12. 記憶

 あの奇妙な嵐の後、数日間ほぼ眠らずに警戒しながら船を進めていたが、これと言った異変は起きず、拍子抜けするほど順調な航海が続いた。それでもジェイクはほとんど舵を離れず、水平線を見つめ続けたが、さすがに一週間も経つとその緊張感も緩んでくる。


「……さすがに疲れたな」

 ぼそりと呟いた途端、もはや見慣れた薄茶の頭が不意に現れた。

「なっ……」

 思わず声を上げると、相手は呆れたように笑う。

「幽霊でも見たような顔だな」

「あんたが突然現れるからだろう!」

「随分前からここにいたんだけれどね」

 やれやれとため息をついて、アレクシスは舵を握っていたジェイクの肩を軽く叩く。

「一週間も舵の前に立ち続けたんだ。そろそろきちんと休んだ方がいい」

 舵を握り、そう言う表情に他意は見えない。だが、どうにも信じきれない自分がいる。アレクシスのユーリへの想いは本物だ。だからこそ、ここにいる。だが、それほどに深く想いを寄せる相手が他の男に想いを向けているのを目の当たりにしながらなお、平静でいられるものだろうか?

 疑念が顔に出たのか、アレクシスがやや苦い笑みを浮かべる。

「……君の言いたいこともわかるけれどね」

 けれど、と続ける。

「少なくとも今は船を強奪したり、船長を海へ突き落としたりしようとは思わないよ」

「……そう願いたいね」


 緑の瞳に嘘は見えない。ひとまずは信用するしかないのだろうが、何しろリィンはまだしもアレクシスの前でユーリといちゃつくのは流石に気が引ける。要は彼自身、自分の欲求と気まずさに折り合いをつけるために舵から離れられなかったというなんとも情けない側面もあったのだった。そんな彼の内心を見透かしたのか、はたまた情けない思いが顔に出たのか、アレクシスは吹き出して、それから屈託のない笑い声を上げた。


「言っただろう。君たちの邪魔をするつもりはないよ。ユーリも待っている。行ってくれ」

 顎で示された船尾には、フードの後ろ姿が見える。ここしばらく舵に張り付いていたから、会話をしたのも食事の時くらいだった。

「あまり君が放っておくようなら私にも考えがなくはないけれどね」

「……あと数時間で島影が見えてくるはずだ。そこに寄っていく。見えたら鐘を鳴らしてくれ」

「こんなところに寄港できる島があるのか?」

「地図には載っていない島だがな」

「……了解、船長」

 ひらひらと片手を振る相手に肩を竦めて見せると、敬礼で返された。どうやら相手の方が一枚上手のようだった。


 船尾まで歩いて行ったが、ユーリは物思いに耽っているのか、こちらには気づかない。そのまま気配を消してそっと近づくと、それでもまだその瞳は同じ色の海を見つめている。フードを被ったままの静かな横顔を見つめていると、ふと既視感を覚えた。


 船縁で海をじっと見つめる、同じ色の瞳。それから——


「もしかして、あのときの……」

 無意識に漏れた呟きに、はっと我に返ったようにこちらを振り向いた。その驚いた表情に、確かに見覚えがあった。


 あれは数年前のこと。頭領からそろそろ独り立ちしろと促され、伝手を広げる目的で、彼の元を離れてあちらこちらの船に雇われ航海士として乗り込んでいた時期だ。その船は客船も兼ねており、結構な人数の乗客もいたのだが、どういうわけか子供が一人で乗り込んでいた。フードを被った小柄な影は、どうせ誰かの連れだろうと最初は気にも止めなかったのだが、ふと目につくたびに船縁に一人でたたずんでいるのでだんだん気になってきた。

「おい、坊主、お前の連れはどこにいる?」

 後ろから声をかけると驚いたように振り向いた。その瞳が目を奪われるほど鮮やかな青で驚いたのを覚えている。だが、驚いたのは相手も同様だったようで、何を思ったかよりにもよってそこだけ柵のない荷下ろしの場所へ後退りし、それ以上声をかける間もなく、そのまま縁を乗り越えて海へと落下してしまう。

「なっ……!」

 ドボン!という大きな音に周囲の船員が素早く気づき、鐘を鳴らす。一番近くにいた船員に頷き、上着と剣を放り投げると彼もそのまま海へと飛び込んだ。幸い真昼の空は晴れ渡り、海も透き通っていたので、落下していく少年の影をはっきりと捉えることができた。真っ直ぐに潜り、腕を捉えると一気に引き寄せて海面まで浮き上がる。少年を抱いたまま、仲間が投げてくれた縄を掴んで、甲板に上がってまとわりつくフードを外套ごと引き剥がすと烟るような短い金髪の頭が現れた。

「息がない……」

 そこまで水を飲んでいないはずだと、頭を下にして背を思い切り叩くと、ごほっと水を吐いて、それから咳き込み始めた。苦しそうな背をしばらくさすっていると、呼吸が落ち着いてきた。

