18. 嵐を越えて

 突然現れた異形の獣は、その鉤爪のある手でユーリを掴むとそのまま空高く舞い上がり、雷鳴と豪雨をものともせずに北へと飛び去っていった。声を上げる間もなかった。嵐の中、舵を御するのに精一杯で、彼女の表情を見ることさえできなかった。何をおいても彼女の元に駆けつけておくべきだったと後悔しても遅い。

 自失しそうになる自分を叱咤し、まずはこの嵐を乗り越えることを考える。高波に攫われそうになる舵を押さえ込み、船を何とか前へと進める。転覆してしまえばあとは海の藻屑だ。彼女をあのままにして、自分だけが死ぬわけにはいかない。


「何をすればいい?」

 そう尋ねてくるアレクシスはずぶ濡れで顔色は真っ青だったが、それでも決意を顕にしている。おそらく、自分も同じような顔をしているのだろう。

「……帆を頼む。このままだと風に煽られたらお終いだ」

「わかった」

「それが済んだら、そこの船室に引っ込んでてくれ。ひどい顔だ」

「鏡が必要かな?」

 不敵に笑う王に、肩を竦めて顎でマストへ急ぐよう促す。彼もそれ以上軽口を叩こうとはしなかった。


 それから数時間、かつて体験したことがないほど荒ぶる舵をなんとかなだめ、嵐と戦い続けた。アレクシスとリィンも帆を畳み、水を掻き出し、何とか船を維持するためにあちこち走り回っていた。始めはその姿を追っていたが、次第に舵を握るだけで精一杯になっていった。


 ようやく嵐を抜けた時には精魂尽き果て、その場に仰向けに倒れ込んだ。見上げた空はまだ夜明けには程遠く、嫌味なほどに晴れて星々が澄み切った輝きを見せている。寝ている場合ではないとわかっていたが、濡れた服は重く、それ以上に重くまとわりつく疲労で起き上がる気力もなかった。

「くそっ……!」

 拳を握り締めて甲板に打ちつける。恐怖さえ感じる暇もなかった。嵐と共に現れたあの異形の空飛ぶ獣は一瞬でユーリを連れ去った。船や他の人間を襲うでもなく、ただ真っ直ぐに彼女を捕え、飛び去っていった。必ず守ると約束したのに。

「昼寝するにはまだ早い時間のようだよ」

 軽口に目を向けると、ずぶ濡れだが、それでも笑みを浮かべたアレクシスがこちらに手を差し伸べていた。一瞬、どんな顔をすれば良いのかわからず、じっと相手の目を見つめたが、彼は揺らがなかった。ため息をついて、その手を握って立ち上がる。

「……で、次の一手は?」

「行先を示すのは船長の役割だろう?」

「優秀な航海士ならご存知かと思ってね」

「生憎とまだ見習いなもので」

 軽口を叩く相手のおかげで、何とか浮上する。そうだ、落ち込んでいる場合ではない。相手の肩を拳で叩くと、何とかニヤリと笑って見せる。

「まずは着替え、それから食い物と酒だな。あんたも着替えたら船室に来てくれ」

「了解」


 そこで一旦別れて船室に引っ込む。頑丈な扉のおかげで、内部は無事だった。ここが無事なら、おそらく船倉の方も大丈夫だろう。彼の船はその仕事柄、船倉が最も丈夫に作られている。

 服を脱ぎ捨て、タオルで全身を拭う。長く伸びた髪は雨を吸って重い。だが、あれだけの嵐に見舞われて、疲労だけで済んだのはある意味幸運というしかない。普通あれだけの雷に見舞われれば、マストの一本や二本折れてもおかしくない。髪も拭いながら下履を履き替えたところでノックが聞こえた。手早くシャツとズボンを着込み、扉を開けるとワインの瓶を二本握り締めたアレクシスが立っていた。後ろにはリィンもいる。


「用意がいいな」

「君が言ったんだろう? あの嵐でも無事に済むとは見事な梱包技術だな」

「それが仕事なもんでね」

 招き入れると、アレクシスは瓶をテーブルの上に置く。そしておもむろに振り返ると、腰の剣を抜き、切っ先をリィンの喉元に突きつけた。わずかに黒く輝く刃が今にもその細い首を貫きそうだ。呆気に取られ、ただ見守っていると、それまで聞いたこともないような冷ややかな声でアレクシスが問う。

