17. 北へ

 ふと目を覚ますと、まだ外は暗かったが寝台にジェイクの姿はなかった。起き上がろうとすると、ぐらりと目眩がしてそのままもう一度寝台に倒れ込む。


「……頭が痛い」

「飲み過ぎだ」

 暗がりからかけられた声に目を向けると、ジェイクが隣の部屋からこちらに歩いてくるところだった。

「まあ、俺は楽しませてもらったから構わないがな」

 そう言って額に口づけられる。カップを差し出す表情は甘く優しい。そういえば体が重いが、昨夜の記憶がほとんどないことに気づいた。

「あの……?」

「どこまで覚えてるんだ?」

「あなたが奥のテーブルに話をしに行って……それからワインをたくさん飲んだ気がする」

「そこまでか?」

 やれやれ、とジェイクが深いため息をつく。それから、人の悪い笑みを浮かべながら軽く口づけられた。

「これからあんたが飲むときは、目を離さないようにしよう」

 呆れたように、それでも蕩けるような笑顔で告げられる。一体何をしでかしたのか不安になったユーリに、だがジェイクは笑ったままそれ以上話そうとはしなかった。


 明け方、船に戻ると、リィンが舳先に座っているのが見えた。

「リィン?」

「ジュリアーナ……」

「アレクシス様は?」

「下の船室で寝てる」

 ふいとそっぽを向いてそう答えるその横顔は、いつもよりさらに幼く見える。

「……何かあったの?」

「別に」

「そう……」

 それ以上聞くのもなんだか憚られて、そのまま海を眺めていると、舵の方を見やっていたリィンが急にこちらを向いて真っ直ぐに見つめてくる。

「ジュリアーナはあんなやつのどこがいいんだ?」

 問う表情はなぜかとても不機嫌そうだった。

「どこ……と言われても」

「アレクシスはずっとジュリアーナのことを想ってた。昔のことは覚えていないかもしれないけど、再会してからもアレクシスはずっとジュリアーナのために、ジュリアーナを救うことしか考えてなかった」


 それでも、心を動かされなかったのはなぜか、とリィンは重ねて問いかけてくる。改めて問いかけられて、自分でもなぜだろうかとふと考えてみる。確かにアレクシスは初めの印象こそ最悪だったが、以降何度も公爵邸に足繁く通うようになってからは、彼の真摯な想いを感じることができた。

 父も彼について何かを知っているようだったが、本人が話さないならと教えてくれようとはしなかった。ユーリ自身には記憶にないが、十七歳で出会った時よりも前に、彼に会ったことがあるらしい。それでも、どうしてそこまで、という問いには一度も答えてもらえなかった。それに——と思う。


「私は救ってもらいたいと思ったことはない。アレクシス様にはアレクシス様の責務がある。本来なら、彼の時間を私のために使うことなんて許されないんだ」

「許さないって誰が? アレクシスはジュリアーナが好きなんだ。だからジュリアーナと一緒にいたい、あなたを救いたい。それがそんなにいけないこと?」

「いけなくはない……と思う。でも、例えば、リィンはジェイクがあなたを好きだとしたらそれを受け入れられる?」

「絶対に無理」

 全力で顔をしかめるリィンに、ユーリは思わず吹き出す。

「そういうことだ。自分が選んだことしか受け入れられない、人も精霊も、それは変わらないだろう?」

 彼女はジェイクに出会ってしまった。もし彼に出会う前に、アレクシスに出会っていたら、何か変わっていただろうか? そうは思えない。アレクシスは王だ。

「アレクシスが王なのがダメなのか?」

「だめではないけれど……」

「アレクシスは、ジュリアーナのために王になったのに」

「……え?」

「まあ、でも選んだのはアレクシスだから、仕方ない……のかな」

 リィンはそれからぶつぶつと何かを呟いていたが、ふいとそのままマストの上の方にするすると上がっていってしまった。リィンがアレクシスを気にしているのはわかるのだが、その理由がわからない。だが、リィンも話すつもりがないようだし、今は考えても仕方がなさそうだ。