「大丈夫か?」

「……は……い」

「しゃべらなくていい。呼吸ができて意識がはっきりしているなら大丈夫だな」

「おい、ジェイク、一体何があったってんだ?」


 声をかけてきたのはレンディだった。ジェイクよりは数年年長だが、彼もまた頭領に拾われた出自を持つ。当時、たまたま一緒に船に乗り込んでいたのだ。ジェイクが抱き抱えている少年の顔を覗き込むとヒュウと口笛を吹く。


「随分綺麗な顔した坊ちゃんだな」

「ああ?なんだお前、女日照りの挙句こんな子供にまで手ぇ出すつもりか?」

 冗談まじりにそう言ってやると、思いの外強い力で頭を殴られた。

「馬鹿も休み休み言え。子供に手を出すなんざ鬼畜の所業だろうが」

 その剣幕に少し驚いた。ジェイク自身は興味がないし、人身売買は表向き禁じられてはいるが、食い詰めた親が子供を売るなどという話は掃いて捨てるほどある。それでなくとも親を亡くした子供がそういう運命をたどるのは、珍しい話ではない。何だかんだ頭領に拾われた彼は恵まれていた方だ。

「坊主、連れはどこだ?」

 先ほどのジェイクと同じことを問いかけられた少年は、だが答えない。まさか、と先ほどよぎった予感が的中したようだった。それでなくとも他の連中の注目を集めている。ジェイクは少年の腕を掴むと、船倉の一角にある自分の船室へと連れて行った。まだまだ若かった彼だが、その腕を買われて一級航海士として小さいながらも一室を与えられていたのだ。手早く濡れた服を脱いで着替えを済ませる。


「着替えはあるか?」

 不幸中の幸いか、海へ落ちる前に荷物は甲板に落としていたので、濡れてはいないようだった。

「……ある」

「なら着替えちまいな」

 タオルを放り投げて、そう声をかけたが、相手は動こうとしない。このご時世だ、警戒するのも止むを得ないか。

「子供の裸になんか興味はねえよ。俺はこっちで海図を見てるから、風邪を引く前にさっさと着替えろ」

 そう言って小さなテーブルの上に海図を広げて椅子に座り込む。しばらくしてがさごそと身支度を整える音が聞こえてきた。

「……あの」

 ためらうような声に振り向くと、着替え終わってこざっぱりとした少年がこちらを見つめていた。船倉のわずかな灯りでは表情ははっきりしないが、なるほど整った顔をしているようだ。肩の上で短く切られた髪は、蝋燭の灯りに照らされてきらきらと輝いている。

「気分はどうだ? どこか痛いところはないか?」

「大丈夫」

 ふるふると小さな子供のように首を横に振る。思わず吹き出しながら頭をごしごしと拭いてやると、驚いたように目を丸くするので、ますます小動物じみて見えた。

「驚かせちまって悪かったな」

「いや、わ……僕が勝手に驚いて海に落ちただけ……だから。助けてくれて、ありがとう」

「構わねえが、気を付けろよ。たまたまこの船の連中は気の良い奴が多いから助けてくれるが、海に落ちた客なんざこれ幸いと見捨てるような船も多い」

「……気をつける」

「俺はジェイク。お前は?」

「……ジャン」

「ジャンか。年は?」

「……十四」

「……なんだって一人でこんな船に乗り込んだんだ?」


 カマをかけてみると、案の定目を丸くして言葉を失っている。質素に見えるが仕立てはよさそうな服を着ているところを見れば、おそらくどこかのそれなりに裕福な商家の子供か何かだろうと思われた。ちょっとした冒険心で船に忍び込むなどというのは、無謀な子供のやりそうなことではある。だが、金の髪の身綺麗な子供にとっては危険極まりない。


「いいか、海の上はお前が思っているほど安全なところじゃない。どうやって乗り込んだんだか知らねえが、次の港で下ろしてやるからさっさとうちへ帰れ」

「……わかった」

「ってお前次の港がどこだかわかってるのか?そっからうちまで一人で帰れるのか?」

 矢継ぎ早に尋ねると、ジャンは黙ってしまう。単なる家出少年なのか、はたまたもっと深い理由があるのか。

「うちに帰りたくないのか? それとも帰る家がないのか?」

 答えないジャンにやれやれとため息をつくと立ち上がった。

「話す気がないならそれもいい。勝手にしろ」

 そのまま部屋を出ようとすると、服の裾を掴まれた。

「待って」

 無言で振り向くと、タオルを肩に羽織ったままの少年は俯いたまま、レヴァンティア、と呟いた。

「何だと?」

「家は、レヴァンティアにある。けど、どこかで適当に下ろしてくれれば自分で帰れるから」

「はあ?!」

 改めて海図に目をやる。レヴァンティアといえば、小国ながらも貿易に優れた海洋国として名高いところだ。確か、公爵が治める公国だったはず。問題は、今いる海域からは随分と遠いということだが。

