いている。もう二年目の大学生活に入るのだ。

 自分で時間割を組むのは三回目になるけど、好きな講義を取ろうとすれば相変わらず頭を悩ませる。しらしらや明良に何を取ったか聞いて、興味があれば同じ講義を取ってみた。

 一年のときは西洋美術の講義がたまたま三人一緒だった。今度は日本美術の講義で顔を合わせることになった。ちょうどその後はお昼休みなので、三人でお昼ごはんを食べられる。

「日本画、好きなの?」としらしら。そう言う彼女は絵が好きなのだ。まだ好きじゃないけど興味がある、と答えたら、「これから好きになるかもしれないんだね」と明良がほほえんだ。や、わからないけどね、と言いつつ、まだ好きじゃないという表現を選んだ自分の中に、小さな好きを感じた。

「明良は?」

「国語科教師になるなら、日本文化をもっと知っておこう思って」

 関連して興味を持ったわけだ。そうすると私は、日本文学科に入ったから惹かれたのかもしれない。

 もちろん明良は、教師の資格を得るための講義も受けていて、今年は外部での体験学習があるらしい。資格の講義があると、取りたい講義と調整することに頭を悩ませると言っていた。資格は考えていなかったけど、私も何か、資格の勉強をしてみようか。

 私たちの母校に現場の勉強を兼ねて支援ボランティアに行く、と明良に聞いて、私たちの先生にも明良みたいな時代があったのだと思った。大学生になって、先生になって、私たちに国語を教えて、次はどこへ行ったのだろう。

 先生とさよならした日がまた遠くなった。正確には、さよならだった日だ。まだ高校にいたいという思いをぎゅうと縮めて、「卒業しても会いにきます」と伝えたら、こっそり教えてくれた。「ごめん、さよならだ」と。のんびりしたお昼の職員室で、まだ桜も咲いていないのに、急に卒業がさびしいものになった。

「高校のとき、羽街はねまち先生の国語って受けたことある?」と尋ねるとき、久しぶりに口にした名前はなんだかよそよそしかった。

「私はないな」

 受けたことがあるのは、と明良が挙げた名前を聞いて、今度は私がないなあと言った。

「ある。一年生のときだけ」としらしらは答えた。「進むのが速くて、ときどきついていくのを諦めていた」

 それはたしかに、と思い返す授業風景は遠くて、時間がゆったり流れているように感じる。私、羽街先生の授業だけは、振り落とされないようにとまっすぐ聴いていた。授業以外の話をしにいった先生も他にはいない。

「いなくなってしまったのだっけ?」

「そうそう。たしか、私たちの卒業と一緒に」

 最後の学年集会では、退職するとしか言っていない。二、三十代くらいに見える先生が辞めていくところを見て、先生が定年以外でも辞めるという当たり前のことに初めて気がついた。公立は異動があるけど、私立はずっといる先生が多くて、ときどき卒業生らしい大人が職員室に会いに来ていた。だから、先生はずっとここにいると思っていた。

 私にはもう、会いにいきたい先生がいない。何のつながりもない、どこにいるのかもわからない遠い人になってしまった。

「私は二年生の時に古典を教えてくれた先生が好きだったな」と明良は言う。名前を聞いてもピンとこないので、たぶん私は教わったことがない。チョークで書く文字さえ達筆だったらしい。

 羽街先生は、話しながら次々と黒板に字を書きつけてい

く先生だったことを思い出す。日直のときは惜しみながら先生の字を消した。筆圧が強いので、二、三回消してから仕上げをしないといけなかった。

 お昼休みも終わりが近く、私たちは次の講義へと散った。人と高校のときの話をしたのは久しぶりだったかもしれない。明良はいろんな先生を覚えていたけど、私はいつも羽街先生のことだけを思い返している。

 自分の外側で羽街先生のことを話したせいか、その日は夢の中で先生に会った。夢の中でしか会えない。またどこかで会えますか、と聞けば、先生はうんともううんとも聞こえる曖昧な返事をする。どこか遠くを見やる先生の前に立つ私はちゃんと制服を着ている。先生はふと銀色の腕時計を見て、「そろそろ次の場所に」と教室を出て行った。


 頭が冴えない陽気な日に、明良と向かい合って課題レポートを書いていた。集中が途切れてと顔を上げると、明良の右手にある指輪に視線が吸い込まれる。ペンが走ると指輪の赤粒がチラチラ光った。「これ?」と顔の前にその手を持ってきたので、手の向こうで明良と目が合った。うれしそうにしているので、お気に入りなのだろう。

 人のアクセサリーを見るのは好きなのだけど、今日は羽街先生の指輪を思い出してしまった。右手ではなく左手だったし、先生の指で光っていたのは白い粒だったのに、記憶がひらくきっかけとはよくわからないものだ。

 私は生徒で、先生のことは先生としてしか知らないという当たり前のことを認識したのは、その指輪の向こうに人を見出してからだ。先生は右利きだったから、教科書を持ったりコップを包んだり、左手を使うときにしか目に入らない。そう多くはない左手がよく見える時には、少し後ろに引っぱられるような、先生の全体像がよく見えるような感覚があった。

