第6話 廻る駅

 吾輩は猫のようなものである。しかし、本日限りは駅長でもある。

 吾輩のピンと立った三角の耳の上には、駅長の証である帽子が引っ掛かるようにして乗っかっている。

 この帽子以外に吾輩を駅長たらしめる要素はこの場所。つまり、駅しかない。


 ここは、「駅」という名前の駅である。


 駅駅ではない。駅である。""駅とも言えるし、「」駅とも言える。一見して、間違いが起きそうではあるが、それでも問題は起こり得ない。


 この世界に吾輩が主観で認知しうる駅はここだけなのだから。

 吾輩の世界に駅はただ一つなのだから。


 駅は古めかしく煤け、黒っぽく色褪せ、苔がぽつぽつと張り付く木造建て。ちょっとした待合室と庇がある程度の、小さく、狭く、こじんまりとしたものだ。レールも錆びついたものが一組通っているだけで、喫煙スペースも無く、キオスクも無い。駅の素因数と言った具合である。

 レールの両端は緩やかな弧を描いて、それぞれが真っ暗なトンネルの中に続いている。トンネルの出口はカーブの所為でここからは見えない。吾輩はその先が何処に繋がっているのか、実は知らないでいる。そして、この駅の何処にもそれは書いていない。


 トンネルの先を知るのは駅長である吾輩の役目ではない。その役目を負っているのは乗客である。


 今は霧雨が風に煽られながらシトシトと降っていて、絶えず蠢く雲間から差し込む陽の光を時折受けて光る。

 架線と白い碍子の間から時折パチッと弾けるような音がする。

 駅の間直に迫った崖上の木々からは、名前も知らぬ小鳥のさえずりがぼんやりと聞こえた。


 少し肌寒い、静かな朝である。霧雨はやがて雪になるのだろう。


 吾輩は駅長室の中。薬缶を載せてシューシューと寝息を立てるストーブの前で丸くなり暖をとっていた。部屋の中はオレンジ色の光が満ちていて、意外にも物が少ない。どうせ丸くなるのならコタツが良かったのだが、この部屋にコタツを置くと少々手狭だ。

 温まった体からは数分おきに大きな欠伸が、大きく開けた口からフワフワと出ていく。吾輩は駅長にも関わらず、それを隠そうともしない。それも至極当然の事。この駅には中々客が来ないからだ。

 そもそも、人がこの駅に目を向ける瞬間なんて一年に1回あれば良い方である。本日限りの吾輩の出番は、終日まで無い可能性だってある。そう思いながらウトウトと船を漕いでいるとホームにベルの音が鳴り響いた。


《――間もなく電車が参ります。黄色い線の内側でお待ちください。――間もなく電車が参ります。黄色い線の内側でお待ちください――》


 けたたましいベルの音と、大きなアナウンスの声で吾輩はビクッと目を覚ました。

 ……いや、寝てはいないのである。単なる比喩だ。

 吾輩は体を預けていたビーズクッションから、張り付いたかのように重い腰を四本の足でどうにか持ち上げた。それから、柔らかい肉球で小窓に付いた水滴を掃ってホームを覗いた。


 意外なことに、ホームには黒い人影がぽつぽつと並んでいた。改札口はうんともすんとも言っていないはずである。

 無賃乗車では無いかとよく観察してみたが、黒い人影はどんなに目を凝らしても、瞳孔を見開いても、霧雨の向こうで輪郭を曖昧にし、蝋燭の火のように揺らいでいた。奇妙なことに黒い彼らは霧雨など気にもしない風で、庇の外に立っていた。そして、本当は誰もいないかのように静かである。

 駅長室は暖かいままなのに、なんだか背中がぞわぞわとした。

 ……まあ、良いではないか。吾輩は今日限りではあるが駅長である。多少の問題は問題にならないことにしようではないか。それから吾輩は怖いもの見たさで観察を続けた。


 やがてトンネルの向こうから現れた電車が、霧雨を巻き込むようにホームに滑り込む。

 甲高いブレーキ音を立てて止まる。

 それから彼らの前で電車の扉が横に開くと、人影はぽつぽつと消え、消えた分だけ車両の窓の向こうに人影が増えた。

 その様子を駅長らしく見えるように毅然と眺めていると、ふと目に留まった一人の人影が吾輩に向かって手招きをした。

 招く方は猫であると相場が決まっている。何とナンセンスな乗客だと、吾輩は人影に向かって「nyぁー」と一言言ってやろうと思った。

 しかし、そんな気はあっという間に吹き飛んだ。


 吾輩はいつの間にやら車両の中にいた。


 不思議なことが起こったのである。吾輩は吾輩以上に不思議なことが起こることは無いと思っていたが、これは吾輩に差し迫るくらい不思議なことである。

 車両の中は先程まであれほどいた人影は微塵も無かった。あれほど不気味だった人影が消えてしまって、かえって不気味さが増している。

 これは先程とは違う車両では?

