10. 嵐の中

「アレクシス、ユーリを連れて船室へ入れ!」

 切迫した声に、とっさに動けないでいたユーリの腕をアレクシスが掴み、舵の近くの船室へと駆け込んだ。船倉の近くを選ばなかったのは、万が一浸水した場合の逃げ場を考えてのことだと気づいたのは、少したってからだった。それまでの平穏さが嘘のように雷鳴が響き、風が唸り声を上げて轟々と吹き荒んでいるのが室内からでさえ感じられた。窓際に立ってみても、叩きつける雨のせいで白く煙って見通すことができない。


「彼が心配かい?」

 不意に耳元で低い声で問いかけられ、はっと我に返る。見上げると、アレクシスはいつものように穏やかで、けれど、その瞳はどこか複雑な色を浮かべていた。ユーリに見せる表情はいつも穏和で献身的だ。それは初めて会った頃から変わらない。だが、今はその気配が変わっていることに、さすがの彼女も気づかないわけにはいかなかった。

「私を追ってきたことを、後悔していますか?」

 率直に問うと、アレクシスは一瞬息をのんで口元を押さえた。図星というところだろうか。

「私は、あなたが思っているような人間ではありません」

 なのに、巻き込んでしまった。何を置いても断固として船に乗ることは拒否すべきだった、と今更後悔しても遅い。けれど、あの時、と思わずにはいられない。ジェイクと会えたことで、彼の優しさに甘えて判断が鈍っていたことは否めない。いくらアレクシスが自ら望んだことだとはいえ、彼には一国を治める責任がある。彼の肩には多くの民の命運が載っているというのに。

 彼女の想いを読み取ったのか、アレクシスはそっと頰に手を伸ばしてくる。

「あなたがそんな顔をする必要はない。これは私自身が選んだこと」

「だとしても、私にはそんな価値はない」

「価値を決めるのは私自身だよ。私にとっては国も民ももちろん大事だ。だが、あなたの方がもっと大切だというだけだよ」


 ——たとえ、この想いがあなたに届かないとしても。


 声にならない想いは、切ない眼差しでそのまま伝わってきた。どうしてそれほどに、と何度尋ねてもアレクシスは答えない。今なら答えてくれるだろうか?真っ直ぐに見つめ返すと、頰に触れた手が熱を持ったような気がした。鮮やかな緑の瞳が真剣な光を浮かべてユーリを見つめたまま、近づいてくる。唇が触れるほどに近づいたところで、ふっと表情が緩んだ。

「こういうときは、目を瞑るのが礼儀というものだよ?」

「私が礼儀を知らないのはあなたがよくご存知でしょう?」

「……敵わないね、本当に」

 ため息まじりに笑って、不意にきつく抱きしめながら額に口付けてくる。それくらいは許容範囲だろうと、しばらく抱きしめられるまま、じっとしていた。

 やがて、腕を放すと、アレクシスは懐から何かを取り出し、ユーリの首にかけた。見覚えのあるそれは、けれどつい先日手放したばかりのはずのものだった。

「何度手放しても戻ってくるのか、これは……」

「呪いの品のように言わないでくれるかい?」

 やれやれとため息をついたアレクシスが再びユーリに贈ったのは、あのアミュレットだった。中心にあしらわれた宝石は、初めて見た時は深い青色をしていたが、今は血のような紅に染まっている。

「これは……」

「言っただろう? アトランティリウムは高価な石だと。手放すのはいいけれど、次からはそれこそ価値を知った上で使って欲しいね」

「それは……申し訳ない」

「それに、ただ高価なだけではなく……」

 アレクシスが言いかけたそのとき、轟くような雷鳴と共に、船が大きく揺れた。とっさにアレクシスが彼女を抱き込み支えていなければ、床に体を打ち付けていたかもしれない。それほどの衝撃だったが、ユーリはそれどころではなかった。


 ——ジェイク!


