15. 間章 〜森と海との間で 〜 後編
少年は彼女の遠縁らしく、何やら人間社会の厄介事から身を潜めるために、しばらくその屋敷の一角に滞在しているらしい。やがて数日の間に、少年はことあるごとに彼女を訪ねるようになっていた。
「こんにちは。今日は何をしているの?」
「本を読んでいたの。かいぞくってすてきよね!」
「……そうなのかい?」
「そうなの。七つの海をまたにかけて財宝をみつけたり、すてきな女性と結婚するのよ!」
目をきらきらさせて言う彼女に少年は苦笑する。実際のところ、海賊は貿易国である彼女の国にとっては頭を悩ます存在だ。彼女の父親が聞いたらなんと言うことだろう。
「君も海賊と結婚するのが夢なのかい?」
「そうね、そうできたらすてきだわ! わたしも船にのってみたい!」
「面白いね。普通、女の子は王子様が好きなのかと思っていたよ」
「おうじさまってなに?」
「……王様の子供だよ」
「おうさまってなに?」
そこからか……と少年は苦笑する。この国は公国で、王はいない。かつてはいたそうだが、遥か昔に王から疎まれた公爵が民を引き連れて隠棲したのが国のはじまりだという。であればこそ、王という存在を知らなくても無理はない。そういう物語が図書室から意図的に排除されているのかも知れないが。
「国を治める人だよ」
「じゃあおとうさまと同じね。そうねなら王さまや王子さまもすてきね」
「どうしてそう思うんだい? 一番偉いから?」
「王さまってえらいの? おとうさまはこうしゃくはみんなを笑顔にするために働くのがおしごとだっておっしゃってたわ。とってもすてきじゃない?」
みんなが笑顔になると、私も嬉しいもの、と何の衒いもなく言う少女に、少年は何かを決意したかのように膝をつく。
「じゃあ、私が王様になったら、君は私と結婚してくれる?」
「あなたもみんなを笑顔にするって約束してくれる?」
「……ああ、必ず。君がそう願うなら」
「おねがいね」
「それが叶ったら、君を迎えにきてもいいかな?」
膝をついてそう尋ねる少年に、少女は思案顔になる。あっさり頷くかと思っていたのに、とリィンは意外な思いで続きを見守る。
「そうね、そのときに、まだわたしに好きなひとがいなかったら、いいわ」
だって、と彼女は続ける。
「わたしのいちばんの夢はかいぞくのおよめさんだもの!」
えっへんと胸を張って言う少女に、少年は思わず声を上げて笑ったが、まさかそれが現実のものとなるとは、この時は誰も思ってもいなかったのである。
その後すぐに故国の政争が激しさを増し、決意を胸に秘めて戻った少年はその波に呑まれて行った。どうしてだか気になって、時折隣国まで覗きに行った。なぜかリィンが訪れると、だいたい彼は命の危機に陥っていた。見過ごすわけにも行かず、風の力でなんとかその危機を回避させていたが、むしろ常に彼が命の危機に晒されているのではないかと気づいたのは随分後になってからだった。
それから数年の間、最も彼の身辺に危険が満ちていた時期、リィンはほぼアレクシスの側にい続けることになった。その日々がどれほどの苦難に満ちていたか、リィンほどよく知るものは他にいないだろうと思われるほどに。
だが、その間に幼かった少女は少年のことなどすっかり忘れて幸せに育ち、やがて苛酷な己の運命を知る時を迎えた。ある程度、アンティリカの情勢が落ち着いたことを見極めてリィンは少女のもとへ戻ったが、青年となった彼は未だ戻らず、少女は一人で旅に出た。
最初の旅はそう長くはならなかったが、彼女は自身で選び取った運命を見つけてしまったようだった。リィンは森と公国を行き来しながら少女を見守り続けた。そうして気がつけば、彼女のまっすぐで強いその本質に強く惹かれていた。
振り返れば精霊王の思惑通りに嵌められたような気がして何やら気に入らないが、それでも選び取ったのはリィン自身だ。彼女自身が望むなら、たとえ相手が海賊紛いの男であろうと道案内をしてやるほどに——とはいえ、もちろん相手の資質を見極めた上での選択ではあるのだが。
