日々(三)

 冬の朝は窓辺が冷たい。カーテンをあけておひさまが出ていないことに少しがっかりする。曇り空はうす暗いのにまぶしい。

 朝ごはんを考える。簡単に作れるもの、何にしようかな。しらしらはまだ出てこない。

 春休みになってから、バイト先で「キッチンも入ってみる?」と聞かれて、素敵な料理に携われるならと挑戦し始めた。コーヒーの入れ方、軽食メニューの作り方、食器選びや盛り付けなどいろいろ教えていただいて、覚えることが多いけど楽しい。ほかほかの分厚いホットケーキなんて、上手く作れるとすごくうれしい。

 そんなことを思い返していたらホットケーキの気分になってきた。今日の朝ごはんはホットケーキです。しっかり作るのはちょっとめんどうなので、買っておいたホットケーキミックスを使って簡単に作る。

 ボウルに材料を入れたら、混ぜすぎないように気をつけてさっくりとんとん、さっくりとんとんとん。まぜて落としての繰り返し。それからフライパンを熱して油をひく。ささっと拭き取りながらならして、生地を流し込む。まあるく広がっていく生地。弱火にかけて、表面がふつふつしてきたら、そっとフライ返しを入れて確認。気持ちを落ち着かせて、ぱたん、ひっくり返した。こんがりきつね色だ。

 蓋をして弱火。二分くらいしたら確認して、お皿の上に。あとは同じように焼ける限り焼く。

 ベーコンエッグも作って、洗ったレタスも盛り付ける。りんごは、あとでいいかな。

 さて、しらしらのドアを遠慮がちにノックして、「ホットケーキ、焼いたよ」と伝える。「はあい」と眠そうな声がして、物音がしたような気がした。

 戻って、こたつに入る。手を合わせて、お先にいただきます。まだほんのり温かいホットケーキにメープルシロップをかける。ホットケーキを作ったときのために買っておいたので楽しみにしていた。切り分けた淡い黄色にシロップがしみしみ。口にすると、通り抜けるような甘み。いい感じに焼けた、我ながら満足。しらしらも来てくれたらうれしいのだけど、私たちは一人暮らしと一人暮らしだから。

 窓の外は明るいけど相変わらず曇っている。天気予報を確認すれば、午後は三時から雨が降るらしいので洗濯は部屋干しかな。

 二枚目のホットケーキに差し掛かったとき、かすかな音に続いてしらしらが現れた。

「おはよう」「おはよう」と挨拶を交わして席に着く。いただきます、と手を合わせるしらしらは疲れているみたいだった。

「今日はおうち?」

「おうち」

「私は夕方からバイト」

「わかった」

 ジャムもハチミツもメープルシロップもあるよ、と伝えておく。しらしらはいちごジャムを選んだ。

「おいし」と小さな声がして、ふくふくとやわらなか顔でもくもくと食べるしらしらを上目で見る。よかった、少しでもしらしらの元気になれたなら。

 私も二枚目にはいちごジャムを塗った。今度作るときはホイップクリームもほしいな。でも泡立て器がないので買ってこないと。クリームの上に缶詰のみかんをのせたらもっといい。

 二月から三月に渡る大学の春休み、家賃や生活費を稼ぐのとやりたいことをやるのに使う。時間も場所もあるのは母と叔父のおかげだ。ただ、広いおうちに住ませてもらっているのに、しらしらが来なかったら疲れを引きずったまま何もしていなかったかもしれない。ごはんを食べてほしい人がいるから食事の用意をしたくなるし、気持ちよく眠ってほしい人がいるから掛け布団を干そうと思える。

「りんご食べる?」

「たべる」

 しらしらがそう答えてくれるだけで軽く立ち上がることができる。くだもの食べたいなと思いながらも、切って皮をむいてと想像するだけで買うのをやめてしまうことがなくなった。自分も食べたいし食べさせてあげたい。食べてくれる人がいる。

