11. 嵐の後 束の間の
しばらくそうして暖炉の前で特に言葉を交わすでもなく、身を寄せ合っているとやがて冷え切った身体も暖まってきた。腕の中のユーリは、疲れたのか目を閉じている。その完璧な美貌を眺めながら、それにしても、と先ほどの嵐に考えを巡らせる。夜明け前には特に荒れる兆候はなく、むしろ穏やかな風に押され、順調に船出をしていたはずだった。それがあの急変。豪雨に雷鳴、その上、錆びたような赤い空など尋常のことではない。
「魔法、か」
無意識のうちに呟いた声に、ユーリがふっと目を開きこちらを見上げてくる。もの問いたげな視線に、誤魔化すこともできないかと諦め、率直に尋ねてみる。
「あんたはあの嵐に何か見たり感じたりしたか?」
「……いや。ただ、私が感じたのはリィンがあなたの名を叫んだことだけ」
「そうか……」
「『船の墓場』では、原因不明の嵐が起こるという、それなのか?」
「どうだろうな。船乗りたちの間では確かに魔法のような嵐だ、とは聞いたことがあるが、それが起きるのはもっと先の海域だ。こんな港の近くであんな嵐が起きたなんてのは、聞いたことがない」
「だとすると、やはり私に関わりがあるものなんだろうか?」
「にしちゃあ、あんたが何も感じてないってのもおかしな話だがな。まあ考えても仕方がない。少しあのちんちくりんに話を聞いてみるか」
憮然と呟いた彼に、ユーリが吹き出す。
「命の恩人なんだろう?」
「……そういえば、あいつはあんたを守る役目があるとかなんとか言ってたな」
逃げろ、と叫んだとき確かにリィンはそう言っていた。ここまでついてくるくらいだから、何らかの因縁があるのだろうが、それにしてもこの少女の周りには随分と曲者が多い。自分のことは棚に上げてそんなことを思ったのだった。
船室から出ると、空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。先ほどのことがなければ、絶好の航海日和だとのんびりしているところだ。太陽もだいぶ高くなり、春特有の暖かな光を惜しげもなく降り注いでいる。
「ジュリアーナ、気分は?どこか痛いところはない? そいつに変なことされたりしなかった?」
「一言余計だ」
「うるさい! このへっぽこ船長め!」
「何だと⁉︎」
しばらく言われそうだった。だが、命を救われたことには違いがないのでそれ以上反論するのはやめておく。海の男は義理を大切にする。命の借りは、いずれ相応に返すことになるだろう。それはそれとして、リィンが本当に風の精霊だというのなら、聞いておかなければならないことがある。
「ところで、お前、風の精霊なんだよな?」
「そうだと何度も言っているだろう!」
「だったらなぜ、あの嵐に気づかなかったんだ?」
率直に問うと、リィンはそれまでの軽口が嘘のように言葉を失って口籠っている。
「仮にも風の精霊が、あの空と風の変化に気づかないわけがないだろう? あの嵐は何なんだ? 俺はガキの頃から船に乗って、何度も嵐にも遭っているが、あんな色の空を見たことはない。普通、嵐がくるなら空は暗くなる。朝焼けや夕焼けならまだしも、夜明け後に空が赤く染まった中に雷鳴なんて、明らかに普通じゃねえ」
「……だとしたら、一体何だと言うんだい?」
静かな声は、舵のそばからだった。彼の不在の間、アレクシスが舵を握ってくれていたらしい。
「アレクシス……悪かった。代わるぜ」
いったん話を切り上げて舵を取り戻そうとしたが、アレクシスは笑って首を横に振った。
「君さえ構わなければ、もう少しここにいさせてもらえるかな?船の舵を握るのは久しぶりなんだ」
「以前にも、船に乗ったことがあるのか?」
「言っただろう、私はもともと王になるつもりなどなかったんだよ」
朗らかに言うアレクシスに、傍らのユーリの肩がぴくりと震えるのがわかった。どこまで本気なのかはわからないが、殊更、国政に関してはユーリの逆鱗に触れかねないのでやめてもらいたいと内心でため息をつく。ひとまず放っておくことにして、リィンの方に向き直った。
「お前が気づかなかったということは、あれは自然に起きたものじゃない。誰かが起こしたんだ。そうだな?」
「誰かが起こした? あんな途方もない嵐をかい?」
「アレクシス様、少し口を閉じていていただけますか?」
ジェイクが口を開く前に、ユーリがごく冷ややかな声で言い放った。呼び名について抗議しようとした彼に、さらに冷ややかな眼差しを向けて黙らせている。
「……リィン?」
「ジェイクの言う通りかもしれない。空があんな様子になるまで私が気づかないなんておかしい。天候が急変することは、よくあることだけれど、雷雲が近づいたことに気づかないなんてことがあるとは思えない」
ただ、とリィンは続ける。
「今、私はこの姿を保つために私の力のほとんどを封じられている。だから何が起きたのかは本当にわからないんだ」
そう言いながら、左手の中指に嵌めた指輪を示す。
「これを外せば元の姿に戻って力も戻る。けれど、そうなったらこの姿には自分では戻れない」
「そんなんで竜の島へ辿り着けるのか?」