 先生が好んでつけているだけかもしれない、という淡い期待を抱いたこともある。期待はそのうち消失する。

 左手の薬指に留まっているシンプルな指輪はどうしても大切そうなものだった。いつも見ていたから知っているのだけど、先生はときどき左手を眺めるみたいで、たぶん、指輪を見ていたのだと思う。

「お守りみたい」とつぶやいた。指輪を見ていた明良は「自分で見えるところにつけると、気持ちもハッピーだよ」と言う。

 たしかに、すてきなイヤリングやネックレス、髪飾りを身につけても、自分には見えないことのほうが多い。手もとなら、視界に入るたびうれしさを思い起こしてくれるに違いない。

「いいな」

「ゆのはつけないの?」

「気に入ったのがあればつけるかも」

「そっかー見つかるといいね」

「ありがとう。明良のは、つやりとした赤色の粒がきれいだね」

「そうなの。いちごのドロップみたいでおいしそうでしょ」

 赤い粒は甘みをふくんでチラときらめく。明良の指輪に、遠く、別の人を思ったことを恥ずかしく思う。そこにあるよいもの以上に何かを思わなくていいのに。でも心は高校生のまま、永遠につけられない指輪の片割れのことを思っている。

「ほらほら、がんばれ」

 明良にせっつかれて資料に目を戻す。一緒にいると課題が進むし、ほどよく息抜きができて助かる。次の講義までにだいぶ進めることができた。

 講義を終えたら今度は喫茶店に向かう。今日もあとひとふんばり。

 好きな喫茶店で働く側にいて、できることが増えて、助けてくれる人がいて、それなりにやっていけるなんて高校生のときには考えられなかった。選ばれたメニューたちをせっせと机に運んでいく。

 キッチンの先輩に伝票をお渡ししてホールに戻ったら、見慣れた制服を見つけた。はっとして、心が揺らぐ。高校からここまで、そんなに近くはないはずなのに。また心が遠くに行ってしまう。

 ゆっくり、まばたきを数回して気持ちを落ち着かせる。バイト中は余計なことを考えないように集中しているつもりだけど、思わぬ拍子に降りてくる。

 帰り際、キッチンの椎野しいのさんに挨拶したら「はい、てんちょから雛田ひなたさんの分」とトマト柄の包みを渡してくれた。タッパーはいつもかわいい風呂敷に包まれている。またね、とにっこり手を振られて、振り返しながらお辞儀をした。

 レジにいるてんちょにもお礼を伝えた。今日は切り干し大根ですよとのこと。おかずにも小腹が空いたときにもよい。

 夜の裾になでられた街中へ、帰路につく。あまりにも大勢の人が行き交って、頭も心も紐の先の風船みたいにふわふわしている。知っている人がいてもきっと、気がつけない。

 玄関でいつも通り「ただいま」と声に出すけど、人はいない。自室に行ってふと思い立ち、持っているアクセサリーを化粧ポーチから取り出してみた。シンプルなネックレスがひとつ、簡素な髪留めがふたつ。ほとんどつけていない。ポーチにそっと戻した。

 ここのところ開けていなかったお気に入りのクッキー缶を取り出してみる。ふたに描かれた宝石みたいなジャムがのったクッキーの絵、触るとでこぼこしている。

 ふたを開ければ紙切れやリボンや飾りが入っていて、ふわりとこぼれた空気が魔法みたいに私を高校生に戻してしまう、ような気がした。先生が書いたメモの切れ端、先生にもらったバレンタインデーのお返しに付いていたリボン、文化祭のときに部員みんなでつけたシュシュ……そして、キラキラの虹色を見つける。私のお気に入りのピン留め。

 パチン、と横髪を留めてみたら、教室に差し入る光の感じとか、廊下のざわめきとか、職員室前の涼しさとか、薄れ始めていた感覚にさらりと頬をなでられた。どこかの教室へ授業をしに羽街先生が入っていく、知らない教室から白平さんが出てくる、一緒に出てくるあの子を見て白平さんは笑っている。

 しらしらと知り合って一年は経ったけど、高校生のときみたいにまぶしいくらい笑うところは見たことないように思う。多くは曖昧な表情で、遠くを見る羽街先生に少し似ている。うす明るく静かな横顔。

 いろんなことを覚えている。みてみてと流星群みたいな人たちが羽街先生のまわりでくるりと踊れば、いいんじゃない、と先生はほほえんだ。私もみてみて、なんて言えなかったけど、職員室に行って先生と話していたら、「キラキラしてるね」とやわらかく言ってくれた。もともと好んでつけていたピン留めは、大事な虹になった。見てくれた、見つけてくれたとうれしくて、また見つけてほしくて、こればかりつけていた。