 そう思いもしたが、車窓の向こう側に見えるのは、確かに先程まで吾輩が居たオレンジ色の光で満たされ、暖かな駅長室である。


《――発車いたします。――次は、……駅。――次は、……駅。――》


 吾輩がポカンとしている間に電車は扉を閉じ、吾輩は次の駅へと移動を開始した。吾輩の憩いの場であり、任されていた場でもある4畳の駅長室はどんどんと遠くなり、やがて明暗の境目を電車が通り抜け、トンネルの入り口の向こう側になった。


――


 吾輩は白色灯の照らし出す車両内部を見渡した。やはり、人影は無い。しかし、吾輩足元のシートは薄く体温が残っていた。先程まであの人影は、人影達は、少なくとも乗客としてこの電車に乗っていたのだ。

 でも、どういう訳か分からないが、今では吾輩だけが乗客になってしまったようだ。乗客であれば駅長ではない。単純な対偶である。吾輩が駅長で無くなったのなら、この帽子はもういらない。頭を振って帽子を落とすと体が軽くなった。やはり、気ままな猫のようなものである吾輩にとって、駅長という責任は重すぎたのだ。乗客という役割の方が似つかわしい。


 さて、責任は無くなったが役目は回ってきた。乗客ならば、吾輩は行き先のことを考えなくてはならない。止まった駅長では考えなくても良かった、訪れてくる未来を考えなくてはならない。

 掠れたアナウンスからは次の駅名は聞き取れなかった。しかし、何かしらの駅であるとは聞こえたのだ。ここで問題になるのが、この世界の駅は吾輩が駅長をしていたあの駅ただ一つだけのはずである、ということだ。この電車は外の世界にでも繋がっているのだろうか。

 吾輩は丸い目を隈なく動かしたが、車両の中には吾輩が居た駅同様に、行き先の表示が一つも見当たらない。ただ広告だけが、文字高らかに、侵襲的に、人語と創意工夫によって彩られながらそれぞれバラバラな個を主張している。しかし、それが広告という概念の枠に収まった途端に群として見れてしまうのが不思議だ。

 広告は広告である。穴が開くほど覗いても、その中に吾輩が次に訪れるはずの駅の名前は載っていない。ともかく、車両の先頭へと向かおう。運転手なら知っているはずである。

 そう思い付くも、吾輩は致命的な問題を抱えていた。吾輩は猫のようなものである。当然人語は介さない。行き先を尋ねようにも尋ねられないのだ。


 吾輩が乗客としての役目を果たさんと、次の駅を把握する術を考えていると、電車はトンネルから抜け出した。再び明暗の境目を跨いだのだ。そして、車内は天井に整然と並ぶ白色灯よりもはっきりとした明かりで照らされる。


――


 最初に目についたのは、レールの両脇を取り囲むアーチのように、凛と咲き誇る淡い桜並木であった。電車が起こす風に煽られて大量の花弁が舞い上がる。それと同時に、吾輩は団子の匂いを想起した。吾輩は花よりも団子という言葉の正しさを知っている。食えぬ花より食える団子である。しかし、今は団子がないから花を愛でるのも悪くない。


 しかし、桜並木は瞬く刹那しか存在しなかった。電車は再びトンネルへと入り込む。


――――


 線路は先程からずっと同じ方向に曲がり続けていて、トンネルの出口は入り口から窺うことが出来ない。先の見えない道を電車はただ走り続ける。ただ、電車が運行している以上線路は続いているのだろう。行き先が分かっておらず、役目を果たしていない乗客であっても電車は勝手に進むのだ。

 吾輩は段々次の駅を知るということが馬鹿らしくなってきた。知らずとも進むのなら良いではないか。


――――


 再び車内は明るくなった。強烈な日差しが窓から差し込み、吾輩はその熱線で体毛が焦げるような錯覚がした。たまらず、暑さから逃れるように日陰になっていた隣の席へ移動する。通り過ぎる蝉の音が緊急車両のサイレンのように、伸びたり縮んだりを繰り返す。先程まで暗闇に覆われていた車窓には、遠く向こうまで広がる水平線と海岸が映っていた。吾輩の視界の右一杯から左一杯まで、どこまでも続く砂浜。そこには、緑と黒の縞模様からなる球が等間隔で無数に並んでいた。それはまごうことなきスイカである。

 吾輩はスイカを見るたびに人間の不思議さを考えずにはいられない。人間は他の哺乳類に見られない性質として、スイカを割る生き物である。食べやすくするために割るのならともかく、そこに利便性は求められない。食べやすくしたいのなら、包丁で切れば良いのだ。スイカは単に食べるものであって、割ることに一切の意味は無い。