 ずっしり赤いりんご、さっくり真っ二つにしたらおいしそうな甘いにおいが立ちのぼる。薄く赤い皮の中に、淡い光のような色がぎゅっとつまっているの、不思議だ。

 ひと口サイズのりんごたちがたくさんできたので、半分はとっておくために塩水につけた。もう半分はお皿の上、星が付いたアクリル製のようじを刺して持っていく。

「どうぞ」

「ありがとう」

 星をつまんでりんごを食べる。アクリル製のようじは何度も使えるし、かわいいから見るのもうれしい。

 ひと休みしたら、食器はしらしらが片付けてくれるというのでお願いして、私は洗濯しにいった。毎週なんとなく洗濯予定日を決めて、ぶつからないように洗濯している。

 おうちでだれかと長く一緒にいたかった反面、譲ったり譲られたりしながら生活するのはときどき大変と気がついた。大家族で暮らしていたらお手洗いやお風呂が渋滞しそう。でも、にぎやかなのは憧れる。

 ひとつひとつ干し終わってひと息つくと、腹の皮がはると目の皮がたるむ、と聞いたことがあるのを思い出した。もうひと眠りしたい。リビングの座布団を並べて、その上に毛布敷いて寝そべる。ちょっと眠気に抵抗しようと本を持ってきたものの、大きな動物の背中に横たわっているみたいな心地よさは眠りを誘ってくる。本を読めば読むほどたくさんの言葉で頭がゆったり重くなり、余計に眠くなった。そりゃそうか。本を閉じて、しらしらの小さな足音を聞きながらまどろむ。


 春に明良と大学構内を歩いていたとき、通りすがりのだれかを明良が朗らかな声で呼んだ。「しらしら?」と聞くと、「しろひら!」と明良が笑って、聞きまちがえたことに気がついた。しろひら、と呼ばれた人は「しらしらもいいね」と言った。前髪の隙間からのぞく目と視線が合った。落ち着いた色合いの服装をした静かな人だった。

 出会いであり再会であったこの瞬間は、どこかで見たことがあると思っただけで、心は小さなときめきで揺れるばかりだった。

「ゆのだよ。私たちと同じ高校出身」と明良が紹介してくれて、「ゆのさん」としらしらがつぶやき、「しろひらさん」と私が言った。

「ほんとはシラダイラだよ。白く平らかと書いてしらだいら」

 思い出しそうなのにどうも引っかかりを感じていたら、「新芽の芽に踊り字の同と書いて、芽々」とさらに明良が続けて、綺麗な箱にしまっておいたひとつの記憶につながった。

 高校生のとき、その名前を嬉しそうに何度も呼ぶ人がとなりにいませんでしたか。いつも明るく煌びやかに歩き回っていて、同じ制服なのに流星群のようにきれいだった。ひときわ輝いて、いつもとなりのだれかと笑いあっていた白平さんは、長い髪をくるくるにしたり、ふたつに結んだり、三つ編みにしたり、ありのまま風になびかせたりしていた。そしてたくさんの髪飾りをキラキラさせていた。

 髪飾りが大流行したとき、発信源だったのは白平さんたちだった。次第に広がって、付けたい人たちは男女問わず思い思いに飾りつけるようになり、私も心をわくわくさせながらラメが光る虹色のピン留めを付けたのだった。今もお気に入りのクッキー缶の中に入っている。

 時間帯によってほぼ全員が飾りをつけていないクラスがあり、そろそろ体育なんだなとわかったのはおもしろかったな。複数個付けている人は早めに外しておかないと着替えが大変そうだった。

 頭飾りをラメラメ光らせたり、花かんむりをかぶったりしている人たちが、ひらりひらりと歩き回っているのをみたときは強く惹かれた。「あの人たちがはじめたんだって」と友人が教えてくれて、それ以降も髪の結び方とかビーズのアクセサリーとか、そういう流行りものの中心でながれ星たちは光っていた。

 とくに長い髪が美しく、その人を「めめ、めめ」と親しげに呼んでいただれかがいて、二人は複数人の中でもとくに仲良しのようだったことを覚えているのは、三年間ほとんど一緒にいたふたりに見とれていたから。

 一学年につき六百人くらいいたので、同じクラスにならないまま、言葉を交わさないまま卒業する人も多かった。ながれ星の人たちもほぼ一方的に知っているだけだった。でもしらしらと私は出会っている。いつも煌めいていた人が一人で泣いていたところに、偶然、足を踏み入れてしまったのだ。

