9. 海へ

 港につくと、ちょうど水平線の彼方から太陽が昇り始めるところだった。赤銅色に染まった空が徐々にその色を取り戻していく。


「もう少し早く発つつもりだったんだがな……」

 頭をかきながら、ユーリの手を取って船へと誘う。甲板に上がると、階段の上から本当に一夜をそこで明かしたらしいアレクシスと、なぜか少年がもう一人、その隣で腕組みをしながら仁王立ちしていた。

「遅い‼︎」

「誰だお前?」

「おや、君の知り合いじゃないのかい?」

 アレクシスが面白そうにこちらを見下ろしてくる。その脇でふんぞり返る少年の姿を見て、嫌な予感が脳裏をよぎった。後ろを振り向くと、ユーリは苦笑していた。

「……まさかアレか?」

「だと、思う。あなたが言った通りになったな」


 確かに言った。ならず者の船乗りと、王様とそして精霊が乗った船なんて世界中どこを探しても見つからないと。


「だからってこんなに堂々と乗り込んでくるなんて聞いてねえぞ」

 ぼそりと呟いたが、その囁き声でさえ、風は聞き逃してはくれないらしい。

「船を動かすのに、人手がいるだろうと思ってわざわざこんな格好をしてきてやったのに、何だその言い草は!」

「……あれきり姿を見ないと思ったら、着替えに出かけていたのか」

「我らの王にお願いしてきたんだ!」

 皮肉のつもりで言ったのだが、少年はえっへんと誇らしげに胸を張っている。

「本当にリィンなの?」

「ジュリアーナ! 見違えたか?」

「……そう、だな」

 ユーリとは質の違う長い濃い金の髪に、エメラルドのような瞳。すんなり伸びた手足は細いがしなやかで、どこからどうみても元気いっぱいの少年である。

「ていうか、お前オスだったのか」

 以前見たときは、どちらかというと少女よりだった気がするのだが。

「オスとはなんだ! 私たちにだって性の区別くらいある。普段は必要ないからあまり気にしないけど。ならず者と船に乗るなら男の方がいいだろうと王がおっしゃったんだ」

「ならず者とはなんだ」

「自分で言ってたじゃないか」

「うるせえ、お前に言われる筋合いはねえ、この覗き魔が!」

「なんだと⁈ この色ボケジジイ」

「誰がジジイだ! だいたい精霊のくせに何でそんなに口が悪いんだお前は!」

「……精霊?」

 心底驚いたようなアレクシスの声で、リィンのペースに引き込まれて子供じみた口論をしていたジェイクもようやく我に返った。振り返れば、ユーリが口元を押さえて笑いを堪えていた。

「……ったく。あんたも見てないで止めろ」

「楽しそうだったから」

 そう言う表情はとても穏やかで、だからその内容には目を瞑ることにした。

「とりあえず話はあとだ、日が昇り切ってからじゃ風向きが変わっちまう。まずは港を出るぞ」

「行き先は?」

 アレクシスの問いに、ジェイクはリィンへと視線を向ける。

「道案内はあいつだ。だが、俺の勘だと北の海域だろう?」

「……そうだよ」

 その答えを聞いて、アレクシスは驚いた表情を隠さずジェイクとリィンを交互に見つめた。ユーリはその意味がわからないのか、首をかしげている。

「北の海域と言えば——」

「そう、船の墓場だ。とりあえず、日の高いうちに近くまで行っておきたい。出航するぞ」


 それだけ言って、出航の準備にかかると、残りの二人も予想外にてきぱきと働き始めた。ユーリだけが所在なげにしている。

「おい」

 舵の側から声をかけると、ぱたぱたと走り寄ってくる。船上の長旅になるということで、ユーリの姿もリィンと同じような丈の長いズボンにシャツという少年の出立だ。格好だけなら立派な船乗り見習いだが、彼女にその役割を求める気はジェイクにはさらさらなかった。

「船室でゆっくりしてたらどうだ?」

「……ここにいては邪魔か?」

「邪魔ってこともないが、退屈だろう?」

 帆を上げる準備をしながら応えると、ユーリは首を横に振った。

「……一人でいるよりは、あなたのそばにいたい」

 随分可愛いことを言ってくれる、と軽口を叩こうと振り返って、ジェイクは表情を改めた。ユーリの表情はさほど変わらない、というか、冷静に見える方だ。だが、握り締めた手がわずかに震えているのを見れば、自分でも思っている以上に張り詰めた雰囲気が伝わってきた。