「リィン……⁉︎」

 雷鳴と嵐に紛れて聞こえるはずのない悲鳴のような声は、どうしてだか、はっきりと彼女の元に届いた。するりとアレクシスの腕の中から抜け出して船室を飛び出そうとするが、腕を掴まれる。

「だめだ。危険すぎる!」

 それまで見たこともないほどに真剣な表情で言うアレクシスに、それでもユーリはきっぱりと告げる。

「どちらにしても、彼を失えば、私の運命はここで終わりだ」

 それは直感だった。彼を求める恋心はもとより、だがそれ以上に彼女の運命がジェイクを必要としているのだと。彼女は運命に抗うつもりでいたが、それすらも誰かの思惑の内のように思える。だが、そうだとしても、もはや彼女にとっては運命と選択は渾然一体となり、その選択に疑いを抱いていても意味がなかった。彼女の勁い眼差しにアレクシスが一瞬怯んだその隙をついて、ユーリは外へ飛び出した。


 雷鳴は止んだようだが、強い雨と風が吹き荒んでいる。空は異様に赤く染まって、まるでこの世の終わりのようだ。ユーリは束の間立ち竦み、だがすぐにリィンの姿を見つけると駆け寄った。

「リィン、彼は⁉︎」

「……海に」

 リィンの眼差しの先には黒く渦巻く海が広がっている。それだけで何が起きたかは明白だった。船縁に駆け寄ったが、何の痕跡もない。それからは、リィンが止める間もなく、全く後先も考えずに、ユーリは暗い海へと後を追うように飛び込んだ。


 まだ春も浅い海は凍るように冷たかった。頭は冴えたが体は動かず、海の底へと引き込まれていく。水を含んだ服が体にまとわりつき、ますます身動きがとれなくなっていった。さすがに後先を考えなすぎたか、せめてもできることは海の水をどれだけの間飲まずにいられるだろうか、などとどこか冷静に考えていると、ぐいと強い力で腕を掴まれた。驚いてそちらを見る間もなく、荒れ狂う波をものともせずに水をかき分け浮上していく。

「リィン、縄を投げろ!」

 水面に上がるや否や、船底に近い場所に張り出した突起を手がかりに片腕でユーリを抱き寄せ、そう叫ぶ。

「いいか、俺はこの後縄を掴まなきゃならない。あんたは自分の力で俺にしがみつけ。一瞬でいい、縄を掴めたらあとは俺が支える」

 息は荒いが、ごく冷静にそう告げる声に、ユーリはただ頷いて、その首に腕を回した。なるべく負担にならないようにと思ったが、土台無理な話だった。


 まもなく太い縄が狙いを過たず——風の精霊の力だろうか——間近に届いたところで、彼は突起から手を離し水面から縄を掴む。

「リィン、引き上げろ!」

 そんな無茶な、と思ったが、精霊とそして頼りになる隣国の王のおかげで、二人は何とか甲板へと生還したのだった。


「——何考えてんだ、あんたは‼︎」

 二人が甲板へと上がる頃には嵐はぴたりと収まり、空の色も普通の曇り空へと変わっていった。そして、ユーリは目の前の人物に雷を落とされている。

「俺を追って海に飛び込んだだと⁉︎ 何を考えてるんだ、本当に⁉︎」

 海の中から彼女を引き上げたのはもちろん誰あろうジェイクだった。彼は自ら海を泳ぎ上がり、ついでにユーリをも引き上げる羽目になったのだ。面目次第もないとはこのことである。

「荒れ狂った海に素人が飛び込むなんざ、ただの自殺行為だろうが! それとも何か? あんた死にたかったのか?」

「まあまあ、ジェイク、少し落ち着いて」

 間に入ったのはアレクシスだった。ジェイクの方をまともに見ることもできず項垂れている彼女に、そっと乾いたタオルをかけてくれる。

「彼女も反省しているし、結果として二人とも無事だったのだからよかったじゃないか」

「そうだ。ジュリアーナが飛び込んでいなかったら、お前だって上がってこられたかどうかわからないじゃないか」

 リィンの言葉にふと顔を上げると、先ほどまでの怒号とは裏腹に苦虫を噛み潰したような、それでもこちらを気遣う表情がそこにあった。


 全身ずぶ濡れで、長い黒髪が額に張り付いている。間から覗く灰色の瞳は怒りに燃えていたが、ユーリの瞳とぶつかると、ふっと力を失って、やがていつものようにがりがりと頭をかいた。

