同好会の夜

すごろく

同好会の夜

「いい肉が手に入ったらしいからさ、久々に同好会開こうぜ」

 電話口から、川崎の明るい声が響いた。

「また随分と急だな」

 蓋を開けたばかりのカップ麺の中身を三角コーナーに捨てながら、俺は言った。

「俺たちの同好会なんていつもこんなもんだろ。逆に予定決めてやる方がキモいだろ」

 それもそうだな、と俺はひとり勝手に頷いた。「同好会」に参加するようになって数年、予定を決めて参加したという記憶は一度もなかった。

「じゃあいつもの俺んちで待ってるから。場所忘れてないだろうな?」

「大丈夫だよ、まだボケてないから」

「そうかい、ほんじゃなるべく早くな」

 通話が切られる。プープーという情緒の欠片もない無機質な電子音を五回ほど聞いた後、俺はそっと受話器を元に戻した。

 点けっぱなしのテレビ画面にニュース崩れのワイドショー番組が映っていて、アイドル気取りのアナウンサーの嬉々とした声が垂れ流されている。

 右上端のテロップは、『魔装少女カリンちゃん、今日も大活躍』。

『――昨日もお台場にて怪人が出現しましたが、今回も魔装少女カリンちゃんが颯爽と登場し、早々と片付けてしまいました! しかも犠牲者はゼロ! さすがはカリンちゃん!これでカリンちゃんが犠牲者ゼロで怪人を倒した回数は、通算五十回となりました。これはカリンちゃんが所属する日本変身ヒロイン協会においても、創立してから類を見ないことで、日本変身ヒロイン協会の会長、オオトモ氏も、これは非常に喜ばしいことと表明し、カリンちゃんに功労賞を授与する旨の発言も行っています。ハヤシさん、これは本当に良いことですね』

 アナウンサーは饅頭みたいな顔の中年の司会者に、話を振る。

『そうですねえ、オオトモさんも言っていましたが、これは非常に喜ばしいことです。他の変身ヒロインたちも負けるかと躍起になっているそうですし、日本の未来は明るいですね。少なくとも、日本の怪人たちを完全に撲滅できる日も近いのではないでしょかねえ』

 司会者のそのにたにたとした面構えは、援助交際をしているときの中年男のそれにしか見えなかった。いや、援助交際をしている中年男の顔なんか見たことないが。

『それでは、この喜ばしいニュースを受けて、街の人たちがどんな反応を示しているのか見ていきましょう。VTRスター――』

 そこでアナウンサーの言葉を遮るように、俺はテレビの電源を消した。

 とっさに自分の股間に触れる。勃起はしていなかった。何度か深呼吸して、頬を少し抓った後、よれよれの上着を引っかけて、同好会の拠点こと川崎のねぐらに行くために、外へと歩み出た。氷を砕いたばかりのような寒さが降りてきた。


 川崎宅はさほど遠くない。近所の駅で列車に乗り、二駅ほど行った先で下りて、五分ほどぶらぶらと歩けば辿り着く。

 川崎宅は平屋建ての一軒家だ。わりかし古くて、木目丸出しの壁が煤を被ったみたいにほの黒い。元々川崎の両親が暮らしていたところだけれど、共々立て続けに亡くなってから、今は川崎一人が住んでいる。他に家族もいないし、狭くもなくて都合がいいからと、川崎は「同好会」の場所として、よく自分宅を指定した。他の誰かの家とか、ましてや外の店かなんかで集まることは、滅多にというか、ほとんどなかった。

 ろくに音も鳴らないインターホンは押さずに素通りし、不用心に開けっ放しの門扉を潜り、直接玄関のドアをだんだんと殴るように叩く。数十秒も経たないうちに、どたどたという騒がしい足音とともに、ドアは開かれる。

「よお、遅かったじゃん」

 ドアを開けた川崎はにっと笑う。川崎は歯が汚い。笑えば黄土色に黄ばんだ歯と赤黒い歯茎が見え隠れして、その毒々しいコントラストに、いつも「ああ、またここに来てしまったな」と、うんざりした気分になる。