 そう判断すると、ユーリは舵の前に立つジェイクの側へ歩み寄った。


「もう出航するのか?」

「まあな、だがあのちんちくりんの話も聞いておきたい。そういえばあいつどこ行ったんだ?」

 無言でマストの上部を指差すと、ジェイクはやれやれとため息をついた。それから軽々とマストをよじ登っていく。さすがは手慣れたものだ。自分でも登ってみようかと思案しているうちにジェイクが身軽に飛び降りてきた。

「早かったな……。話は済んだ?」

「ああ、行き先はわかった。この先の北の海、『船の墓場』を抜けてさらに北ヘ行く。その先に、竜の島があるらしい」


 どくん、とユーリの心臓が跳ねた。公爵領を旅立った時から、いつかその時がくるだろうと思ってはいた。リィンの話を聞いて、さらに覚悟を決めたつもりだった。だが、自分の命がかかった未知への旅は、それほど心躍るものではないらしい、と自嘲の笑みが洩れた。


「大丈夫か?」

 目線を上げると、真剣にこちらを気遣う眼差しとぶつかった。頼れる人の存在に救われる思いと同時に、そろそろしっかりしなければと気持ちを改める。これは、誰でもないユーリ自身の旅だ。この先、何が起こるかわからないからこそ、いつまでもジェイクやアレクシスたちに甘えてばかりはいられない。

「ああ、少し風に当たってくる」

「……落ちるなよ?」

「わかってる」

 笑って頷いて、東側の甲板に立つ。手すりにもたれて海を眺めていると、海面から浮かび上がってきた太陽があたりを黄金色に染め上げ、やがて、穏やかな青を取り戻していく。風が心地よく吹き、船は順調に滑り出したようだった。


 生まれた時から港を見下ろす崖の上の屋敷で育ったが、船に乗ったのはたった一度きり。公国から出ることは許されなかったので、海にまつわる神話や海賊の冒険譚、はては船乗りたちの日記まで、あらゆる海にまつわる書物を読み漁っては、高台から船を眺めて、いつか海に出られるだろうかとそんなことばかり考えていた。

 海に惹かれるのは公爵家に代々伝わる血のなせるわざらしく、一月以上の家出から戻った彼女に、父は何も言わなかった。母は短くなった髪を見てショックを受けた様子だったが、いつも通り笑いかけるとほっとしたように笑みを返してくれた。兄たちはその旅について知りたがったが、どこから話すべきかを考えているうちに、結局話さずじまいになってしまった。深く追及しないのも兄たちなりの優しさだったのだろう。


 船は風を受け、真っ青な海を切り裂くように進んでいく。この辺りで一番速い、と言っていたジェイクの言葉は嘘ではないようだ。振り返って舵の方を見上げると、鼻歌でも歌いそうに楽しそうな顔が見えた。本当に海が好きなのだ。そういえば、四年前に会った時も、その若さで皆から揶揄からかわれながらも随分頼りにされているようだった。

 あの時、もし全ての事情を話していたらどうなっていたのだろうか。いずれにしても、十九歳までに公国を旅立たねばならなかったのだ。それがあの時でもよかったのではないかと今なら思える。公国を離れ、船員見習いとして世界中を航海する。とはいえ、どこかで女だと知られて船から叩き出されて終わりだっただろうが。


 だが、そもそも、当てのない旅は彼女には許されていないのだと知ってしまった。竜の島へたどり着かなければ、彼女は死ぬ。リィン自身も詳細は知らないようだったが、死だけは避けようがない、と。なぜ、と改めて思う。なぜ公爵家の娘として生まれただけで、そんな運命を定められなければならないのか。為政者の家系に生まれた者として、民を守るためにそれが必要だとわかって、納得もしていたはずだ。だが、いざその運命の時が近づくにつれて、疑問は膨らんでいく。せめて、その運命が避けようがないというのなら、理由が知りたい。