「本当に何をやってんだ、俺もあんたも……」

「雷鳴に驚いて海に落ちるなんてほんと間抜けな船長もいたもんだな!」

「うるせえ」

 今回ばかりは反論する声に力がない。リィンが縄を投げてくれなければ助かったかどうかも危ういので止むを得ないのだろう。

「とりあえず、二人ともまずは着替えておいで、リィンは……大丈夫なのかい?」

「私は問題ない」

 どういう仕組みでか、精霊は人の姿をしていても濡れないのか、単に気にならないのか。ぼんやり考えていると、おもむろに立ち上がったジェイクに腕を掴んで引き上げられる。

「行くぞ。このままだと風邪引いちまう」

 そのまま二人で船室へと入っていく。アレクシスとリィンは追ってはこなかった。


 船室に入るなり、ジェイクは下着以外全て脱ぎ捨てた。水を吸った服は重く、どさりと音を立てるほどだ。棚から取り出したタオルで体を拭きながら、二人分の着替えを取り出すと、寝台の上に放り投げて、ユーリの方に目を向けてくる。

「あんたも早く着替えろ。あんたの柔肌なんて、塩水で荒れちまうぞ」

「……すまなかった」

 しぼりだすようにそれだけ言うと、あとは言葉が出なかった。死ぬつもりはなかった。それでもジェイクを失うかと思ったら、後先考えずに飛び込んでいた。それが何の助けにもならず、むしろジェイクの命さえ、さらに危機に晒すことになると思いもせず。俯いていると、深いため息が聞こえた。

「あんたが無茶なのはわかってたはずなんだがな」

 言って近づいてきたジェイクはそっとユーリの服を脱がせてタオルで包み込む。冷え切った体に乾いた布の感触が心地よかった。そのまま、力強い腕できつく抱きしめられる。

「悪かった」

 突然の謝罪に目を上げると、ジェイクが苦い笑みを浮かべている。

「元々は俺がヘマをしたのが悪いんだ」

 それに、とジェイクは続ける。

「あいつが言った通り、あんたが飛び込んでくれなきゃ、暗い海の中で上も下もわからずそのまま沈んじまってただろう」

「私が……?」

「正確に言えば、あんたのその宝石だな。そいつがどういうわけか、水中で強く光っていた。あんたの瞳と同じ色でな」

 それを目印に、水面へと上がることができたのだと。

「それ、宿屋の親父に渡してたやつだろう? 何だってまたあんたのところに戻ってきたんだ?」

「……アレクシスが」


 それだけでジェイクは経緯を悟ったらしい。ますます苦虫を噛み潰したような顔になったが、それ以上は何も言わなかった。巡り巡ってアレクシスの贈り物が二人の命を救ったわけだ。腕を解くと、体を拭いて手早く着替える。彼が後ろを向いている間に、ユーリも新しい服に着替えた。まだ髪が水を吸って重かったが、着替えたことでようやく人心地ついた気がする。


 ジェイクは船室の小さな暖炉に火を起こして前に座り込むと、ユーリを招き寄せた。素直に近づくと、暖炉の前に座らされ、髪をわしゃわしゃと子供のようにタオルで包み込まれる。

「あとで湯を沸かしてやるから髪も流すといい。せっかくの綺麗な髪が塩水で痛んじまいそうだ」

「私は気にしないけれど……」

「少しは気にしろ」

 そう言って、後ろから首筋に顔を埋めて抱きしめられる。

「二度とあんなことはするな」

 硬い声で告げられ、ジェイクがどんな想いでいるのかが真っ直ぐに伝わってきた。申し訳ないと思うのと同時に、それほどまでに想ってもらえることが、やはりどうしようもなく嬉しい。不謹慎なのは承知の上だが、それでもそう思うことは止められなかった。そんな気配を感じたのか、ジェイクは不意に首筋に強く口づける。

「ジェイク⁉︎」

「本当にどうしたもんだかな……」


 深い深いため息をついた彼に、ユーリはついに笑いを堪えきれず吹き出すと、半ば怒り、半ば呆れ顔のジェイクに顎を捉えられ、深く深く口づけられることとなったのだった。

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