「君は、知っていたな?」

 切っ先を突きつけられ、だがリィンは静かな表情でアレクシスを見つめ返している。互いに見つめ合い、無言のまま微動だにしない。むしろその沈黙と緊張感に耐えきれず、ジェイクが両手を上げた。

「……どういうことか聞いてもいいか?」

 その気の抜けた声が功を奏したのか、アレクシスがわずかに口元を緩めた。だが切っ先は動かない。

「リィン、君は竜が彼女を迎えに来ることを知っていたな?」

「何だと……⁈」

「北の海域、『船の墓場』に彼女が近づけば、さらに奥に進む必要もなく竜が彼女を攫いにくる。それを知っていた」

「だが、そいつは何で竜が娘を攫うかは知らないと言っていたはずだ」

 精霊は言霊を大切にする。言葉そのものが彼らの力のひとつだから、名前一つとっても真実その相手のものでなければ呼ばない。まして嘘をつくことはできないはずだ。

「なぜ攫うかは知らなかった。だが、いつ、どこで、どのように連れ去るのかは、知っていた」

 リィンがわずかに苦しそうに眉をしかめた。その表情が、アレクシスの指摘が真実だと物語っていた。

「だが、そいつはユーリを守る使命があるとか何とか言っていた」


 何より、リィンは彼女を心から気遣っているように見えた。少なくとも、初めて会った夜、彼女を救えないことを悔しく思っている姿に嘘は見えなかった。竜の島への道案内もそれ以上でもそれ以下でもないように思えたし、彼女があんな風に竜に攫われることを初めから知っていたなら、それこそが目的だったとしたら、ジェイクがユーリに似合わないなどとそんなことを言うだろうか?


「そもそも、この船が単純にここまでの道すがらの捨て石に過ぎないのなら、ユーリが竜に攫われたあと、そいつもすぐに姿を消せばよかったんじゃないのか?」

 別に庇うつもりはないが、と付け足しておく。少なくとも、リィンはこの船を救うために本気で力を貸してくれているように見えた。だが、アレクシスは動かない。

「この剣は、ただの鋼じゃない。黒鋼を月光樹の薪と炭で起こした炎で鍛えたものだ。竜さえも斬れる。もちろん精霊もね」

「竜はどうかわからないけど、精霊は確かに斬れるだろうね」

 何かを諦めたような答えに、アレクシスは冷酷な声で重ねて問う。

「なぜ、彼女を竜と共に行かせた?」

「……それが必要だからだ。そう王はおっしゃった」

「必要?」

「私だってジュリアーナを救いたかった。だからこそ、こうしてここまでついてきたんだ」

 ぎり、と切れるほどに唇を噛み締める様子は、痛ましいほどだった。その言葉に嘘はないだろう。ジェイクは己の勘を信じることにして、いつかユーリがそうしたように、刺激しないようそっとアレクシスの右腕に触れる。彼はしばらく迷うようにジェイクとリィンを交互に見つめていたが、やがてゆっくりと剣を下ろした。張り詰めた緊張が一気に解け、ジェイクは深く息を吐く。そのまま椅子に座り込んだ。

「まったく世話の焼ける……」

「君にそう言われるようでは世も末だな」

 苦笑するアレクシスに、コルクを抜いて瓶ごと差し出す。彼は肩を竦めると、それを受け取って外に出て行ってしまった。リィンはその場でまだ立ち竦んでいる。

「大丈夫か?」

「私だって、ジュリアーナを救いたかった。二人に笑っていて欲しかったんだ……!」


 「二人」が誰を指すのかは何となくわかってしまった。精霊であるリィンがなぜ、ここまでやってきたのか。その理由にようやく思い当たって、ジェイクはため息をつきながらその頭をぽんぽんと叩いて引き寄せた。アレクシスとリィンの間に何があったのかはわからないが、ユーリをずっと見守ってきた精霊が、アレクシスにも深く関わったことは想像に難くない。この様子では本人も自覚がないのだろうが。