「……そうか、私は知りたかったんだ」


 ずっと、運命だからと受け入れようとしてきたはずだった。だが、まったく納得していない自分がいたことに、今初めて気づいた。四年前ふらりと家出した時も、この花の月に旅立った時も。ずっと何かを探していた。ジェイクに出会った時、見つけたと思った。それは初めて運命に抗った証だった。ずっと自分を閉じ込めていた公国から、海へと飛び出した。初めての船旅は知らないことだらけで、戸惑うことばかりだったが、それでも楽しかった。海を眺めているだけでも、わくわくしたし、ジェイクと知り合ってからは遠慮なくいろいろなことを聞いたり手伝ったりできるようになった、たった半月だったが、あの旅のおかげで、世界が広いことを改めて思い知った。


 ——そう、世界はこんなにも広いのに。


 どこかへ旅立たなければならないのなら、好きな場所へ行けばよかったのだ。竜の島など目指さずに。けれど、運命を知ってしまった今、もう彼女には他に選択肢はない。

 手すりを握り締めて、舳先のさらに先に広がる海と空を見つめる。今はその空には一点の曇りもない。それでも、運命が彼女の死を望むというのなら。

「私は、あらがってみせる」

 彼女の決意に呼応するかのように、強い風が吹く。強い光をその双眸に浮かべて空を見つめる彼女をリィンがマストから静かに見つめていた。



 それからまた半月ほどが何事もなく過ぎた。空は晴れ渡り、追い風が船を先へ先へと運んでいく。ジェイクは時折舵をアレクシスに預け、小島を見つけるとそこで夜を過ごした。船から降りることは基本的になかったが、追い風のおかげで予定の半分ほどの日程で行程のほとんどが過ぎようとしていた。

「明日には『船の墓場』だな」

 今夜も進路上に見つけた小島から少し離れた場所で錨を下ろして船を止めている。甲板の一番高いところで乾燥させた肉と果物を肴にワインを瓶から呷っていたジェイクがふとそう呟いた。

「早かったな……」

「そうだな。もう少しゆっくり進んだ方がよかったか?」

「いや……」

 早かれ遅かれたどり着いてしまうのであれば、さっさと済ませてしまった方がよい、とは口には出せなかったが、ジェイクは察したらしい。空いている手で彼女を招き寄せ、その肩を抱く。大きな手から伝わる温もりが心地よかった。

 ジェイクは、それ以上何も言わず、ただそのままワインを飲み続ける。ユーリは何かを言おうと口を開きかけたが、それでも言葉を見つけられず、結局そのまま口を閉じてしまった。何を言っても弱音か言い訳になってしまいそうだった。今更逃げることはできない。そもそも何が待っているかすらわからないのだ。疑問も恐怖も全て飲み込んで、明日を待つしかない。

 頭をジェイクの肩に預けると、ジェイクはそっとその額に口づける。空には一点の曇りもなく、半ば欠けた月と満天に広がる星々が空を明るく彩っていた。


 不意にその月に影がよぎったような気がした。雲ひとつなかったはずの空にみるみる雲が湧き立ち、黒く埋め尽くしていく。ジェイクもすぐに気づくと立ち上がり、舵へと駆け寄った。空はいまだ暗い。先日の嵐のような異常な色はしていないが、雲に埋め尽くされた空はからは驟雨しゅううが降り注ぐ。アレクシスとリィンも船室から飛び出してきた。

「船の墓場はまだ先じゃなかったのか……?」

 ずぶ濡れになりながら叫んだアレクシスに、ジェイクはただ首を振って、帆をたたむように指示する。雨はどんどん強さを増していく。ユーリも何とかジェイクたちの方に近づこうとするが、甲板はすでにずぶ濡れとなり、下手に動けば足を取られそうだった。逡巡しているうちにまた轟音と共に稲光がすぐそばの小島に立つ木を直撃する。あまりの衝撃に思わずユーリは膝をつきそうになり、慌てて船縁を掴んだ。もはや豪雨というよりは、滝が降り注ぐような雨に動くことさえままならない。


