13. 北に輝く星のような

 最初の出会いを思い出すと同時に、ジェイクはその後のことを聞きたがった。ユーリ自身としては、元々精霊の加護のおかげで、危険なことからは——本人はさほど自覚していなかったのだが——遠ざけられていたし、隣国の港からは、特に語るべきこともないほどあっさりと帰宅できてしまっていた。


 なので、その話はそこそこに切り上げようとしたのだが、どこから取り出したのか、ワインの瓶に口をつけながら、なおもジェイクは食い下がろうとする。


「本当に何もなかったのか? 道に迷ったり、誰かに襲われそうになったりとか……」

 やけにこだわるなと、よくよく見れば眼は潤んでいるし、呂律も怪しい。本人も気づいていないようだが、だいぶ酔っているようだ。一週間もの間、わずかな休息しかとっていないのだから、余計に酔いが回ったのだろう。

「ジェイク、休まないと」

「……そうだな。流石に眠くなってきた。あんたはどうする?」

「私がいては眠れないだろう?」

 冗談まじりにそう言うと、ジェイクも片眉を上げて笑う。

「眠る前にあんたを抱いたらいい夢が見られそうだ」

「船室までは送って行こう」


 放っておくとその辺で寝てしまいかねない様子だったので、言葉通り、船室までついていく。ジェイクは剣を外して枕元に立てかけると、寝台に倒れ込んだ。そのまま眠りに落ちるかと思ったのだが、こちらを向いて手招きをする。ユーリとしても、ジェイクと過ごせるのは嬉しい。触れてほしいと思ってしまう自分もいる。

 だが、今のジェイクには、絶対に休息が必要なのは明らかだった。あの嵐がそうさせたのだ。原因は不明だとしても、自分が関わっているのは間違いない。そう思うと胸が痛んだ。そんな胸の内を読んだかのように、低い声が彼女を呼ぶ。


「ユーリ」

 灰色の瞳がこの上なく優しい色を浮かべてじっとこちらを見つめている。普段は粗野にさえ見えるのに、時折こうして見せてくれる蕩けるように甘い表情に逆らえる人間がいるだろうか。

「あなたはずるい」

「はあ?」

 寝台に歩み寄り、枕元に腰掛ける。大きくて無骨な手が、だが優しく彼女の腰に触れてくる。ゆっくりとその手が腰から上へと滑るように撫で回し、胸のあたりに触れようとする。

「……ジェイク」

「少しくらいいいだろう?」

 軽い口調ながらも、はっきりと欲を滲ませた声でこちらを見上げてくるその眼は、それでもやはり眠そうだった。目を閉じればその瞬間に眠りに落ちてしまいそうなほどに。こちらに触れてくる両手を握り、唇を重ねる。眠る前の軽いキスのつもりだったのだが、濃いワインの香りに気を取られているうちに、ジェイクの右手がするりとユーリの手を逃れ、シャツの結び目をあっという間に解いてしまう。

「あんたが欲しい」

 灰色の眼に熱っぽい光を浮かべ、真っ直ぐにそう告げてくる。

「ユーリ」

 低いかすれ声で彼女の名を呼ぶ。抱かれるのは何度目だろうか。それでもジェイクはいつもどこかためらいがちに優しく抱いてくれていた。これほどに性急な求められ方は初めてだった。

「いやか?」

 わずかな彼女の怯えを感じ取ったのか、少し身を起こし、包み込むように頬に触れてくる。

「いやじゃない……けれど、もしかして酔ってるのか?」

「かもな。嫌じゃないなら続けさせてもらうぞ。七日も我慢させられたんだ、覚悟しておけよ?」

 そう言ってニヤリと笑うと、あとはジェイクは優しく、だが容赦無く彼女を貪ったのだった。


 さすがに疲労が限界に達していたのか、ひとしきりの行為の後、ジェイクはそのまま眠ってしまった。ぐったりとしているユーリとは裏腹に、その寝顔は子供のように安らかで、ほんの少しばかりわだかまっていた怒りも怯えも何処かへ消えてしまった。

「……やっぱりあなたはずるい」

 逞しい胸元に指を滑らせながら、思わずそんな言葉が漏れる。自分の方が先に好きになったのは間違いない。それでもジェイクは途方もなく優しく頼れるし、その上、彼女を全力で守ってくれる。愛し方が強引でも決して痛みを与えたりはしない。ひたすらに怖くなるほどの快楽を刻み込まれるだけで。


 ——これで愛するなと言う方が無理だ。


 初めから、死ぬつもりなどなかったが、それでも自分には明るい未来が開けているとは到底思えなかった。全てを諦めるほど悲観的にはなれなかったが、結局のところどうせ先の見えない人生ならと後先も考えずに旅立ったのだ。彼に会いたいとは思っていたが、こんな展開は予想していなかった。これでは。