 私も先生が身につけているものについて話題にしたことがある。「きれいですね」と言ったそれがなんだったか、思い出してしまった。華奢な銀色の時計だった。

「ああ、もらったんだ」と聞いて、つい「だれにですか」と反射的に尋ねてしまった。聞きたくなかったのに、「伴侶に」という答えを耳にした。ハンリョ、と聞いてもすぐ漢字に変換されなかった。

 認識して、「その、指輪の人」とひとりごとみたいに言ってしまって、羽街先生がうなずくのを見た。指輪の人、羽街先生が先生じゃなくても一緒にいられる人。ちらりと指輪を見る先生の顔は一瞬ぜんぶの音を忘れそうなほど穏やかになって、私はさびしくなる。

 ほうっとしていたら、辺りの静けさが私の重さを呼び覚ました。眠くなる前にご飯の支度をしないと。

 リビングのカレンダーを見る。今日は十時くらいには帰ってくるかな。小腹が空いたので切り干し大根を食べてみたら、ほんのり甘くておいしかった。

 お米をセットして野菜炒めを作る。あまり元気がないけど作ろうと思うときは、何も考えずに洗って切って炒める。お弁当にも使える。

 お弁当は、明日も大学に行くために。ごはんを食べるのは、明日も生きるために。

 ごはんができたらもう眠くなった。しらしらを待っていたら寝てしまいそうなので、先にいただくことにする。

 しばらくしたら静けさに心細さを感じて、スマホにイヤホンをつないだ。実家にいる時としらしらが来る前は、動画や配信をぼんやり観ながらご飯を食べることが多かった。

 食べ終わる頃、しらしらが帰ってきた。おかえり、ただいま、といつもの挨拶。ごはんの前に座れば、丁寧に手を合わせてから食べてくれる。

 ちょっと冷蔵庫のお茶を飲んだらシャワーしようと思っていたのに、うっかりもう一度座り込んだら落ち着いてしまった。眠気が強くなる前に立ち上がらないと。

「キラキラ」とごはんを食べていたしらしらが私を見ていた。あたりを見回したら、「髪の」と言われて、視線が触れていたところに虹色のピンを留めたままのことを思い出す。しらしらは「すてきだね」と少しうつむいて、うすくほほえんだ。

 うれしいとさみしいが混ざり合って、すうっとしらしらが遠くなった。私がそうだったように、ピン留めの向こうに人を思い出したのかもしれない。向こうにいたのはきっと、名前を知らないあの子だと、勝手に思う。

 ほんのひと時、遠くを見ている人を目前にしただけで、こんなに心細いのだ。しらしらの向こうに何度も白平さんを見ていた私は、しらしらの目にどんなふうに映っていたのだろう。明良の前で私は、上の空ではなかったろうか。申し訳なかった。

 この頃は遠くばかり見て、近くにピントが合わない。後方の終わった光ばかり見て、前方の不確定、不安なものから目を背けている。

「しらしら」と呼べば、顔を上げて私を見てくれる。私もしらしらを、見る。

「今日はてんちょに切り干し大根をもらったよ。明日の朝に食べてもいいし、おやつ代わりにしてもいいからね」

「わかった。ありがとう」

 冷蔵庫の青いふたのタッパーね、と付け加えておく。ごはんを作るのがだるい時もあるから、すぐに食べられるものがあると助かる。今日炊いたごはんがあるし即席お味噌汁もあるから、気が楽だ。

 再び眠気が強くなってきて、シャワーするねと立ち上がる。もぐもぐしているしらしらがゆるりと手を振ってくれた。私も振り返してリビングを出る。虹色のピンは外して、自分の机の上に置いた。

 ぜんぶ洗い流してすっきり寝ようと思ったのだけど、頭のもやは晴れないままだった。そんなに疲れることはないはずだけど、と考えることもだんだんどうでもよくなって、なんとか髪を乾かしたらすぐお布団にいこうと思った。

 廊下でリビングの灯りを見て、おやすみくらい言いたくなり顔を出す。しらしらが切り干し大根をつまんでいるところだった。

「聞いたら食べたくなってしまって」としらしらはすねたような様子で言った。それは恥ずかしさだと見て取れたので、少し笑ってしまった。

「いいんだよ」

 恥じらうことはない、食べてくれるのはうれしいこと。

「おいしい」

「よかった」

 口に合ったなら、今度作るときは具材と味を真似してみようかな。てんちょに調味料を聞いてみるのもいい。

「じつは、私もごはん前につまんでたんだ」と打ち明けたら、ちょっと笑ったように見えた。私がしらしらをちゃんと見ていなかっただけで、しらしらは案外笑っているのかもしれない。小さな笑いは箱の中の砂糖菓子みたい。もっと発見していけたらいいな。

「なんだか疲れているみたいなので、もう寝るね」と伝える。

「ゆっくりおやすみ」

「ありがとう、しらしらもね。おやすみ」

 お部屋に帰ったら今日の忘れ物を見つけた。しまおうとして、やめる。机の上の虹はもう少しだけ、そのままに。

 お布団に転がって灯りを消したら、今日はおしまい。夜も朝も忘れて、眠りに溶ける。

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