「お前はよくやったよ。少なくとも俺たちはあの妙な嵐を乗り越えて、無事にここまでたどり着いた」

「うるさい……っ! お前に何がわかるんだ!」

「何にもわかんねえよ。だが、お前はユーリとアレクシスが大切だった。だからこそ気に入らない俺の船にわざわざ乗り込んできて、二人を見守っていたんだろう?」

 そう言ってやると、深い緑の双眸からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。

「泣くなよ……」

「泣いてなんかいない! 精霊が泣くわけないだろう……!」

 泣く子と何とやらには勝てぬとはよく言ったもので、ジェイクは泣きながら理不尽に当たり散らす少年の姿をした精霊の頭をひたすら撫で続けたのだった。


 リィンの嗚咽がようやく止まったあと、カップにワインを注ぎ、差し出してやる。精霊でも酒を飲めるのかと多少疑問だったが、リィンは素直に受け取って口をつけている。やれやれとため息をつきながら、自分は瓶を持って立ち上がり、船室から甲板へ出る。アレクシスは少し離れた船縁の木箱の上に腰掛けてワインを呷っていた。

「落ち着いたか?」

「まあね。そっちは?」

 視線の先を追うと、リィンもまた船室を出てくるところだった。招き寄せると、嫌な顔をしながらもこちらに歩み寄ってきた。そのまま甲板にぺたりと座り込む。ジェイクはその肩に毛布を投げてやった。ついでに自分とアレクシスの分も。夜はまだ冷える。それから木箱の端に腰掛けて微かに瓶を掲げて自分も飲み始める。こんなにのんびりとしている場合ではないと、頭ではわかっていたが、船は風を受けて北へ順調に進んでいる。今は焦っても仕方がない。

「それで、結局竜は何でユーリを攫ったんだ?」

 率直に尋ねると、カップを抱えたままのリィンは、しばらく無言のままだったが、やがてため息をひとつついて、ゆっくりと語り始めた。


 出航の前に、リィンは一度森へと戻った。船に乗るなら人の形をとる方が(誠に癪だが)力になれるだろうと考えた。だが、リィンはまだ若く自分の存在をそのように固定化する術を知らなかった。だから、精霊王の元へ赴き、その旨を伝えた。だが、それを聞いた王は珍しく難色を示した。

『そなたの役割はあの娘を北の海域まで導くこと。そこまでたどり着きさえすれば、あとのことは考えずともよい』

『でも帰り道だって……』

 船を長く動かすなら、人手がいるはずだ。行きは持つとしても帰りの行程も考えれば、ジェイクとアレクシスだけでは難しいだろう。そう言ったリィンに王はため息をつき、案内役の真実を語ったのだった。

