14. 間章 〜森と海との間で 〜 前編

 ユーリが船室から出てきた後、船尾で眠りに落ちたのを見届け、リィンはマストからすべり降りた。舵の側に降り立ったが、アレクシスはリィンに気づかず、水平線の彼方を見つめたまま、物思いに沈んでいるようだった。表情はどこまでも静かだが、その目には確かに狂おしいような光がある。彼は今どんな思いでいるだろうか。

 船室で何があったのかは容易に想像がつくが、リィンも覗き見するほど悪趣味ではない。どうして、という思いはあるが、それが彼女の望みなら、リィンに否やのあろうはずはない。ただ彼女を守ること、それだけがリィンに課せられた使命であり、願いだった。

 だが、アレクシスが側にいる今、リィン自身も——自由気ままな風の精霊としては誠に不本意だが——そのことに思いを馳せずにはいられなかった。


 初めてリィンが彼女を見たのは、彼女が赤ん坊のときだった。リィンは彼女と共にこの世に生まれたのだ。人間が増え、その領域が増えるにしたがって、精霊はその数を減らし、力を失い始めていた。そんな中、リィンは森で目を覚ました。精霊がどうやって誕生するのかは、誰にもわからない。まず初めに意識が生まれる。人に似たものもあれば、動物に似たものもある。形を取らないまま、純粋な力と意識だけの存在でいるものたちもいる。リィンは森と湖のそばで目覚め、少女に似た形をとった。そうしてすぐにその森の精霊王に見出されたのだ。


『お前には使命がある』


 リィンと同じ深い緑の瞳の王は、リィンを見出すなりそう告げた。一人の人の子を見守り、彼女を運命の場所へと導くのがその役割だと。王の言葉は重く、だが、正直なところ、人間のお守りなど絶対にごめんだ、というのがリィンの本音だった。

 精霊であるがゆえに、言葉はなくとも思考は容易に伝わってしまう。率直なそれを読み取った精霊王は、それでもただ微笑むだけだった。


『誰も自身の運命からは逃れられぬ。だが、いくつかを選ぶことはできよう』


 そう言って手のひらの上に光を浮かべると、リィンを招き寄せた。そこには小さな赤ん坊が映っていた。産声を上げる赤ん坊は烟るような金の髪、泣き叫んでいるから瞳の色は見えない。ただただ愛らしく、無邪気に見えた。だが、同時に悲痛な声が聞こえてくる。


『——何てこと』

 特に亜麻色の髪をした、赤ん坊を抱いた女性の嘆きが最も深いように見えた。

『どうしてこんな——!』

『奥様、どうか落ち着いて……』

『いやよ! どうしてこの子が……!』

 そこでふっと光は消えた。王は感情の読めない眼差しでこちらを見つめている。

『あの子供はなんなのです?』

『いずれ、お前も知ることになるだろう。あの娘には重く課せられたものがある。本人の預かり知らぬところで』

『呪い……ですか?』

『そうとも呼べるかも知れぬ。気になるのであれば、自らの目で確かめてくるがよい』


 元来、風の精霊は気ままで何にも囚われない性質だ。何かを命令されたり、誰か一人に縛られたりすることを好まない。様々な種類の精霊の中でも、魔法使いたちからも最も扱いにくい存在として知られているくらいだ。それが、人の子の面倒を見ろと言われても。はじめは乗り気でなかったリィンだったが、好奇心旺盛なのも風の精霊の特徴だった。やがてあの女性の嘆きの理由がどうしても知りたくなり、かの国を訪れたのは、それでも数年が経ってからだった。


 赤子は小さな少女になり、庭を駆け回っていた。生まれた時の陰りはどこにもなく、ただ普通の、十分に愛されて育った子供に見えた。リィンの姿は誰にも見えないようだったし、当の子供に近づいてみても、こちらを振り向きはするものの、姿を見ることはできないようだった。所詮はただの人間か、と何故か少し落胆する。ここまでくる途中、人の街を様々見たが、誰もリィンの姿を目に止める者はいなかった。途中海の上で、妙に気になる光を見た気がしたが、すぐに見失ってしまったので、それが何だったのかは結局分からずじまいだった。

 人間が森を切り開き、海へと進出するようになり、精霊を含む人ならぬ者たちの領域は少しずつ狭まってきていた。精霊たちは森を閉じ、人の侵入を拒むことでその営みを保っていたが、多くの森が失われることで、力を失っていく者も多かった。リィンからすれば結局のところ、人間は厄介で面倒な存在としか思えなかったのだ。


 考えに耽っていたリィンは、どすん、という大きな音で我に返った。ふと見れば、少女が——ジュリアーナという名だとその頃には知っていた——尻もちをついていた。雨上がりだったせいで、ドレスは泥に塗れて、顔にまで泥をかぶってしまっているが、本人は楽しそうに笑っている。どうやら誰かにぶつかられたらしく、そのぶつかった相手の方が慌てている。

「すまない。大丈夫かい?」

 すらりと伸びた背に、薄茶の髪と明るい緑の瞳。年の頃は十代半ばくらいだろうか。彼は少女を抱き起こすと、頬についてしまった泥をハンカチで丁寧に拭った。

「私の不注意で……。怪我はないかい?」

「へいき。あなたはどうして泣いているの?」

 真っ直ぐな問いに、少年ははっと口元を押さえた。

「別に……泣いてなんかいないよ」

「じゃあどうしてそんなに悲しそうなの?どこかいたいの?」

 幼い声は、だが真っ直ぐに重ねて問う。リィンから見ても少年は泣いているようには見えなかった。だが、彼女は不思議と誰よりも人の心に聡い。

「どこも……ただ、どうしたらいいかわからなくて」

 少年は、少女の前に膝をつくと、ぽつりとそうこぼした。

「大切な人を失ってしまった。そして、このままだともっとたくさんの人を失ってしまう。私は、無力だ……」

 拳を握り、歯を食いしばる。その横顔はその年頃の少年がするにはあまりに深い苦悩を宿していた。

「私にもっと力があれば、救えたんだろうか……」


 おそらく誰にももらせない本音を、子供の前だからこそ、吐き出すことができたのだろう。情けないやつだ……と内心で思いながらリィンが木の上から見ろしていると、だが小さな少女は驚くべきことに、そっとその頭を抱き寄せたのだ。まるで母親のように。


「お父さまがいつもわたしに言うの。やるべきことを目の前にして、それをなげだしてしまったらもっと後悔する。だから、わたしもちゃんとつよくなるの」

「つよく……?」

「いつもお母さまは優しいけれど、わたしを見ると悲しいお顔をするの。だからわたしはなるべくにっこりわらうの。そうしたら悲しい顔をつづけるのがむずかしくなるでしょう?」

 そう言って、少女はにっこりと笑う。

「お母さまが悲しい顔をするとわたしも悲しくなる。けれど、わたしも泣いてしまったら、お母さまはもっと悲しくなるから」

 だから笑うのだ、と。たった数年生きてきただけの少女が母親を気遣うことができるのに。


 リィンは少女の言葉を聞いて、むしろ腹立たしく感じる。あんな小さな生き物が、大の大人のために笑わなければならないなんて。


 少年も同じことを感じたのか、立ち上がると、泥にも構わず彼女を抱き上げた。

「……君は強いね」

「ほんとうにそう思う? だったらうれしいわ!」

 ぱあっと顔を輝かせた少女に、少年は眩しそうな表情になり、それからそっとその額に口づける。

「ああ……とても。君を見習って、私も強くならなくては」


 その意味を少女は知らないだろうけれど、リィンははっきりとその少年を包む空気が変わり、光を増したように感じたのだった。

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