「一人で帰るって、お前なあ……」

 頭の中で今回の航海ルートを思い浮かべる。現時点では遠く離れてしまっているが、確か隣国のアンティリカへの積荷があったはずだ。ルート的には半月ほどといったところだろうか。

「半月くらいでアンティリカに荷を下ろす予定がある。そこまで送って行ってやるから大人しく乗ってろ」

「でも……」

「帰りたくないのか?」

 問いかけに、少年は迷うように視線を巡らせた。やがてゆっくりと口を開く。

「いや……。そうだな、わ……僕は、帰らなくては」

 何か事情がありそうだったが、立ち入ったことを聞くような間柄でもない。肩を竦めると、今度こそ部屋の外へと歩き出した。


 それから半月ほど、少年はことあるごとにジェイクについて回った。身分としては正当に旅客としての料金を払っているらしいので、のんびり乗っていればよさそうなものだが、ジェイクの様子を窺ってはあれこれと手伝いたがった。縄のない方から、海図や風の読み方、果ては舵の扱い方まで。初めは感情があまり見えなかった表情も、日を追うに連れて笑顔を見せることが増えてきた。

 仲間たちからは弟分ができたのかとからかわれることもあったが、レンディも言う通り、なまじ容姿が整っている分、目を離すと危険そうな気がしたのでいつの間にか同じ船室で寝泊りするようになっていた。とはいえ、部屋の隅に毛布を敷いて寝ているだけだが。


 半月はあっという間に過ぎ、アンティリカの港に着く頃には、レンディもジャンを可愛がるようになっていた。

「ほら、土産だ。途中で食えよ」

「……ありがとう」

 頭を撫でられて、にこり、と微笑む顔は無邪気で無防備に見え、だからこそジェイクもまた何やら胸がざわついたのを覚えている。

「本当に一人で大丈夫なのか?」

 初めて会ったときのようにフードを被った少年は、ただこくりと頷いた。

「送って行ってやろうか?」

「そんなに子供じゃないから大丈夫だ」

 そう言って、急にジェイクの襟元を引き寄せると耳元で囁いた。

「助けてくれて、本当にありがとう。楽しかった」

 そうして、唇に柔らかい何かが触れた。

「……あ?」

 それが何かを確かめる間もなく、少年は舷梯を駆け下りると、あっという間に見えなくなってしまった。

「行っちまったなあ」

 どこか名残惜しげなレンディの背中をはたき、船へと戻る。印象的な子供だったが、もう会うこともないだろう。


 ——そう思ってすっかり忘れていたのだが。


「まさか、あのときの子供、あんたか⁈」

 思えば、烟るような金の髪も、碧い瞳も、そして何より面影も。

「ようやく思い出したのか」

 振り返ったユーリは、呆れた表情を隠そうともしない。

「てっきり男だと……それに髪が……」

「誰にも女だと気づかれなかったのは幸いだったな」

 悪戯に成功した子供のように笑う。

「四年もたてば髪も伸びる。あなただって随分変わっていた」

「そうか、もうそんなに経つのか……って」

 そこではっと気づいた。彼女が自分の運命を告げられたのが、十四歳のときだったと。

「それで……なのか?」

 尋ねると、彼女は苦い笑みを浮かべる。

「自分の運命を告げられて、頭では理解しているつもりだった。けれど、ある日、丘の上から港を眺めていたらどうしても我慢できなくなったんだ」


 それで、ナイフで髪を切り、有り金とわずかな着替えとフードを被って港から船に乗り込んだのだと。その船が、たまたまジェイクが航海士を務める船だったのだ。


「船に乗ったあとも、まるで誰も私に気づかないみたいに興味を持たなかったし、話しかけてもこなかった。今思えば精霊の加護のおかげだったのかとも思うけれど。それで、急にあなたが話しかけてきたから」

「驚いて海に落ちた……と」

「その瞬間、ああ、自分は死ぬんだなと思ったんだ。でもあなたはあっさり私を救い上げてくれた」

 そうして、恋をしたのだと。何とも幼い、単純な理由だ。胸の内を読んだかのように、ユーリが笑う。

「単純だと思うだろう? でも、私にはそれで十分だったんだ」

 初めての旅で、初めて命を救ってくれ、そして初めて口づけた相手。

「まさかもう一度会えると思ってはいなかったけれど」

 そう言って、ジェイクの顔を引き寄せると、軽く触れるだけの口づけをする。

「あの時から、随分背が伸びたのに、一向に縮まらない気がする」

「俺は別に伸びてはいないと思うがな。だが、あんたは……綺麗になったな」

 マストに隠れて深く口づける。

「それに、よく海に落ちる」

「その度に、あなたが助けてくれるからな」

「ああ……だが、なるべく落ちないように気をつけてほしいもんだな」


 命がいくつあっても足りやしねえ。ため息をついて言うと、ユーリは心から楽しそうに笑い声を上げたのだった。

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