「もう他の連中は来てるぜ」

 川崎は口内を見せつけたまま、廊下の奥を指し示して言う。

 俺は玄関で靴を脱ぎ、素足でぺたぺたと廊下を歩いた。足裏に、床がえらく冷たかった。廊下を抜けて、居間に入った。いつもの拠点だ。そこには川崎の他に、三人の人間がいた。これもいつもと変わらない「同好会」のメンバー。居間の中心にある炬燵机の、その上で白い湯気を噴き出しながらかたかたと小刻みに揺れる鍋を取り囲むようにして、そいつらはだらしくなく姿勢を崩して座っていた。その輪の中に俺も加わる。何本かのビール缶を抱えた川崎も加わる。これでメンバー全員。俺を含めて五人。

「そんじゃまずは乾杯な」

 川崎はメンバーそれぞれにビール缶を配った。ビール缶はよく冷えていた。

「はい、ということで、久々に同好会に乾杯!」

 川崎が音頭を取ってビール缶を頭上に掲げ、俺を含めたメンバーも川崎を真似てビール缶を頭上に掲げた。そのときには川崎はビール缶を下ろしていて、プルタブを開けると、そのままぐびぐびと飲んだ。喉ぼとけが忙しなく上下しているのが見えた。

「げふっ。で、鍋は煮えたか?」

「うん、もう煮えたと思う」

 俺の隣に座っているメンバーが、ちらりとタイマーを見ながら言った。吉田だ。吉田は川崎の幼馴染で、何でも小学生の頃からの付き合いなのだそうだ。この「同好会」を立ち上げたのは川崎だが、それに初めに参加したのはこの人だったらしい。といっても、俺はそれ以上のことは知らない。どこに住んでいるだとか、何をして金を稼いでいるのだとか、電話番号とか、何も知らない。知りたいとも特に思わなかった。

 川崎が手袋も使わず、ティッシュ一枚で鍋の蓋を取る。「あつっ、あつっ」と大袈裟にリアクションしながら蓋を上げると、凝縮された湯気の塊がぼわっと立ち昇り、霧散した。

 鍋の中身は、豆腐、ニラ、しめじ、まいたけ、白菜、人参、何かの肉――。鍋汁は半透明で、普通の市販の寄せ鍋のもののようだった。

「いい肉ってこれ?」

 俺が訊ねると、うんうんとなぜか満足げに川崎は頷いた。

「そうそう、今回も笹山が持ってきてくれたんだよ。なあ?」

 川崎が顔を向けたのは、俺のちょうど向かいに座っている男だった。そいつ――笹山は何がそんなにおかしいのかへらへらした笑みを口元に貼りつけている。笹山も川崎の友人らしく、俺はこいつが学生なのか会社員なのかも知らない。ただ顔を合わせるたびに胡散臭くにやついていることと、実家がとある肉の加工工場であることだけは知っていた。主に「同窓会」での食料、とりわけ肉を用意することは、この男の役目のようだった。少なくとも、こいつ以外のメンバーが、何かしら食い物を持ってきた憶えはない。もちろん俺も含めて。

「さあさあ、食おうぜ」

 川崎が箸を鍋の中に突っ込んだのを皮切りに、それぞれ取り皿に具材を放り込んで、ずるずると麺でも啜り上げるように口の中に入れ、咀嚼した。肉は硬くも柔らかくもなく、また豚のような牛のような味がした。よくわからなかった。普段インスタント食品ばかり食べているものだから、舌が馬鹿になってしまったのかもしれない。