 そこに意味を見出すのは人間くらいのものだ。これは吾輩の想像なのだが、そういった無意味に意味を見出し、見出した意味を含めてスイカ味わうのが人間の味覚なのだろう。

 吾輩は猫舌であるから、当然意味を味わう味蕾みらいは存在しない。そう考えると、なんだか損をした気分である。


 それにしても、暑い。熱い。暑い。

 全てが日陰で埋め尽くされたトンネルが恋しい。


 吾輩がちらりと進行方向を見やると、まだ先ではあるがトンネルが見えた。

 暫く暑さを誤魔化すためにシートを転々としたり、延々と続くスイカを数えたり、喚き散らす蝉に向かって吾輩も輪唱したりした。


 そうして、ようやくやって来たトンネルの入り口をよく見ると、トンネル入り口のてっぺんに銘板がある。吾輩が次に潜るトンネルの名前は「第三追儺トンネル」だそうだ。


――――――


 追儺とは何だっただろうか。どこかで聞いたことがある単語だ。吾輩は輪郭を薄くした記憶に取っ掛かりを求めて爪を伸ばす。しかし、思い出せない。

 不思議なもので考え事をしていた所為か、トンネルを通る時間はかなり短かった。暗闇の幕間はあっという間に終わる。トンネルなど無かったのだろうか。

 いや、トンネルは確かに存在し、同時に境目は確かに存在する。


――――――


 次に車両は周囲を深い山々に囲まれていた。なだらかな稜線に縁どられた紅葉は、普段のっぺりとした山に奥行きを作り出している。紅葉は狩られる存在である。しかし、手も出さずに狩られるとはどういう事であろう。

 狩られるにしろ狩られないにしろ、紅葉はいずれ落葉して土に還る。

 紅葉は還れたところで、吾輩は元の場所に帰れるのだろうか。まあ、どこに行こうが吾輩は猫のようなものであり続ける。大した問題ではないのかもしれない。


 電車は先程と比べて足早に次のトンネルへと突入した。このトンネルは「第四追儺トンネル」だ。ということは、吾輩がこれまで通過したトンネルはそれぞれ「第一追儺トンネル」と「第二追儺トンネル」であることは想像に難くない。


――――――――


《――間もなく、……駅に着きます。――お忘れ物の無いようにご注意下さい。――》


 さて、吾輩は結局ずるずると行き先の駅を知ることも無く、真相へと到着してしまうようだ。

 出たとこ勝負の吾輩の長かった電車旅はようやく一区切りである。ようやくとは言ったものの、要約のように短ったように感じる。

 アナウンスとは裏腹に、電車は中々トンネルの中から抜け出さない。吾輩は忘れ物が無いのか辺りを見渡した。でも、吾輩は何も持たずにこの電車に乗ったのだ。乗せられたのだ。忘れ物などあるはずも無い。しかし、喪失感だけは確かに残っている。


――――――――


 暗闇から出て、霧雨のカーテンにぶつかりながら、薄明かりの朝を電車は進む。

 見慣れた古めかしく煤け苔むした木造建ての駅が見えてきて、同時に見慣れた薬缶とストーブがあるオレンジ色の光が漏れる駅長室が見えてきた。


 ここは吾輩が出発した駅である。どうやら、駅を通るレールの右端と左端は繋がっていたようだ。そして、この線路は別の世界に繋がっている訳でも無く、ぐるぐると同じ所を廻っていた。吾輩にとって駅はただ一つだった。それは誰であっても変わらない。

 そう理解した瞬間、吾輩はこの唯一の駅に愛着が湧いた。


《――扉が開きます。――足元に気をつけてお降りください。――扉が開きます。――足元に気をつけてお降りください。》


 扉が開くと同時に真冬の冷たい空気が入り込む、吾輩は伸びをしてからそそくさと電車から降りようと扉へ向かう。

 扉から外へ踏み出した途端に気配を感じて振り返る。靄のような人影がいつの間にか車内を埋め尽くしていた。電車の内側にいた時は誰一人として居なかったはずだ。 でも、なぜだか納得できた。この電車は外から見ないことには分からないものなのだ。客観でしか、他人が乗った電車は見えないのだ。

 扉に近い人影が吾輩に向かって手を伸ばしてきた。その手には駅長の帽子が握られていた。帽子は再び吾輩の頭に乗っかった。

 吾輩は「nyー」と礼を言った。人影は手を振り返す。そして、扉は再び閉じられ電車は動き出した。また、この駅を目指して廻り始めるのだ。


 電車がトンネルに吸い込まれるよう消えるまで眺めていると、小さいクシャミが一つ出て、向かいにある崖で反響する。霧雨はいつの間にか雪に変わっていた。雪は地面に触れた端から溶けて、積もる気配はなかった。まあ、雪が積もって喜ぶのは犬の領分である。

 吾輩は冷たい地面に肉球を出来るだけ付けないように、急いでストーブと座布団のある温かい駅長室へ向かった。


 一日はまだ終わっていない。吾輩はまだ駅長なのだ。

 誰かの為に止まるその日まで廻り続ける、唯一の駅の駅長なのだ。

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吾輩は猫のようなものである ミスターN @Mister_N

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