『北の海域、人の踏み込めぬ嵐の海までたどり着けば、竜が迎えに来る。あとは彼に任せよ』

 そんな、とさすがに唖然としたリィンに、だが王は当然というように続けた。


 ——彼女は贄なのだ、と。


「贄……だと?」

「ジュリアーナは……あの血筋の金の髪の娘は皆、そのように定められている。彼女を捕えようとする死を避けるためには、竜に委ねるしかないと」

「一体それはどういう……」

 尋ねたアレクシスに、だが、リィンはただ首を横に振った。

「それ以上は、いくら尋ねても王は教えてくださらなかった。ただ、竜が現れるであろう場所と時だけを私に伝えた。そして、それまでに遭うかもしれない災厄についても」

「災厄……。あの嵐のことか?」

「そうだと思う。王は災厄は常に同じではないとおっしゃっていた。どんな形で訪れるかはわからない。けれど、必ず竜が迎えに来るまで何としてもジュリアーナを守れと」

 その言葉に嘘はないだろう。だが、精霊王の言葉が気になる。

「贄というのは何なんだ」

「言っただろう、王は教えてはくださらなかった。というよりは、王も話せないようだった。それはまるで何か……」


 ——禁忌に触れるような、苦悩に満ちた様子だったと。


「禁忌?」

「精霊にとっての禁忌……か」

「何か心当たりがあるのか?」

 アレクシスはユーリを救うためにあらゆることを調べたと彼女が言っていた。であれば、何か知っていてもおかしくはない。

「……リィン、君の精霊王はどれくらい長く生きているんだ?」

 問いかけられたリィンは、複雑な眼差しでアレクシスを見返した後、しばらく考え込んでいた。ややして顔を上げる。

「詳しくはわからないけれど、たぶん七百年か、八百年……それくらいだと思う」

「はっぴゃく……⁈」

「精霊なら珍しくもない。数千年を経ている者だっている。王は若い方だ」

「そういうお前は?」

「……お前なんかに教えない」

「本当に可愛くないな、お前」

 さっきまで泣いてたくせに、とぼそりと呟くと旋風がまた何本か前髪を切り裂いていった。おかげで随分と見通しがよくなったもんだ、とは心の中で呟いておく。

「それで、精霊王の年齢がどうしたって?」

「ユーリの、彼女の生まれた公爵家は元々森に囲まれた丘の上の王国の王に仕えていたそうだ。その王国が滅びたのが約千年前。それから、森の奥に公国を築き、だがそこを追われるように離れたのがそれから数百年後だったという」

「……つまり?」

「あの国を襲う嵐、そしてユーリを襲おうとしている死の運命は、かつての王国に関係があるんじゃないか?」

 かつての王国。ジェイクはユーリが語っていた伝説を思い出してみる。そもそも彼らが王国を追われたのは何故だったか。

「その王国には多くの魔法使いたちがいたという。魔法使いたちはその力を王国のために——戦に使用した」


 精霊は本来自然と共に生きる者たちだ。その力を破壊に使うなど、本来はあってはならないこと。望まぬことに力を無理やり引出され使役された精霊たちは病み、それによって大地も水も病んだ。諫言を容れられず、逆にありもしない罪を問われそうになった公爵は領地の民を引き連れて王国を去った。

 その後、急激に王国の畑には実りが生まれなくなり、井戸や泉は枯れるか、淀んだ水が湧くようになった。腐臭が満ち、病が民たちを襲った。魔法使いたちは尚も精霊たちを使役して癒しを得ようとしたが、無論叶うはずもなく、力を失った彼らは真っ先に倒れていった。

 やがて病魔は王国の深部に隠れ住むように潜んでいた王族にも及んだ。他国の襲撃を待つまでもなく、そうして王国は内部から瓦解したのだという。王を失った王国の民は散り散りに去り、残った者たちは病に倒れて死に絶えた。そうして、そこには病んだ大地と水が残されたという。


「滅びた王国の呪い……ってことか?」

「わからない。だが、リィンの王の代替わりの時期が王国の崩壊と関係があるのなら、精霊と縁の深かった公爵家と何らかの関係があってもおかしくはない気がするんだ」

「なるほどな」

 彼女の運命が精霊に関わるものだというのなら、精霊たちが口を濁すのも頷ける気がする。それに、リィンが竜は精霊とは全く異なる力を行使すると言っていた。嵐の原因が精霊ならば、竜がそれを防ぐことができるというのも筋が通っている。なぜこんな回りくどい方法を取るのか、という疑問はいまだ残るところだが。

「とりあえず、いずれにしても、まずは竜に話を聞く必要があるってことだな」

「竜の島に、まだ行くつもりなのか?」

「行かないなんて選択肢があると思うのか?」

 ニヤリと笑って見せるとリィンは呆れたようにため息をつく。あの嵐を見せつけられてなお、進むなんて命知らずなのは自分でもわかっている。

「守ってやるって約束したからな」

 目の前で攫われ、何も出来なかったが、竜が彼女を保護するために連れ去ったのなら、まだ無事でいるのだろう。

「怖いなら、その指輪を外して帰ってもいいんだぜ?」

「お前なんかにジュリアーナを任せておけるもんか!」

 元気が出てきたのはいいことだ。ついでにアレクシスにも問う。

「あんたはどうする?」

「それこそ愚問だと思わないのかい?」

 苦い笑みを浮かべる王に、瓶を掲げて笑って見せる。


 王に精霊に船乗り。珍妙な組み合わせだが、竜の島に乗り込む酔狂な者たちなど自分たちくらいなものだろう。ワインをぐいと呷りながら空を見上げると、ユーリの髪によく似た淡い金の光を放つ月が、そろそろ海に沈もうとしているところだった。

「待ってろよ」


 絶対にあんたの元にたどり着いてやる。そして今度こそ、二度と離さない。

 新たな決意を胸に、ジェイクは沈む月をじっと眺めていた。

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