「旨いなあ。笹山さ、毎度毎度サンキューな」

「いやいや。ただ実家から送られてくるだけだから。兄貴が猟師やっているのもあるし」

 よりいっそ嬉しそうににやにやしながら笹山は言った。じつをいうと笹山に兄がいることを知ったのは、今初めてだった。

「へえ、お兄さん猟師? 猪とか鹿とか狩ったりするの?」

 吉田が感心したように訊ねると、笹山は首を傾げるような仕草をした。

「それが、僕もあんまり知らなくて。狩るんじゃないのかな? わかんないけど」

 なんとも要領を得ない返答だった。

「じゃあこりゃ一体何の肉なんだよ」

「そりゃあれだよ、何かの肉だよ」

 笹山が答える前に、川崎が割って入る。

「いやいや、だからその何かが何なのかを知りたいんだけども」

「一応は毒ではないんだろ」

「ああ、うん。――たぶん猪の肉、だと思います」

 ワンテンポ遅れたような笹山の返答に、吉田は軽く呆れているようだった。

「たぶんってなんだよ、たぶんって。不安だなあ」

「死にゃしないんだからいいんだよ」

「まあそうだけどさあ――猪の肉ってもっと臭みとかあるんじゃないの?」

「下処理が上手くできれば臭みはないよ」

 それまで黙っていたメンバーの一人が口を開いた。そいつは根岸といった。

「おう、そういや根岸、お前最近小説の連載決まったらしいな」

 話の矛先を変えるように、川崎がここぞとばかりに根岸に声をかけた。根岸は伏し目がちに、なぜかネギばかり入っている受け皿を覗き込みながら、こくりと頷いた。

 根岸は趣味で小説を書いている。普通の小説ではない。一般的には官能小説に分類されるだろうが、そうかと訊かれれば首を傾げる。彼が書いているのは、いうならば変身ヒロインピンチ小説だ。それだと長いから、略してヒロピン小説というやつだ。変身ヒロインが敵に負けて、拷問されたり犯されたりする類のやつだ。そしてそれはこの「同好会」ひいてはその参加者であるメンバー全員の趣味でもある。小説なんて書けるのは根岸だけだが。ともかく根岸は書いた小説をインターネットに投稿しているらしくて、それなりに人気もあるらしい。それが高じてか、エロ系の文芸誌のいくつかに読み切りの依頼などを受けて書いたりもしているという話を、以前川崎から聞いていた。

「へえ、ついに連載か。どこの雑誌?」

「――四条社のヒロインタイムス」

「あそこかあ。あそこの最近の路線あんまり好きじゃないんだけどなあ。でも根岸が連載するなら、久しぶりに読んでみるかねえ」

 川崎と吉田が嬉しそうに笑う。俺は根岸の小説を読んだことはなかった。書いていることは知っていたけれど、読もうとしたこともあったけれど、結局今に至るまで読んでいなかった。それで抜いてしまう自分を想像すると恐ろしかった。おかしな話である。どんな内容かも知らないのに。俺はその居た堪れなさを飲み込むように、受け皿の底に溜まる鍋の汁を飲み干す。

「そういやさあ、お前らあれ見た、あれ。ラブキャンディーの――」

「ああ、ミコトちゃんのやつですか?」

 川崎の問いかけに、笹山がすぐに反応する。ラブキャンディーとは、日曜日の朝にやっている女児向けアニメである。ある日不思議な力に目覚めた少女が、異世界から来る悪の組織と変身して戦うというよくある内容。それの主人公の本名がミコトといった。