「アレクシス、リィン、帆はあとでいい! まずユーリを……」


 ジェイクが叫ぶのが聞こえたが、最後まで言い終わらないうちにもう一度、耳をつんざくような雷鳴が轟く。同時に旋風のような強風が吹き、大きく船が揺れた。ぐらり、と平衡感覚を失ってユーリは自分の体が宙に浮いているのに遅れて気づいた。

 このままでは叩きつけられる、と衝撃に身構えて思わず目を瞑ったが、痛みの代わりにやってきたのは風を切り裂くような大きな羽音だった。それから唐突に浮揚する感覚と、全身に痛みを感じる。強い風と全身の痛みを堪えて目を開けると、降りしきる雨の中、船が遥か下方に見えた。

「……何?」

 そうして、ようやく自分が何か巨大なものに掴まれているのに気づく。それは黒い大きな鉤爪を持つ獣の手だった。雨と風が一層強くなる中、何とか身をよじって仰ぎ見ると、同時に雷鳴とともに稲光が空を切り裂き、ユーリは自分を拘束しているそれが何かをはっきりと見た。


 それは巨大な獣だった。全身は黒い鱗で覆われ、額には二本の銀色の角がある。顎から首筋にかけてはやや青みがかった銀色の肌をしている。ユーリを握り締めている指には大きな鉤爪があり、下手に動けばあっという間に切り裂かれそうだ。さらに、あまりの大きさに感覚がおかしくなりそうだったが、それはユーリをしっかりと握り、どういう力の働きなのかさほど羽ばたきもせずに宙に浮いている。


「……竜……?」


 その声が聞こえたのか、一瞬その巨大な顔がこちらを見下ろし、稲光を映すその双眸が彼女の眼差しを捉えた。だが、竜はふいと視線をそらすと、大きく翼をはためかせた。その体に比べて翼は大きいが繊細なほど薄い。どうしたらこの大きな体をこんな翼で浮かせることができるのか。

 混乱する頭でそんなことを考えているユーリをよそに、竜は彼女を掴んだままもう一度大きく羽ばたくと一度船の周りを旋回し、そのまま北を目指して飛翔し始めた。船は遠く、そこに残された人たちの安否を知ることはできなかった。


 嵐は続いていたが、竜はものともせずに凄まじい速さで飛んでいく。顔や体に叩きつけられる雨と風が、徐々に、だが、確実にユーリの体力を奪っていく。朦朧とし始める意識を何とか保ち、飛んでいくその先を見つめ続ける。何時間そうして飛んでいたのだろうか。もはや意識を保つだけで精一杯だったユーリの耳にふと低く心地よい声が届いた。

「間もなく着く。もう少しだけ耐えろ」

 目線を上げると、ちらりと竜がこちらを見遣ったが、すぐに視線を外される。問いかけようとして、だが直接尋ねるのはなぜか憚られて、ただ視線を前に向けると、渦巻く波と風の果てに大きな島が見えてきた。嵐は一際激しさを増しその唸りは耳をつんざくほどだというのに、いつのまにか叩きつける雨も風も届かなくなっていた。

「……魔法?」

「もう降りるぞ、口は閉じておけ」

 ぽろりと呟いた彼女に、どこか不機嫌そうな、それでもやはり心地よい声が告げる。大人しく口を閉じてじっとしていると、一際強い風の壁を越え、やがて竜はその島に降り立ち、ユーリを拘束していた手を解く。支えを失った彼女はそのままその場に膝をついた。全身が冷え切って目眩がする。だが、あたりを見回すとそこは暖かく、そして花の香りに満ちていた。月明かりに照らされて輝く白い花の咲く木は月光樹だろうか。立ち上がる気力もなく、その場でぼんやりしていると、竜がばさりと羽ばたいた。そうして、ゆっくりと告げる。


「ようこそ、竜の島へ。風の娘よ」


 同時にふわりと暖かい風が彼女を包む。様々な花の香りの混じったその風が一体何なのかを知る間もなく、彼女の意識は闇にのまれていった。

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