16. 海賊の島

 カンカンカン、と高い鐘の音で目を覚ました。どれくらい眠っていただろうか。既に日はかなり傾いている。寝台から起き上がり、急いで衣服を整える。これほど海の上でぐっすり眠ったのはいつぶりだろうか。


「寝過ぎたな」

 いくら休息の短い日が続いたとはいえ、前後不覚になるほど眠りこけるなど、船乗りとしてあってはならないことだ。ついでに空になったワインの瓶を見やり、思わず頭を抱えたくなる。いくら疲れて酔っていたとはいえ、やり過ぎた自覚がある。した行為も、その後の自分の言葉も全て覚えているから却ってたちが悪い。さらにはユーリの返答さえも。


「あーもう……」


 出会って間もないと思っていたら、もっとずっと前から出会っていた。それを知った途端、あの時、もっと話を聞いていればよかったと思った。たった十四歳の少女が髪を自ら切り落とし、たった一人で家を飛び出し船に乗ってきたのだ。当時、何を思っていたのかもっと自分にできることがあったのではないか。もっといえば、あの時に捕まえていればよかったと詮ないことを思った。


「まあ、あの時に女だと知ってたらそれはそれでヤバかったか……」

 それでなくとも彼から見れば、随分と歳の離れた相手だ。

「何だかなあ……」

 そんなことを思い悩んでいる場合ではないはずなのだが。頭を振って、上着を羽織り、剣を腰に帯びると船室を出る。太陽はもう後わずかで夕陽に変わるほどに傾いている。そして、船首の向こうには島影が見えていた。舵の横に歩み寄ると、一人で舵を握っていたアレクシスがこちらを振り向いた。

「少しは休めたかい?」

「というか、寝過ぎた。島影が見えたら鐘を鳴らせと言ったはずだが……途中、凪にでもあったか?」

「どういうわけだかね。ぴたりと風が止んでしまって二時間ほど足止めを食ってしまった。まあそのおかげで、彼女もゆっくり休めたようだし」


 視線の先を追うと、ユーリが船尾からこちらに歩いてくるところだった。船室から出て行ったから、てっきりアレクシスと共にいるものだと思っていたが、船尾で休んでいたらしい。それならば船室に引き留めておけばよかった。固い床の上ではゆっくり休むこともままならなかっただろう。そんな想いを読み取ったのか、アレクシスは片眉を上げて笑う。


「一応、毛布を差し入れておいたよ。ぐっすり眠っていたから彼女も気づかなかったようだけれどね」

「あんた本当に……」

 どれほど広くて深い心の持ち主なんだ、とは声に出さずにおく。あえて虎だか竜だかの尾を踏む必要はない。

「悪かったな」

「何に謝っているんだろうね?」

 含みのある言葉に、両手を上げてこの場は降参の意を示す。何を言っても藪蛇にしかならない。

「何をしているんだ?」

 不意に現れた金の髪に、思わず身を引くと、ユーリが怪訝そうな顔をする。その表情はいつもと変わらないというのに、あの一連の自分の行為を思い出してしまい、思わず視線をそらして口元を手で覆う。

「……ジェイク?」

「船長、あの島に寄っていくんだろう? そろそろ舵を代わってくれるかい?」

 挙句、恋敵に助け舟を出されるという醜態にさらに頭を抱えたくなったが、日が暮れ始めているのを見て意識を切り替える。日が沈んでしまってからでは隠された港に入るのも一苦労だ。いつまでも煩悩に振り回されている場合ではない。


 舵を操り、島の南側の切り立った崖の間から、船を滑り込ませる。真っ暗に見えたその先には、華やかな灯りが連なっていた。

「これは——」

 側に寄り添ったユーリだけでなく、アレクシスとリィンまで驚きに目を瞠っている。自分が初めてこの島を訪れた時のことを思い出し、ジェイクはニヤリと笑って芝居がかった仕草で右手を上げる。