「それそれ。あれ良い線いってなかったか? あの巨大化した敵の握り締め。ありゃ最近の女児向けアニメの中じゃなかなかだったと思うよ」

「おー、確かにあれは良かったな。声優が良い演技してた。三回ほど抜いたぜ」

 吉田が缶ビールを片手に持ち上げながら同意する。続いて笹山が口を挟む。

「うーん、確かに女児向け作品としては良いシーンなんですけど、僕には今一つですね。もうちょっと内臓が潰れたり骨が折れたりしてくれたりしたら良いんですが――」

「女児向けでそれは無理だろ。ほんと笹山の趣味はハード路線だな」

「ハードってほどじゃないと思うんですが。別に腸や脳が飛び出るわけじゃないですし」

「そこまでいったらグロじゃん。ヒロピンってのは美しさを留めていてこそだよ」

「まあそれは人による。死体描写に興奮する人もいるし」

 ネギを噛み切りながら根岸が言う。

「死体には興奮できないなあ。やっぱ悲鳴とか上げてくんないと」

「そうですか? 僕は結構死体でもいけますよ。怯えた表情で絶命してるとなかなか――」

「ああ、表情なあ、表情ならわからんでもない」

「声ももちろん決め手の一つですけどねえ。個人的にはやはり濁った感じの声が一番です。逆にきゃあみたいな可愛い感じの鼻にかかった悲鳴はあんまりそそられませんね。必死感がない。普段可愛い声からの濁った悲鳴は最高ですけどね」

「そういうのは上手い声優と下手な声優がいるよなあ」

「あれとかもったいなかったね。ほら、去年やってた世界で一番強い私ってやつ」

「あー、それめっちゃわかる。あれ本当に惜しかったよな。シーンやシチュエーションは良いの多かったのに、声優の棒演技のせいですべて台無しになってたからな」

「別にあの声優自体は特別下手くそってわけではないんだけどね。むしろ声優歴は長いし。ただまあやられ演技は擁護のしようがなく下手くそだったね。たぶん監督とか演出とかの演技指導も悪かったんだろうけど」

「本当になあ、最近のクリエイターどもはヒロピンってもんをわかってねえやつ多すぎだろ。ラブキャンディーだって十年はやってるけど、年々ピンチシーン減っていってるじゃん。前回の握り締めシーンは最近じゃ奇跡みたいなもんだよ。深夜アニメとかだってそうだぜ。女はやられずに、男ばっかやられてやがる。フェミだかポリコレだか知らねえけどさ。男はいいから女殴れよ。殴ったとしても一瞬でカットしやがるしさあ――」

 延々と愚痴を続けそうな吉田を、笹山が遮る。

「まあまあ、今夜は愚痴はやめて。好きなことを語りましょうよ、好きなことを。そうだな、初めて興奮したヒロピンシーンとかどうです?」

「ああ、それなら俺はあれだわ、ブレザームーン。特にブレザーオレンジがエロくてなあ」

「あれですか。あれは多いですねえ」

「お前は?」

「僕はミラクルマンですね」

「え? あれ男じゃん」

「ぶっちゃけ最初に興奮したのはあれだったんですよ。徐々に女キャラへとシフトしていきましたけど。ほら、ミラクルマンって微妙に身体のラインが女性っぽいじゃないですか。だから他のそういうシーンを知らなかった子どもの頃はめちゃくちゃ興奮したっていうか。それにミラクルマンを女体化した二次創作もネットでは盛んですし」

「それ、僕も書いた。かなり人気あるよね」

「ほへえ、そういうもんか。根岸は?」

「僕は同人誌。マリハレの二次創作の」

「マリハレかあ。あれダークな魔法少女ものだったわりに良いシーン少なかったよな」

「なんか演出面に凝ってて、ヒロピン的な描写は薄い感じでしたよね。精神ダメージの描写とかはめっちゃ多かったですけど」

「僕は精神的なやつも結構いけるけどね」

「俺はダメだわ。精神ヒロピンじゃ勃たねえ。すぐにうじうじしたり絶望したりする主人公も嫌だし。ヒロピンってのは真っ直ぐで諦めない主人公が手も足も出ずにぼこぼこにされるから良いんだろ。精神ダメージは邪道だよ、邪道」

「まあ、こんな性的嗜好に王道も何もないだろうけどね」

 根岸の表情が、笑みを浮かべるように僅かに歪んだ。楽しんでいるのか、呆れているのかは、俺にはさっぱりわからなかった。

「お前はどうなんだよ、さっきからただにやついてるけど」

 吉田が唐突に矛先を変えた。一瞬俺に声をかけたのかと思ったけれど、俺は笑ってなんかいなかった。吉田が声をかけたのは、俺の隣に座る川崎だった。川崎は、盛り上がる三人の会話を、自分は参加もせずに微笑みながら眺めていた。