「島の場所はわかっているから大丈夫だ。それに精霊は竜に近づけない。むしろこの身体の方が都合がいいんだ」
精霊には基本的に寿命がない。力を失えばその姿を保てなくなるが、豊かな自然に身を委ねることで、再び力を取り戻すことができる。だが、竜は精霊よりも遥かに強く、古い存在なのだという。彼らの言葉はそれ自体が力を持ち、精霊とは全く異なる形で自然の摂理さえ容易にねじ曲げてしまう。
そして、竜は精霊と自然の絆を断ち切り、その存在を消滅させることさえできる。だからこそ、精霊にとって竜は恐ろしい。本来自然と共に在り、その力を借りて奇跡を起こす精霊とは根本的に相容れないのだと。
「少なくとも人の姿を借りていれば、そう簡単には消失することはない」
「……竜の業火に焼かれなけりゃな」
「火竜とは限らないだろ!」
「何にせよ、あの嵐の原因はわからねえし前途多難だな……」
「あの嵐は……祖国に起きたものと同じなんだろうか」
ぽつりと呟いたのはユーリだった。リィンの方を見ると、ただ首を横に振った。
「私にはわからない……見たことがないから。それに誰もそのことについて語ろうとしないんだ」
「そうなのか?」
「王にも尋ねた。でもあの方はただ、首を振るばかりで。あとは、必ずジュリアーナを守れ、とそれしかおっしゃらなかった」
「本当に役に立たないな……」
ため息をつくと、鋭い風が額を掠めてまたしても前髪が散った。
「……リィン、ジェイクの前髪、私は気に入ってるから、だからこれ以上短くしないでくれないか?」
「ジュリアーナがそう言うなら、次は後ろにするよ」
隣からは控えめな、そして舵の方から盛大な笑い声が聞こえたが、ジェイクには深いため息をつくより他なかった。
結局のところ、嵐の原因がユーリの故国を襲ったものなのか、竜によるものなのか、はたまたそれらとは関係のない全く別のものなのかは不明のままだったが、リィンがわからないと言う以上、もはや原因を探る術はない。無事に竜の島にたどり着くことを祈るのみだ。
舵を手に、空を眺めているとユーリが食糧を持ってやってきた。
「ジェイク、少し休んだ方が」
「あんたはちゃんと食ったのか?」
「まだ、これから。余裕があるようなら一緒にどうかと思って」
「……そうだな。今のところ追い風だし、今のうちに休んでおくか」
食糧を受け取り、マストに背を預けて座り込む。招き寄せるとユーリも素直に腰を下ろした。
「あいつらはどうしてる?」
パンと干し肉をかじりながらそう尋ねると、ユーリは船倉の方を指し示した。
「アレクシスは下の船室で休んでいる。リィンは、上かな」
「マストにでも上ってるのか?」
「眺めが良い方が落ち着くんだそうだ」
「なるほどな」
ボトルのワインをカップに注ぎ、硬いパンと共に流し込む。差し出すとユーリも口をつけた。
「このワイン、美味しい」
「だろう? 食い物は海の上じゃなかなかままならんが、酒ならいざとなれば樽ごと積み込めるからな」
「あの嵐で瓶が割れなくてよかったな」
「まったくだ」
改めて彼女を見つめれば、一つにまとめて編み込まれた金の髪は日の光を受けてきらきらと輝き、肌は透き通るように白い。瞳は海を映したかのように深い碧、ワインに濡れた唇はそこはかとなく艶かしい。
「どうかしたか?」
不思議そうに見上げる顎をすくい上げて唇を舐めると、重いはずのワインがほのかに甘い。
「ジェイク……?」
問いかける唇を塞いでそのまま深く口づける。舌を絡めると、初めは戸惑っていたがおずおずと応えてくる。その拙さがますます愛しい。腰を引き寄せてさらに深く口づけると首に腕をまわされた。白く美しい手が労わるようにジェイクの髪を撫で、頬の無精髭に触れる。くすぐったくて一度顔を離すと、やや潤んだ眼差しがこちらを見つめている。
「……昼飯の最中で悪いが、あんたを抱きたい」
耳元でささやく声は、自分でも驚くほどに、低くかすれて熱を持っていた。びくりとユーリが震えるのがわかったが、彼女は身を離すと干し肉を口に押し付けてきた。
「食事が先だ。それから少し休まないと」
「肉よりあんたを食いたい」
行儀悪く肉を咀嚼しながら首筋にかぶり付くと、ユーリは困ったように微笑んだ。
「ジェイク、あなたを愛しているけれど、今は食事と休息が先だ」
直截な言葉に、思わずジェイクは咳き込んだ。
「あんたそういう台詞を……」
「念のため言っておくけれど、家族以外に愛していると言ったのはこれが初めてだ」
真顔で言われても、冗談なのか本気なのか区別がつかない。内心を読んだかのように、ユーリは少し人の悪い——それでも十分に魅力的な——笑みを浮かべると、軽く触れるだけの口づけをしてくる。
「それで、俺はいつまで待てばいいんだ?」
さらに腰を引き寄せて尋ねたが、次に差し出されたのはやはりパンと干し肉だけだった。
「我慢させた分、後で覚えておけよ」
「ジェイク……」
頬を染めてため息をつくユーリにニヤリと笑い、食事に戻る。
船旅は始まったばかりだった。
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