「ようこそ、海賊たちの宴の島へ」

「本当に、あったんだ……」

 呟く声に目を向けると、ユーリがいつになく目を輝かせている。

「あんたが海賊の根城に詳しかったとは初耳だ」

「彼女の夢は、海賊と結婚することだからね」

「どうしてそれを⁈」

 珍しく真っ赤になったユーリに、アレクシスがくつくつと楽しげな笑い声を上げる。この状況だけを見れば、なんとも楽しげな船旅だが。

「ともかく、俺は一旦下りて、食糧と水を仕入れてくる。あんたたちは船の上で待っててくれ」

「食糧と水なら十分にあるだろう?」

 すかさずアレクシスが指摘する。仕入れるのが食糧だけでないことは、伏せておきたかったのだが。

「あとは、情報だ」

「なるほど?」

 含みのある言葉は二人分。やれやれとため息をついたが、こればかりは譲れない。

「いいか、この先の海域は俺にとっても未知の領域だ。情報を仕入れる必要がある、それ以上でもそれ以下でもない」

 そう言ったのだが、二人とも納得しかねるようだった。

「あのなあ、言っただろう。ここは海賊たちの島だ。あんたたちみたいなのが来るところじゃねえんだよ」

「海賊たちの根城なら、さぞ素晴らしい美姫たちがいるんだろうね?」

 面白そうにアレクシスが口を挟む。ちらりとユーリの表情を伺ったが、特に変わらない。気になっているのはそこではないということらしい。

「私もなれない船旅で疲れたみたいだ。少しくらい陸に上がって休みたいんだが、だめだろうか?」

 明らかに前半部分に疑問の残るところはあったが、愛しい相手に上目遣いに「お願い」されて断れる気力は、今のジェイクにはなく、天を仰いでただため息をつくしかなかった。


 とりあえず、ユーリとリィンに外套とフードを被らせ、船を下りる。それから港の管理人——元締めと言った方が正しいか——に幾ばくかの銀貨を渡して預けておく。海賊たちの根城とはいえ、船は彼らにとっても何より大切なものだから、金さえきちんと払えば無闇に手出しをする者はいない。

「俺は酒場に行ってくる。今夜は船には戻らないから、あんたたちは適当に見て回ったら先に船に戻っていろ。間違っても宿屋に泊ろうなんて考えるなよ」

「どうしてだい?」

「身ぐるみ剥がされてもよけりゃ止めないがな」

「安全な宿は?」

「あんた一人で泊まるのか?」

「私もついていく」

 突然口を挟んだのはリィンだった。船を下りてからも、そういえば一言も口を聞かず、随分大人しいと思っていたのだが。

「何だって厄介事に首を突っ込もうとするんだ、お前らは……」

「こんなところに来られるのも一生に一度かもしれないだろう?」

「……この先の道を真っ直ぐにいた突き当たりの右に『金の兎亭』って店がある。そこにしておけ。この辺りじゃ一番初心者向きの店だ。とはいえ気を付けろよ。特にリィン、お前だ」

「彼のことは私が責任を持って見ておくよ」

「子供みたいに言うな!」

「お前ら、いつの間に仲良くなったんだ……?」

「うるさいっ!」


 声と共に、鋭い風が頬を掠めてまた彼の黒髪を何本か散らしていった。そのままアレクシスの腕を引っ張って雑踏の中へ消えていく。


「何だありゃ」

 側に取り残されたユーリも呆気に取られているようだった。

「あんた、何か知っているか?」

「いや……」

 彼女のことも二人に任せるつもりでいたのだが、完全に当てが外れた。まあそれはそれで良いかとユーリの肩を抱いて歩き出す。

「ジェイク?」

「こんなところで迷子にでもなられちゃ困るからな」

 予定は狂ったが、情報を集めなくてはならないことには変わりがない。あまり深く考えるのはやめにして、雑踏の中へと踏み込んだ。



 馴染みの店の扉をくぐり、奥の比較的静かな席に座ると、すぐに派手な声が降ってきた。

「おやジェイク、随分と久しぶりじゃないか」

「マディ、相変わらず声がでかいな」

「こんなにいい女を捕まえて第一声がそれかい?」

 ばんばんと背中を叩いてくる女主人にユーリが目を丸くしている。ここを訪れるのは半年ぶりだから、まあ久しぶりだと言っていいだろう。ちらちらとこちらに目線を送ってくる馴じみの女たちもいるが、連れている相手を窺っているのか声をかけてくる者は今のところいないようだった。

「とりあえず何か食いたい。それから、ヒューゴの野郎はいるか?」

「あいつなら、ほらそこの奥でカードでまた巻き上げられてるよ」

「……やれやれ。マディ、俺は奴と話してくる。ちょっとこいつを頼むな」

「何だい連れをおいて楽しもうってのかい?」

「そんなんじゃねえよ。まあ頼む」


 すぐに戻る、とユーリに声をかけてそのまま奥へと進む。テーブルを囲んでいるのは四人。そのうち三人が見知った顔だった。頬と額に傷のある赤ら顔の男が真っ先に声をかけてくる。

「よおジェイク。しばらくぶりだな。羽振りがいいって噂は聞いてるぜ」

「ヒューゴ、生憎と俺はそんな噂は聞いたことがねえよ」

「よく言うぜ、自分の船を手に入れたんだろ、船長さんよ?」

「おかげさんでようやく借金を返し終わったところだよ」

「あとはじゃあ増やすだけだな」

「だといいが」

 とりあえずテーブルについている全員に酒を奢っておく。

「ありがてえな。新進気鋭の船長に乾杯」

 がつんとゴブレットを合わせて乾杯する。しばらく近況などを話し合ったあと、本題に入る。

「ところで北の海だが、最近何か話を聞いてないか?」

「ああ?『船の墓場』か? 何だお前もついにあそこに挑戦しようって酔狂な連中の仲間入りか?」

「まあ、そんなところだ」

「やめておけ。つい一月前にも船が沈んだばかりだ」

 それまで陽気に飲んでいたヒューゴは、だが急に真顔になってそう言った。ジェイクも表情を改めて頷く。

「その話だが、もう少し詳しく聞きたい。実際何が起きたか知っているか?」

「そうだな……。助かった連中の話だと、急に空が暗くなって、雷が落ち始めてマストが折れたって言ってたな。それで甲板から船底まで穴が空いちまったらしい」

「それだけか?」

「あとは恐ろしい唸り声だとか、でかい影を見たとかなんとかって言ってたが、まあ嵐の中じゃ風が唸るし、マストが折れたなら帆が化け物に見えるってのはよくあることだしな」