「え? ああ、何の話だっけ?」

「いや、聞いてねえのかよ。お前さ、この同好会を開いてくれるのは有り難いけど、いつもあんまり話に加わらないじゃん。そんで男三人の下品な会話をにやにやにやにやと。気持ち悪いっての。ホモかよ」

「ホモだったらどうする?」

 川崎は冗談めかして言った。吉田は苦笑いのような表情を浮かべて、首を振った。

「絶交する」

 吉田の言葉に、川崎は突然げらげらと笑った。

「大丈夫、大丈夫。ホモじゃねえよ。というかお前が一番よく知ってるだろ」

「知ってるけど気持ち悪いのは変わんねえから。それよりもお前はどうなんだよ。なに見てヒロピンに目覚めたんだ?」

「あー、俺はあれだよ、戦隊もの。なにレンジャーだったかは忘れたけど。それのピンクだかイエローだがそういう女の隊員な、そいつらがやられてるのでシコったのが最初だよ。あれは理屈じゃないね、本能だよ。何であれに興奮したのか説明しろって言われても説明なんか出来ん。まあそれはお前らも変わらないと思うけど」

 川崎の言い分に、笹山が大袈裟にぶんぶんと頷いた。

「そうですよ! そうなんですよね! 理屈じゃないんですよ! まさしく男の本能なんですよね! こう、支配欲が満たされる感じというか。あれはもう生物的な何かですよね!」

 それに対して、吉田は少し首を捻った。

「支配欲ってのはなーんか違う感じもするけどなあ。別に現実で女を殴りたいとか考えたこともないし。支配欲っていうより――加虐欲? でも直接手を下したいわけじゃなくて、こう、傍観者だからこその快感というか――あーめんどくせえ、とにかく性欲だよ、性欲。一緒だろ。結局のところ興奮して精子出すために追い求めてんだから」

「まあそういうのも人それぞれだね。セクシャルマイノリティの問題と同じだよ。完全にカテゴライズ化するのが無理。こっちはあれほど深刻なもんじゃないし、あれほど理解を示そうとしないといけないものでもないけどね。むしろ理解されたらおしまいなくらい」

 吉田の言葉に続くように、根岸が自嘲的に笑いながら、話をまとめるように言った。

 川崎も吉田も笹山も根岸も和やかに笑っている。鍋から溢れ出る湯気が、蜃気楼みたいにそれらを包み込んでいる。唐突に、その膜を破る声がした。

「――並べるなよ、俺みたいなゴミと」

 ――それを言ったのは、たぶん俺だったのだろうと思う。俺以外の四人が俺の顔を見ていた。盛大に転んだクラスメイトを見るような目で。

「あ、ごめん」

 慌てて謝ったが、四人は相変わらず目を皿のようにして俺のことを見ていた。

「――大丈夫だよ」

 数秒ほどして、誰かが静かに言った。諭すような穏やかな口調だった。たぶん川崎の声だと思う。俯いてしまっていて、はっきりとはわからなかった。

「誰だって、そんなことはわかってるよ」

 背中を撫でるような声を耳にして、俺は顔を上げた。もう誰も俺のことを見てはいなかった。吉田も笹山も根岸も、何事もなかったかのように、次のヒロピン談議に花を咲かせていた。川崎は、そんな三人の様子を、変わらずに微笑みながら眺めていた。