そんなことを思い返しながら、アレクシスを眺めていると、ようやくこちらに気づいたのか、穏やかな笑みを向けてくる。
「昼寝はもういいのかい?」
「別に寝てたわけじゃない。アレクシスこそ、休まなくていいのか?」
「私はゆっくりさせてもらっているからね」
「……どうして、ジュリアーナをもっと早くに迎えに来なかったんだ?」
ずっと疑問だったことを直裁にぶつけると、さすがにアレクシスも目を丸くした。
「彼女は言っていたはずだ。好きな人ができる前なら、迎えにきてもいいと」
「どうしてそれを……」
驚いた顔で口元を押さえていたが、やがてため息をついて肩を竦めた。
「君は、本当に精霊なんだな。あの子をずっと見守ってきた……」
「ずっとじゃない。でも、あなたとジュリアーナの出会いは知ってる」
「どうして……」
「わからない。王は私にジュリアーナを見守るように言った。でも、私は人間を見守るなんてまっぴらごめんだった」
たまたま彼女の存在を思い出し、好奇心から彼女の様子を見に行った。そこにアレクシスがいたのだ。そして、彼と彼女に明らかに普通とは異なる絆を感じたのだ。なのに、彼女が選んだのは、海賊ではないまでも、彼に比べれば遥かに粗野な船乗りだった。王と船乗りを秤にかけて、後者を選ぶなど、普通では考えられない。彼女の性格を思えば、そう驚くことではないのが困ったところだが。
「たまたま様子を見に行ったら、そこにあなたがいた。ジュリアーナはまだ幼かったからそんな約束なんて忘れていたかも知れない。でもあなたは覚えていたはずだ」
あの日を境に、明らかに変わったアレクシスの気配は、彼女と同じくらい精霊のリィンにとっても眩しかった。側にいた日々で、より惹きつけられるほどに。
「私だってもっと早くに迎えに行きたかったんだけれどね」
彼の故国の情勢はそう易々と治められるようなものではなかった。先代の王は政治に興味がなく、国庫を蕩尽した。王国の富の基盤であった多くの鉱山は管理が行き届かず、貴族たちへの賄賂で利権を得たごろつきたちの争いの場となっていた。政は行き届かず、民は疲弊していた。
「話せば長くなるが、彼女との約束を果たすまでは会えないと思っていた。そして、なんとか果たせたと思ったときにはもう……」
それ以上は言葉にせず、アレクシスはただ肩を竦めた。
「それでも、あなたはここにいる」
「執念深い性質でね」
本人が言うほどに、彼が腹黒ければよかったのに、とリィンは思う。彼の狂おしい想いは、それでもそこに陰りはない。ただひたすらに真っ直ぐに彼女を想っている。だからこそ国を空けてまで彼女を追ってきた。ジェイクとのことを知りながら、それでも助力するために船に乗り込んだ。
「あなたみたいなのを極めつきのお人好しっていうんだ」
そっぽを向いてそう言うと、アレクシスは改めて真っ直ぐにリィンの方を向き、少し不思議そうに首を傾げる。
「君は、私のことをよく知っているような口ぶりだな」
「知ってる」
幾度も命の危機に晒されながらも、国と民のために戦い続けた。大切な人々を失いながらも、たった一つの想いを貫くために。
——彼女が選んだのが、アレクシスならばよかったのに。
不意に、アレクシスが驚いたように目を丸くして、それからリィンの頬に触れてくる。
「なぜ、泣いているんだい?」
「精霊は泣いたりしない」
だが、確かにアレクシスの手は濡れている。
「私のために、泣いているのか?」
「そんなわけない」
首を横に振ったリィンをアレクシスがそっと抱き寄せる。初めてのその温もりはなぜかとても心地よかった。
「君が悲しむ必要なんてない。これは、私自身が選んだことだから」
それでも、両眼からこぼれ落ちる涙は止まらなかった。
この想いをなんと呼ぶのか、リィンはまだ知らなかった。
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