雨が止むまで

 ベランダの手すりに水滴が付いている。雨の日は、しらしらがうちに来たことを思い出す。秋晴れを恋しく思うような、しとしと続く雨の頃、泣いているしらしらに会ったのだった。こたつ机でうとうとしながら窓を眺める。

 あの日は、バイトが休みだしどこか行こうかなと思っていたものの、講義が終わっても雨は強く、あまり元気もなかった、と思う。どうしたものかとカフェを見にいって、人が多いのは気分じゃないなとやめた。図書館は静かすぎる。どこかに腰を落ち着かせて考えようと思い、図書館の上、五階のベンチに行った。真ん中が吹き抜けになっていて、人が少なく、窓が近いので居心地がいいのだ。

 行ってみると、雨の中を駆けてきたように濡れている先客がいて、重そうな長い髪のその人はしらしらだった。雨粒で飾られた大きなガラス窓の方を向いて座っている。いつもここにいるのかな。しらしら、と呼んでも反応はなく、近づいて「となり座ってもいい?」と聞きつつ顔を見たら、青白くてとても眠そうだった。

「しらしら? どうしたの?」と呼びかけたら私のほうを向いたけど、私の向こう、遠くを見ているようだった。

 そのうち、しらしらのまばたきで大粒の涙がぱたと落ちていった。ひと粒こぼれると表面張力が解かれた水のように止まらなくなって、しらしらはうつむいた。

 動揺してあたりを見回すと自販機が目に入り、荷物を置いたまま駆け寄った。何か飲み物を、と思って、しらしらの好きも苦手も知らないことに気がついたのだっけ。さびしかった。

 水を一本買って、しらしらに「あげる」と差し出した。水を見て、私を見て、また水を見つめてから受け取ってくれて、「前も、くれた?」としらしらの澄んだ目が私を見た。

 覚えていてくれたんだ。高校生のときの、たった一度の交点を。

 しらしらはすぐに水を飲んで、涙をぬぐっていた。

 そんなことも、もう、だいぶ前のことのように感じるけど、まだ半年も経っていない。

 静かなリビング、サラサラと雨の音が流れ続けている。しらしらがいなかった頃みたい。思い出ばかりが、時折ほのかに光っているような、ぼやけた時間だ。

 高校生のときもすぐに飲んでくれたのだろうか、と思いを馳せる。遠く遠くへと心が引き伸ばされ、記憶をたどっていく。

 高校の文化祭準備で浮き足立っていたとき、二年生だったと思うのだけど、備品を取りに行く途中か何かで、人の姿がなく静かな階層を通りかかった。お手洗いに入ったら、顔を洗っている白平さんに出会った。顔が濡れていてもわかるくらい、ほろほろと涙がこぼれていた。キラキラの大きなリボンで髪を結っていて、それがとんでもなく素敵で、でもあの白平さんが泣いていて、まぶしすぎる悲しい夢を見ているような心地だった。

 混乱の大嵐の中、思いっきり目が合ってしまった。タオルを、と思ったけど新しいタオルは持っておらず、声をかけようとしたら「大丈夫、大丈夫ですので」と言われて、最初はそのまますぐにお手洗いを出た。でも、いつも流星群の中にいるのに、ひとりで溶けてしまいそうなお星さまを見なかったことにして忘れるなんてできなくて、何かできないだろうかと、もやもや考えながら下の階まで降りた。

 そのときも、ぱっと自販機が目に留まった。水分を、泣いたら水分を補給しなきゃと水を買った。

 駆け上がってお手洗いに戻ったら、白平さんは濡れた顔でぼんやりしていた。「あの、お水あげる」と差し出して、その後に言葉が続かず、「あ、ありがとう」と戸惑いながら受け取ってくれた白平さんを前に急に恥ずかしくなり、「それでは」と外へ出た。それっきり、卒業まで言葉を交わすことはなかった。

 白平さんにとっては忘れたいことだったり、ささいなことだったりして、思い出さない記憶かもしれないけど、私にとっては忘れられない夢みたいだった。

 大学で涙をこぼすしらしらに会った秋の雨の日は、夢の続きに似ていた。水を渡して、飲んでいるしらしらを見ながら、あのときみたいに離れたほうがいいかなと悩みながら話していた。このあと何かあるのかと聞けば、ないと返ってきて、濡れたままだと身体が冷たくなるよと言ったけど、しらしらは動かなかった。

「帰りたくない。かといって、どこかへ行きたいわけでも」とひとりごとみたいにしらしらは言って、ぼうっと遠くを見た。窓の外、雨は止まないけど、分厚い雲が広がっているせいで重たく白い。明るい真夜中みたいな光の中、しらしらはそっと目を閉じた。滴が、すうっと頬をなでて、落ちた。

 高校生のときみたいに離れるつもりだった。涙に踏み込む勇気がなかったから。でも、遠くのお星さまが流れ星になって目の前に落っこちてきたら、拾わずにはいられなかった。

「うちでも雨宿りできるよ」と言ったときは後先なにも考えていなかった。やや間があって、静かに立ち上がったしらしらもまた、なにも考えていなかったかもしれない。「行く」という声を聞いて、歩き始めた。

 しらしらは傘を持っていなかったので、差し出したら申し訳なさそうにしながらも入ってくれた。なにを話しながらおうちに帰ったのか、もう覚えていない。なにも話さなかったかもしれない。

 雨宿りと言ったけど、しらしらの帰りたくない気持ちがなくなる、というわけではないみたいで、シャワーと温かいお茶があってもしらしらは寒そうだった。雨宿りを提案したときのように、ここに住むかと半分本気で聞いた。私は自分のものをすべてひとつの自室に置くことを好んだので、ほとんど使わない空き部屋があったのだ。やりっぱなしの荷物を片付ければからっぽになるし、おうちに話し相手がいるとうれしい。

「いいの」と確認されて、「いいよ」と答えてから、空いていた部屋はお星さまのねぐらになった。

 時間割を交換して、バイトの日はカレンダーに書く。いるときは本人に聞いてしまうけど、いないときは予定を見ればいい。ときどき、書き忘れる。生活音としらしらのものが増えて、各々の暮らしにいそいそしているうちに、しらしらのいる生活への緊張はほぐれていった。しらしらも、始めは自室にいることが多かったけど、今はリビングで姿を見ることも多い。

 今日は、雨の音がずっとおうちを包んでいる。

 しらしら。白平さん。半分、夢の中。私と白平さんは二度と言葉を交わさない。目を合わせることもなく、学校の廊下を駆けていってしまう。

 白い夜みたいな明かりの中で、起きよう起きようと思いながらもうつらうつらとしている。音が遠くなって、止んだのかと思ったけど、とつとつ、さらさら、と再び聞こえてきて、気がつけば正面にしらしらが座っていた。大きなタオルを身体に掛けている。目が合って、しらしらが会釈して、私も小さく返した。ひらかれたノートの上でシャーペンが細い音を鳴らす。外は相変わらず、手すりの上に新しい水滴が降り注いでいる。

 紅茶でも飲もうかな。しらしらにも聞いたら「飲む」というので、二つ用意した。

 熱いお湯で入れたから、ふうふうと冷ましながら気をつけて口をつける。身を小さくするような落ち着きではなく、ゆったり広がっていくような安心を感じる。暖かい季節の始まりに差し掛かっているからだろう。やわらかい風が身をつつんでくれるようになるまで、もう少し。

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