 俺はただその光景を、遠巻きに薄ぼんやりと見つめていた。笑いも泣きもせずに。

 鍋の中身は、もうほとんど空だった。


 日曜日の昼過ぎだった。テレビの前だ。その頃、俺は小学一年生になったばかりだった。母は日課の買い物に、父は休日出勤で出かけていて、家にいたのは俺だけだった。テレビは映っている。ニュース番組だ。アニメやドラマではない。れっきとした現実のニュース番組だ。黒っぽい服を着たレポーターが、なにか沈痛な面持ちで喋っている。そのレポーターがいるのは、公民館のような――いや、公民館なんかよりも遥かに大きい、ライブ会場ほどの――建物の中だった。壁中に白と黒の縞模様の幕が張られている。奥には祭壇のようなものが設置されていて、たくさんの色とりどりの花々がその祭壇のようなものを取り囲み、それを華やかに飾り付けている。その祭壇のようなものの方を向くようにして、多くの折り畳み式の椅子が広げられて設置されている。パイプ椅子よりも高価そうな感じの――。

 カメラが移動したのか、画面の中の映像が動く。椅子の群れをすり抜けて、祭壇のようなものへ近寄っていく。祭壇のようなものの中央部には、一枚の写真が、黒縁の写真立てに入れられて立てかけられていた。そこには、一人の人物が笑顔で写っていた。

『――アニーは――皆さんの幸福と平和のために――偉い――本当に――残念――大きな損失――我々は――日本変身ヒロイン協会は――世界中から――葬儀――出席――』

 画面の中の映像はこんなにも鮮明だというのに、音声の方はノイズまみれだった。

 急に股間が熱くなるような感覚を覚えた。血が身体の底へと沈殿して、中心へと寄せられていくような感覚だった。恐る恐る見下ろした。何かがズボンを押し上げていた。わかっていた。何がそうしているのか、わかっていたのだ。でも最初、俺は自分の股間に昔から生えているそれが変化したもののようには思えなかった。別の何かが今突然生えてきて、ズボンの上から無理やりその存在を主張しているかのように思えた。俺はそれを確かめるために、ズボンを下ろした。パンツも下ろした。ウインナーでも詰め込んだようにぱんぱんに膨れ上がったそれが見えた。はみ出した杭のように突き出していた。新しいものなんてなかった。それは昔から生えているものだった。昔から見慣れているはずのそれは、見慣れない姿へと変貌していた。筋のようなものを浮き出させて、どくどくと脈打っていた。

 そっと触れた。死にかけの蛙を握ったときのように、手のひらにじっとりと貼りついた。びくびくと震えるそれは、独立した別の生命体のようだった。汗と埃が混じったような匂いがした。ゆっくりと包み込んで、少し揺らすと、股間に集まった熱がふつふつと頭の方へと上がってくるのがわかった。風呂に浸かっているような熱だった。のぼせるまでぼんやりしてしまうような熱だった。俺はさらに激しく揺らした。どんどん熱は高まっていって、それと同時に、身体の奥から切迫感のようなものがせり上がり、そして気づいたときには、白い線がぷつんと途切れるイメージとともに、その先端から粘ついた液体をぶちまけていた。小便とは違う、白濁したローションみたいな液体だった。それが床の上にぶちまけられて、こびりついていた。腐った栗みたいな匂いが鼻腔の奥を突っついた。

 段々と熱は下がっていった。身体の中に風が通り抜けていっていたような気分と同時に、

錨のようなわだかまりが胸の奥へと沈み込んでいくような感触があった。

 ニュースは、すでに別のものに切り替わっていた。

 俺はもうテレビなんて見ていなかった。床の上で干乾びていく液体と、見慣れた頼りない姿に萎み戻ったそれを見ていた。

 窓から差し込む日光が、いつもより暑かったことばかりが印象に残っている。


 鍋の湯気はもうなかった。かたかたというあの小気味良い音もしなかった。しかし静かではなかった。炬燵机の中に下半身を潜らせたまま、大口を開けて眠る吉田のいびきが、時計の針の音だとか蚊の羽音だとかそういう日常の雑音を掻き消していた。