 白平さんは覚えてないかもしれないけど、とそのときは思ったのだった。覚えていないかもしれないけど、遠くにある私にとってのお星さまが泣いていたこと、ほんの少し言葉を交わしたことは、小さな宝物のような記憶になっていた。

予想もしなかった接近に、吸い込まれるような心地で近づいたのに、自分から離れていって、また、いつもの遠いところへ戻ったのだった。星のあとを追うなんて無謀で、私はただ眺めているだけでよかった。

「しろひらさん」ともう一度言ったら、「しらしら」と返ってきて、しらしらはゆっくり、まばたいた。「しらしらさん」と言い直したら、しらしらはちょっと満足気だった。

 明良としらしらはときどき一緒にいて、高校三年生のとき同じクラスになって以来の仲であると聞いた。覚えていないだけで流星群の中には明良がいたのかもしれない。私と明良は入学前の学科別説明会ではじめましてだった。

 よく時間が合って三人でいることが多くなると、しらしらは髪が長いことくらいしか高校生の頃と同じところがないと感じるようになった。飄々としていて笑っているのかどうかわからない。宝石みたいだったお星さまは、空高くうすく光っている天体になっていた。近いのに遠かった。

 やわらかい風を感じて、体がじんわり温かくなっていく。半分眠っているのだろう。しらしらはたぶん同じ部屋にいて、呼べばきっと返事をしてくれる。部屋をノックするより簡単だ。一人で静かにいることが多いので、部屋をノックするときはごはんとかお風呂とか生活に関係するときじゃないとためらう。あわてて会いにいくこともないし理由もないけど、家に人がいるとしゃべりたくなる。

 高校生のしらしらを思うと、私も高校生のような気持ちになって、まぶたの裏に描いた学校を歩き回ると職員室にたどり着く。高校生活で最も好きだった人がいる場所。今も好きではあるけど、私たちの卒業と一緒に辞めてしまって会えないから、好きだった人と言ってしまう。

 会えると思っていなかった人との関係は続いて、また会いにいこうと思っていた人はどこかへ行ってしまった。どこへ行ってしまったんですか、先生。

 先生を思う気持ちとしらしらを思う気持ちはすこし似ている。うれしいとさみしいを両方抱きかかえたまま、すんと立ちつくしているような感じ。ぼんやり、光の中で。


 ふと目をあけると、タオルがかかっていた。起き上がったらこたつ机のしらしらと目が合う。

「ごめん、暑かった?」

「ううん、あったかかったよ。ありがとう」

 しらしらのそういう優しさに触れるとうれしさがわっと広がるけど、すぐに落ち着いていく。まるで、ぐるりと舞ったキラキラが沈んでいくスノードームみたいに。そのまま静かになって、いつも通り近くも遠くもない。

 しらしらはノートと本をひらいている。リビングで書いているということは私が見ても平気であると前に聞いた。こたつに入って手もとに目をやる。

 本とノートを交互に見ながら綺麗な字を書いている。何の本かはわからない。句点まで書いて、ふう、とひと息ついたしらしらは、私のほうを見て「文章の練習」と言った。練習ということは自分で書く予定があるのだろうか。

私もまだ時間があるので、と本を読むことにする。文字の音がさらさらと流れ続けていた。


 日が傾いてきて出かける支度を始める頃、しらしらは自室に帰っている。曇りのせいで家の中全体がひっそりしているけど、自分の物音ばかりが響くことには慣れているから大丈夫。真冬と比べたらうす明るいほうだから、さびしくないよ。

 時間を確認してもこもこに着込む。靴を履いて玄関の鍵を開けたとき、ふと扉の音がして「いってらっしゃい」と声がした。振り返ればしらしらが顔を出している。何か作業をしていただろうに、そのひとことのために、わざわざ立ち上がってくれたんだ。

 ちょっと心がぽかぽかして、「いってきます」と笑う。

 おうちを出たあともあったかかったけど、時間が経ったら頭の中にぽうっと残るさびしさになりそうだと怖くなった。すーっと落ち着かせてしまいたくなる、でも、もう少し抱いていたい、せめて駅に着くまで。いってきます、とマフラーの中でもう一度つぶやいた。

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