 ひとまず帆を張る作業を仕上げ、錨を上げる。帆が風をはらみ、やがて海へと漕ぎ出す。ジェイクのもっとも好きな瞬間の一つだった。ユーリの手を取って舵の前に立つ。

「怖いか?」

 問いかけに、ユーリは海を見つめたまま微かに頷いた。この先に待っているものが何かはわからないが、運命を変える術を見つけられなければ、彼女を待っているのは確実な死だとリィンは語った。恐ろしくないわけがない。だが、悩んでも仕方のないことだ。それよりは目の前にある難題を解決しなければならない。

「いいか。この先、俺たちはまず北の海域へ向かう。その先には昨日レンディの野郎も話していた、『船の墓場』がある」

「多くの船が難破したという……?」

「そうだ。このあたりで船乗りが踏み込めない謎の海域といえばまずあのあたりだ。竜が棲むって噂も昔からある」

「問題は、そこをどうやって越えるか……だな」

 割って入ってきた声に、ジェイクはあからさまに顔をしかめたが相手は気にした風もない。やれやれとため息をつきながら、舵を大きく右にきり、海へと滑り出した。大きく風が吹き、彼の船を海へと運び出してくれる。右手に太陽を眺めながら、穏やかな波を、はじめはゆっくりと、やがて速度を増して北へと突き進んでいく。


 夜が明けきり、薄い青に包まれた空と海を見て、ユーリがほうっと息をつく。舵を握ったまま片手で招き寄せると、素直に身を寄せてくる。上着を脱いでその体を包み込むように背後から抱きしめた。

「綺麗だろ?」

「……ああ」

「俺は海が好きだ。厄介事も多いが、こうして波に揺られていると何より落ち着く」

「わかるような気がする」

「あんたも船乗りになるか?」

「女性を船に乗せるのは不吉なんじゃないのか?」

「違いないな。それにあんたを乗せてたら俺が仕事にならない」

 舵取りに集中できないのは、船乗りとしては命取りだ。半分笑いながらそう言ったが、半ば本気でもある。信頼できる航海士がいれば舵を任せられるが、ユーリを連れて他の男どもと船旅をするというのはやはり気が進まない。自分はどうするのだろうか、と先のことを考えてだがそれも悪くないと思った。

「もう少し小さい船を手に入れて二人で旅するのはどうだ?なんならリィンに手伝わせてもいい」

「やだよ、絶対!」

 地獄耳が遠くから不平を述べたがユーリは吹き出した。

「ようやく笑ったな」

「ジェイク……」

「言ったろう。竜の島とやらまでは俺が連れて行ってやる。その先のことは着いてから考えろ。それまではこの船旅を楽しんでおけよ」

「楽しめる……だろうか?」

「不安なら、夜を待たずに錨を下ろして船室にしけこむか?」

 急ぐ旅でなし、とニヤリと笑ってユーリを抱く腕に力を込めるとびくりとその肩が震えた。同時に、また鼻先を鋭い風が掠めて前髪がぱらぱらと舞う。

「聞こえてるからな!」

 真面目なんだか何なんだか……作業の手は止めず、それでもこちらの動向は見逃さない精霊に、ジェイクはため息を、ユーリは心の底から楽しげな笑い声を上げたのだった。


「それにしても、この先はいったいどうなっているんだろうね?」

 風が安定し、帆に任せられるようになってきたところでアレクシスが舵のそばまでやってくる。リィンもまた後ろから顔をのぞかせた。

「それより俺はそっちの小僧がどうなってるのかの方が気になるがな」

「ああ、それは私も気になっていたんだ。いったい誰なんだい?」

 屈託のない笑顔で尋ねるアレクシスに、リィンはふいと顔をそらして答えない。ユーリも立ち上がり、ジェイクの脇に立つと同じようにリィンに尋ねた。

「あなたたちが人前にでるなんて、尋常なことではないと思うんだが、答えられないのであれば、答えなくても良いけれど」

「別に秘密にするようなことでもない。ずっとずっと昔はもっと気軽にこうやって姿を見せていたらしいよ。だってユーリが私たちを感知できるのはそのおかげだしね」

 そういえば、ユーリの祖国の伝説にはかつて精霊に愛された者がいたという。それ故にいまも精霊の声を聴くことができる者が時折生まれると。

「愛された、ってのは加護とそういう比喩じゃないってことか?」

「そういうこと。かつては大地や風や水にはもっと力が宿っていたから」

「今はそうでもないってことか?」

 問うたジェイクにリィンはきっと鋭い眼差しを向けてくる。深い緑の瞳が怒りで燃えるように輝いていた。

「お前たちのせいじゃないか!」


 かつて、魔法は精霊たちと人間の協力の証だった。人は精霊と絆を交わし、精霊たちが好意を抱けばその人間に力を貸す。風車に風を送るような小さなことから、時には日照りに喘ぐ村に雨を降らせるような大きな天候の変化まで。だが、それはあくまで人の祈りに精霊が応えて助力する、という形だった。