「まったく、こいつはいつもこうなんだよ。うちに来ると、酒をたらふく飲んでそのまま寝やがる。こっちは泊めるつもりもないっていうのに、勝手なやつだよ」

 台所の方から、水を入れたコップを二つ携えた川崎が戻ってきて、苦言を呈するような調子で言った。そのわりには、いかにも愉快そうな口調だった。

 川崎が俺の前に持ってきたコップの一つを置き、もう一つを自らの口に傾けた。

 俺はコップを持ち上げ、少しだけ水面を覗き込んだあと、ゆっくりと水を喉に流し込んだ。冷たい感触が胃へと落ちていった。

「あー、やっぱなんだかんだでただの水が一番旨いわ」

 コップから口を外した川崎が一息つくように言った。

 笹山と根岸はすでに帰っていた。先に帰ったのは根岸だった。「夏休みの宿題は早めに片付けておきたい主義なんだよ」と、根岸はそう笑って帰っていった。あれはつまり、「仕事で依頼されている原稿を、締め切りよりもずっと前から片付けておきたいから、もう帰る」ということだったのだろう。それからしばらくして、笹山も帰っていった。根岸は帰ったあたりからちらちらと自身のスマホを確認していたようだけれど、あるタイミングであからさまに急用が出来たというような顔をして立ち上がった。「どうした?」と吉田が訊ねると、「ちょっと親の仕事を手伝いに」と笹山は答えた。「こんな時間に仕事? お前の親って肉を加工する工場のあれだろ。こんな夜中になにやってんだよ」と吉田が疑問を呈すると、笹山は曖昧に苦笑して、「まあ家の雑事みたいなもんですよ」と、あまり要領の得ない答えを返した。どうにも胡散臭かったけれど、「まあまあ、あんまり人んちの事情を詮索するもんじゃない」と川崎が宥めてきたため、吉田もそれ以上追究しなかった。そのまま笹山はへこへこしながら帰り、俺と川崎と吉田が残った。話し相手が減った吉田は酒を飲むペースを速め、いつの間にかへべれけに酔っ払い、ごろんと寝転がると、数秒もしないうちに特大のいびきを掻き始めた。川崎は「いつものことだから」と笑い、その次に「水飲みたくないか? 持ってこようか?」と俺に対して言った。俺がその言葉に甘えて頷くと、川崎は台所へ行き、そして今こうやってコップに水を入れて持ってきてくれたのだった。

 川崎は「よっこらせ」とわざとらしく言いながら、俺の隣に座る。アルコールとトイレの芳香剤の香りが混じったような匂いがする。

「――別にさ、無理しなくてもいいんだぜ」

 ――それが自分に向けられた言葉であることに気づいたのは、数秒ほど要してからだ。瞬時に答えられず、「えっ」と素っ頓狂な声が口から漏れた。川崎は俺の方を見て、はっきりした声で、もう一度「無理しなくてもいいんだぜ」と言った。

「無理しなくてもいいって――え? なに? 何のこと――」

「だって今日、お前ほとんど喋ってないじゃん」

 意図を掴めずに戸惑う俺に、川崎はそう言葉を重ねた。

「あ? そりゃ、あ――」

「今日だけじゃない。この前もその前もあんまり話さなかったろ?」

 川崎の口調は別に責めるようなものではなかった。むしろ半笑いで、冗談を言っているような調子だった。それでも俺は心の深部を射られたような気持ちになって、自分の太腿を見るように俯いた。川崎は構わずに喋り続ける。

「いや、別に怒ってるわけじゃないって、そんでもちょいと辛そうだったからさ、無理して来なくてもいいって言ったんだよ。あ、来るなって言ってるわけじゃないし、お前がいると楽しくないなんて言ってるわけでもない。お前がここに来る理由もわかってるよ。お前じゃない俺が言っても説得力はないけどさ。お前がここに来ちゃう理由も、わかっているつもりだよ。本当は、来たくもないってこともさ。俺もそうだから」