「もう私は……あなたを失えない」

「なら離れなきゃいい」

 目線を上げると、こちらを見つめる灰色の瞳にぶつかった。

「ジェイク……眠ってたんじゃ」

「あんたのその細い指でそんなふうに触られたら寝てられねえ」

 わざとじゃないのか? と面白そうに笑って、腰を押し付けてくる。だが、さすがに彼女の方が限界だった。

「ジェイク、あなたのことは愛しているけれど」

「今日はもうおしまい、か?」

 面白そうに笑って問いかけながら、その逞しい腕でユーリを抱き込んだ。両肘をついて、間近に見下ろし、低く甘い声でささやく。

「あんたが嫌だと言ったって、離してやらねえよ」


 流れるような長い黒髪の間から覗く眼差しは、優しく、そして熱い。そのまま深く口づけられる。何度も角度を変えて、深く何かを刻み込むように。ようやく解放された時には、再び彼女の体の芯も熾火のように甘く疼いていた。


「どうする?」

 それでも、やはりジェイクの顔にどこか疲れを見てとって、ユーリはその腕からするりと抜け出すと、寝台からすべり降りた。ジェイクは面白そうに片肘をついて着替えるユーリを眺めている。

「……酔っ払いはそろそろ寝る時間だ」

「随分冷静だな? あんなにいい声で鳴いてくれたのに」

「そういうところが酔っ払いだと言うんだ」

「これが俺の素だぜ? 言っただろう、俺はあんたが思ってるような行儀のいい男じゃない」

「それでも、私には十分優しい」

 両手でジェイクの頬を包み込んで口づける。

「またさっきみたいにあんた抱いてもか?」

 唇を離すと、真顔でそう尋ねてくる。冗談なのか本気なのか、その表情からは判別がつかなかった。それでも彼女にしてみれば迷う理由などないのだ。

「あなたは、先の見えない闇しかなかった私にとって、この世界でたったひとつの希望だった」


 ——北の空に輝く星のように。それさえ見失わなければ、必ず目的の場所へたどり着けるような気がしていた。


 そして、その直感はきっと間違っていない。リィンさえ、彼女を彼のもとに導いたのだから。

「大袈裟だな……」

「こういうのを運命と呼ぶんだ、きっと」

 にこり、と笑ってそう言うと、ジェイクは惚けたように息を呑んだ。それから身を起こすと、ぐいと彼女を抱き寄せる。厚い胸板を通して聞こえる心臓の音は早い。彼もまた、何かを感じてくれているのだとそう思うと、もう一度自然に笑みがこぼれた。

「あんたには敵わねえな」

「そうだろう? 実は、強運には自信があるんだ」


 どれほど生まれながらに課せられた運命が苛酷だとしても、その運命を告げられた後でさえ、どうしてだかそれを重荷だと実感することができなかった。どこか楽観的な自分がいるのだ。それは公爵家に代々伝わる気質であるのかもしれなかったし、それ以上の何かに守られている確信があるせいかもしれなかった。

 いずれにしても、彼女は彼に出会った。それ以上の幸運がどこにあるというのだろう。


 ジェイクは彼女の頬に優しく触れ、それから額に口づけて、いつになく柔らかく微笑んだ。

「……少し寝る。アレクシスにも言ったが、あと数時間もすると島影が見えてくるはずだ。接岸する前に起こしてくれ」

「わかった」

「俺が寝てる間に、あいつに手を出されないようにな」

 冗談とも本気ともつかないその言葉に、思わず笑ってそれからその首筋に噛み付くように痕をつける。

「私はあなたのものだから」

 半ば本気でそう言ったのだが、ジェイクは途端に顔をしかめる。

「ものじゃねえだろ」

 ぎゅっと抱きしめられ、それから胸元のぎりぎりシャツから覗かないところに同じように痕をつけられる。彼のそんな優しさに心の奥が暖かくなると同時にどうしてか泣きたくなる。その思いをぐっと押さえ込んで、なんとか笑いかける。

「ありがとう。でも、そろそろ……おやすみなさい」

「ああ」

 名残惜しそうに髪を撫でていたジェイクは、だが手を離すと毛布をかぶって背を向けた。ユーリもそれ以上彼の眠りを邪魔しないよう、そっと船室を出る。舵の方を見ると、真っ直ぐに船首を見つめているアレクシスの背中が見えた。気づかれないよう、そっとそのまま船尾へと戻っていく。


 海は青く澄んでいて、あの時の記憶をさらに鮮明にする。あの時、どうして彼だけが彼女に気づき、声をかけてきたのだろうか。それもまた、精霊の導きだとしたら、一体何がそうさせているのだろうか。


 ぼんやりと考えているうちに、ジェイクに散々愛され重い体は暖かい日差しを受けて、とろとろと眠気が襲ってくる。いつかのようにフードを被り、船縁に座り込むと、いつしか彼女も穏やかな眠りに引き込まれていった。

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