 だが、精霊の力を借りることに慣れた人の中には、気まぐれな精霊の助力だけでは足りないと考える者が出始めた。彼らは研究を重ね、さまざまな呪具や呪文を用いて精霊を縛り、使役する術を編み出した。それは協力の証ではなく、搾取に過ぎない。彼らは魔法使いと呼ばれ、己や主人の求めるままに精霊の力を行使した。

 とはいえ精霊とて全能ではない。彼らの力も結局は大地や水や風といった自然を通して得られるものに過ぎない。搾取が過ぎれば自然の力は失われていく。何よりも大地の疲弊と水の汚濁は致命的だった。精霊たちもまた病み、多くが力を失って消えていった。残った者たちは風と共にわずかに残る緑豊かな地へ移り住み、ひっそりと暮らしている。かつての公爵領もまたそのひとつだった。


「ジュリアーナたちの祖国は、彼らが立ち去ったことで人との関わりを断つことができた。森を閉じ、人の立ち入りを拒むことで、ようやく私たちはその力を保つことができたんだ」

「海へと移り住んだ祖先も精霊の助力を得ていたと聞いたけれど……?」

 尋ねたユーリに、リィンはため息をついて首を横に振った。

「本来の私たちの力からすれば、微々たるものだよ。今のあなたの故国の人々は、私たちの助力なんてそもそも当てにしていなかった。自らの力で海を切り開き、陸地をつくり、船で世界へ繰り出した。そうしてあれだけの繁栄を築いたんだ。あなたたちは誇るべきだ」

「ありがとう。他国に比べればごく小さな国だけれど」

「謙遜だね。あなたの国は周辺だけでなく遥か彼方の王国さえも関心を持っている。貿易の相手としてこれ以上信頼できる国はない、とね」

「王妃に望む理由としてはわかりやすいな」

 半ば本気で言ったのだが、アレクシスは片眉を上げて笑っただけだった。

「アンティリカは領土こそ大きくはないが、武力も商業も発展の一途だ。各国への影響力を考えれば、大国に匹敵する。そんな理由で王妃に望むなら、もっと他に選択肢があるだろう」

 冷静な声でユーリがそう言った。それを聞いたアレクシスは一瞬驚いた表情になり、それから、それまでとはうって変わった穏やかで心底ユーリを愛おしむような笑みを浮かべる。

「そこまで私のことを理解していてくれたとはね」

 腰に手を伸ばし抱き寄せようとするその手をジェイクが払う前に、鋭い風が吹き抜けて行った。

「……俺の時は流血沙汰だったがな」

「大袈裟に言うな!」

「事実だろ」

 顔を真っ赤にしているリィンをよそに、ふと何かを感じ、空を見上げたジェイクは血の気が引いていくのを感じた。その表情を見て、リィンも同様に空を見上げ、あんぐりと口を開けた。

「仮にも風の精霊なんだろ、気づかなかったのか⁈」

 甲板を走り、帆を半分たたみながらそう叫んだが、リィンは真っ青な顔のまま、何も答えなかった。答えられなかった——と言う方が正しいのだろう。


 見上げた空は、そこだけ禍々しい赤に染まり、黒い雲が渦巻き始めていた。

「アレクシス、ユーリを連れて船室へ入れ!」

「君は⁈」

「こんな状況でのうのうと引っ込んでいられるか!」

 舵に戻って叫んだ彼に、アレクシスは一瞬迷うそぶりを見せたが、すぐにユーリの手を引くと階段を駆け下りて行った。

「リィン、お前も行け」

「私にはジュリアーナを守る役目がある」

 深い緑の瞳には、それまでのどこか軽い雰囲気が一変し、強い意志が浮かんでいた。一瞬ののち、強い風と共に大きな雨粒が甲板に叩きつけ始める。赤黒い雲から容赦のない雨と暴風が彼と彼の船を襲った。幾たびの嵐も経験したジェイクにとっても、かつて経験したことのない突然の展開に、舵にしがみついているのが精一杯だった。

「リィ……」

 だが、ジェイクが言い終わる前に、真っ白な稲光が天を切り裂く。他に遮るもののない海上だ。間近で雷が鳴れば、船の運命はおおよそ自明である。

「ジェイク、伏せろ‼︎」

 初めて名を呼ばれたな、と頭の隅でどこかのんびりそんなことを考えていると、轟音と共に船が振動し、反動で舵から手が滑った。かろうじて稲妻はマストを逸れて海に落ちたようだ、と認識したところで体が宙に浮いているのに遅れて気づいた。

「ジェイク‼︎」


 必死な精霊の叫び声を聞きながら、ジェイクはかつて見たことがないほどに荒れて黒く渦巻く海へ、真っ逆さまに落下していった。

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