「つまり……」

「よくある嵐に巻き込まれて船が沈んだってだけさ」

「だが、そいつらだって素人ってわけじゃなかったんだろう?」

「そこだな。そこそこの経験の船乗りなら嵐は初めてじゃねえはずだ。だが、船がやられちまったらどんなに歴戦の船乗りだってできることは、ほとんどねえ。嵐が来そうなら近づかない。万が一嵐に巻き込まれちまったら、すぐに帆を畳んでやりすごす」

「雷は?」

 問いかけたジェイクに、ヒューゴはただ肩を竦めた。

「海の真ん中で雷雲に遭っちまったらあとは自分の強運に賭けるしかねえな」

「強運……ねぇ」

 ちらりと少し離れた席を見やると、フードの後ろ姿は変わらずそこにあった。

「久しぶりに賭けてみるか?」

「……ああ、そうだな。試してみるか」


 しばらくそのままカードの卓を囲んで、いくらかを巻き上げて元の席に戻ると、ユーリはフードを被ったまま、一人で席に座っていた。

「何だ、マディの奴、相手をしてくれなかったのか?」

 声をかけるとゆっくりとこちらを見上げてくる。

「忙しそうだったから、私は一人でいいと」

「悪かったな」

 向かいに座って、もう冷めてしまった料理に手をつけると、ユーリが問いかけてくる。

「聞きたいことは聞けたのか?」

「まあな」

「そう……か……」

 ほんのわずかな違和感を感じながら、テーブルの上のワインの瓶からグラスに注ごうと持ち上げると、それはすでにほとんど空だった。

「あんた、まさか一人で飲んだのか?」

「だって、あなたが戻ってこないから」

 食事にもほとんど手をつけていない。空腹の状態でこれだけ飲んだとしたら、相当回っているはずだ。酒場の暗い灯りのせいで気づかなかったが、その顔を近くで覗き込めば、眼元は仄かに赤く染まり、潤んでいる。このままだと眠ってしまいかねない。


 ——昼間の自分のように。


 船に連れて戻ることも考えたが、その方が厄介そうだった。

「……マディ、一部屋頼む」

「今夜は高いよ?」

 既に状況を見てとったのか、吹っかけてくる構えだ。立ち上がると、先ほどヒューゴから巻き上げた小さな宝石が入った袋をマディに放り投げる。

「これなら足りるか?」

 袋の中をのぞいたマディはにんまり笑って鍵を投げてよこす。

「一番奥を使いな。あとで食事も運んでやるよ。特別サービスだ」

「ありがとよ」

 そのままふらつくユーリの肩を抱いて階段を上がろうとしたが、面倒になってそのまま横抱きに抱え上げる。

「ジェイク……?」

「いいから大人しくしてろ」

 そう耳元で囁くと、素直に体を預けてくる。仄かに香るワインの香りにくらりと目眩がした。階段を上がり、突き当たりの扉を開けて寝台にユーリをそっと下ろす。部屋の鍵をかけて寝台の脇に戻ると、ユーリがこちらを見つめていた。

「大丈夫か?」

「すまない」

「何、あんたを一人にした俺が悪かった」


 机の上にあった水の瓶を口に含み、唇を重ねる。最初は躊躇っていたが、やがて諦めたのか、口を開き、水を飲み干した。確認してから深く口づける。ゆっくり貪るように深く口づけを繰り返しているうちに、するりと胸元のシャツの紐が引き抜かれた。一度離れると、ユーリが悪戯に成功した子供のように微笑んでいる。


「さっきと逆だな」

 表情は子供のようだが、潤んだ瞳と濡れた口元はジェイクの理性ををあっさりと焼き切っていく。

「俺を煽ったら、ただじゃすまないともうわかっているだろう?」

 シャツを脱ぎながら、外套を剥ぎ取る。びくり、とユーリは震えたが、ジェイクの首にその白く美しい腕を絡めてくる。

「あなたが欲しい」

 昼間に自分がかけた言葉と同じ言葉を返される。

「……からかうつもりなら、相手が悪いぜ?」

「私はいつだって本気だ」

 あなたこそ、と続ける。

「私を置いてこんな店に一人できて、本当は何をするつもりだったんだ?」

 酔っているせいなのか、やや眼が据わっている。それでも上目遣いにこちらを見上げるその眼差しと、その言葉から伝わる嫉妬はジェイクをさらに煽る結果にしかならなかったのだが。

「……ワインに何か薬でも入っていたのか?」

「かもしれない。体が熱いんだ……ジェイク」

 切ない声で名を呼ばれ、ジェイクは内心で完全に白旗を上げる。

「泣いてやめろと言っても、今夜はもう止まらないからな、覚悟しておけよ」


 さっきだってやめてくれなかったじゃないか、という抗議はこの際無視しておくことにした。

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