 そこで俺はようやく顔を上げた。

「自分もって――お前が呼んでんじゃん」

 そう口に出したから、すぐに良くないかと思って続きの言葉を引っ込めたが、川崎は特に気を悪くした様子もなく、どこか寂しげに笑った。

「誰だってさ、安心したいもんだろ? 俺がやってるのはそれだけのことだよ」

 川崎はそれっきり黙った。俺も続きを訊ねようとは思わなかった。

 しばらくまた延々と吉田のいびきが空間に流れたあと、川崎が再び口を開いた。

「なーんかお互いだんまりだと辛気臭いな。テレビでも点けよう」

 川崎はわざとらしくそう言うと、机の上に無造作に放り出されていたリモコンを手に取り、部屋の隅に静かに佇んでいるテレビに向かってボタンを押した。埃まみれのテレビ画面に映像が映し出される。

「あー、もう深夜だから、変なバラエティかニュースしか流れてねえなあ」

 川崎はいくつかチャンネルを回したのち、深夜ニュースを垂れ流しているチャンネルで止めた。その頃、俺には急に湧いた眠気が迫っていて、少し意識を曖昧にさせながら、うつらうつらと舟を漕ぎ始めていた。しかし、波はすぐに止まった。原因は、ちょうどテレビから流れてくるニュースアナウンサーの声らしき音声だった。

『――スノードリームさんが、本日未明に行方不明になったとの情報が――』

 俺は再び顔を上げて、テレビ画面を注視した。冴えない顔のアナウンサーの後ろに、女性の写真が映されている。白いドレスのような衣装をまとった、同じく白く長い髪の、目鼻立ちの整った女性が笑顔で写っていた。

「ああ、この人のニュース、今朝からやってんなあ」

 川崎がのんきな口調で言う。

「あれ? お前、この人のこと知らなかったっけ?」

 食い入るようにテレビ画面を見ていた俺に気づいたらしく、川崎はそう訊ねてきた。俺が答えないでいると、川崎はひとり勝手に説明を始めた。

「この人、最近人気絶頂の変身ヒロインだったのになあ。如何にも正統派美人って感じで、戦い方も本当に名前の通り優雅で。未だに負けなしだったのになあ。惜しいよなあ」

 川崎の口調は、ちっとも惜しそうではなかった。むしろ学芸会の脚本を練習もせずに読んでいるような棒読みだった。

 俺は川崎の声を鼓膜の中に素通りさせて、変わらずその女性の写真を見ていた。そして俺の口からふと――何でそんなことを言おうとしたのかわからない、わからないけれど――。

「今日の笹山が持ってきてくれた肉さ」

 ――俺よりも先に、川崎の口からそれは飛びだしていた。

「旨かったよな」

 川崎は同意を求めるように、俺に向かって笑った。俺は――俺は笑い返したかったけれど、口元は引き攣るばかりで、結局また、顔を下へと落とした。

 脳裏では、先ほどのスノードリームの写真が遺影のあの額縁に嵌っている。それは真っ白な祭壇の一番上に置かれていて、視線を落とすと、その下には大きな皿が置かれている。その上には綺麗な赤みの肉が扇状に並べられている。それは女性の血のような色をした、女性の肌のような肉だった。魔法の香りがする肉だった。こんなにも美しいのに、その肉は穢れていた。どうしようもなく不潔で、でもそれはどうようしもなく極上で、俺はそれを知っているから――知ってしまっているから、そろりそろりと手を伸ばす。素手で引っ掴んで、焼きも煮もせず、口の中に放り込む。舌の上でどろっと溶けて、歯の裏に一部が貼りついて、喉の奥へと流れていく。胃の深部へと沈んでいく。俺はもう行儀の悪い猿のように肉を両手で鷲掴みにして、絶え間なく食らっていく。無限の背徳感と優越感と一緒に。肉が皿の上から消えることはない。その代わりのように、いつの間にか遺影は塗り潰されていて、もう誰なのかわからない。俺はただ食らう。獣だった頃に戻って、ただ食らう――。

 俺はそっと、自分の股間に触れた。勃起していた。休まることなく、俺を貫いていた。

 夜は構いもせずに進んでいく。誰かのいびきと、邪な夢とともに。

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