8. 夜明け前

 宿の者に自分の不在を知られぬよう、足音を忍ばせて外に出ると、月が皓々と輝いていた。すでに季節は春だが、夜明けが遠いこの時間はまだ冷える。白い息を吐きながら、しばらく当てもなく歩く。気がつくと、いつの間にか足は港へと向かっていた。


 自分の船へとたどり着くと、甲板の階段に腰を下ろして酒瓶を取り出してぐいとあおる。強い酒は冷えた体にはちょうどいい熱をもたらしてくれた。一息ついてから、陸の方に視線を向ける。

「いつまでそうしているつもりだ?」

「おや、気づかれていたのかい」

「生憎、今にも殺されそうな殺気に気づかないほど鈍くないんでね」

「心外だな。彼女の想い人に手を出したりはしないよ」

 暗がりから肩を竦めながら歩み出して来たアレクシスにジェイクは持っていた酒瓶を差し出す。意外にもアレクシスは素直に受け取り、彼の隣に腰掛けると、ぐいと酒を呷った。

「悪くない」

「だろ?」

 もう一本を取り出して二人並んで酒を飲む。一体何をやっているんだかとは思ったものの、もはや考えることも馬鹿馬鹿しい気がしていた。

「……君は彼女をどう思う?」

 ややして問いかけてきた声は、それまでとは異なり、真摯な響きを宿していた。酒を呷りながら、どう答えたものかと考える。ユーリとは会ったばかりだが、そうと思えないくらい彼の中で大きな部分を占めてしまっている。彼女にとっての自分がどういうものなのかは未だにわからないことだらけだが、彼女が純粋に彼に対して好意を抱いており、どうやら信頼もされているようだ。彼としてはそれに応えるつもりでいるし、もっと言えば、どんな困難が待ち受けていようと彼女を手放す気はない——今のところは。

「今まで見た中で一番の別嬪だな。度胸もある。到底公爵令嬢になんか見えやしねえ」

「違いない」

 否定するかと思いきや、アレクシスは吹き出すと実に楽しそうに頷いた。

「昔から自由な子だったけれど、さらに磨きがかかったね」

「随分前から知っているような口ぶりだな?」

「あの子は覚えていないようだけれどね」

「あんたはそれでいいのか?」

「……今はね」


 絞り出すような声に、改めて目線を向けると、アレクシスはどこか遠くを見つめていた。その横顔は彫刻のように端正で、神々しくさえある。なぜ、ユーリはこの男でなく、ジェイクを選んだのだろうか。容姿についてはまあそれぞれ好みはあるだろうが、一国の王からの、それも真剣な好意を跳ね除けられる女がいること自体、ジェイクには信じられなかった。


「今は、彼女の運命は彼女の手の中にない。彼女は、嵐の呪いを解かない限り、何も選べないと思っている」

 それからようやくこちらに顔を向ける。

「君とのことでさえ、彼女にとっては運命の通過点に過ぎない——はずだった」

 静かな中にも、じわり、と仄暗く滲む狂おしい想いが伝わってくる。

「長い公爵家の歴史の中、あの呪いのような嵐が襲うようになってから、公爵家の娘たちは皆、竜に攫われるか、一人でどこかへ旅立っていった。共に行くことを望んだ者も多かったようだが、公爵の命により、禁じられたそうだ」

「……そうなのか?」

 リィンの話では、娘たちは皆一人で旅立って行ったという話だったが。

「最初に自ら旅立つと言った娘には、その娘の想い人が共に行ったそうだ。だが、彼は一人で戻ってきた——絶望と共に」

「……どういうことだ?」

「詳しいことはわからない。ただ、当時の文献によれば、それ以降公爵は娘が旅立つ時に供を連れることを禁じた、とだけ書かれていた。まあユーリの場合は言われなくとも一人で旅立つ決意を固めていたようだけれど」

 またリィンに会うことがあれば、問い詰めてみるべきだろう。精霊たちは何があったかを知っているはずだ。どうやら彼らは嘘はつかないが、隠し事は得意らしい。

「いずれにしても、共に旅立つことで何か良からぬことが起きるらしい。だからこそ、彼女をひとりで行かせたんだが、今のところ特に不吉なことは起きていないようだな。それどころか彼女は自分で旅先で伴侶を見つけ出してしまった」

「……良からぬ展開をご希望で?」

 片眉を上げながらそう言ってやると、アレクシスは酒を一口呷ると、まさか、と笑った。

「彼女が望むなら、きっと意味のあることなんだろう。今のところはね」

「……つまり、呪いさえ解けてしまえば話は別ってことか?」

「私はどちらかというと、執念深い性質でね」

 顔は笑っているが、眼は真剣そのものだ。どうやら厄介な相手のようだが、今さら後悔しても仕方がない。ある程度は覚悟の上だ。

「……それで、あんたは夜が明ける前から、わざわざ俺を尾け回して将来の宣戦布告をしにきたってわけか?」

「まあ、そんなところかな」

「……執念深いにもほどがあるだろ……」

 ため息をつくと、アレクシスは今度は心の底からの明るい笑い声を上げる。

「まあ、君が彼女を弄んだり傷つけるような人間なら、私にもいろいろ考えがあったのだけれどね。想像の遥か上をいくお人好しのようで、私としても振り上げた拳をどこに下ろそうかと考えあぐねていたところに君が酒に誘ってくれたのでまあ助かったよ」

「……馬鹿にされてるんだろうな?」

「とんでもない、褒めてるんだよ。ユーリの人を見る目をね」

「……売られた喧嘩は買うぜ」


 さすがに苛立ちを感じ、鋭い眼差しを向けながら低い声でそう告げたが、相手はさして堪えた様子もなかった。やれやれ、と再度ため息をつき、だが一つだけ気にかかっていた疑問を口にする。


「あんた本当に王様なんだよな? 一月も国を空けていて本当に問題ないのか?」

「どうだろうね。最善は尽くしてきたつもりだが、まあなるようにしかならないだろう。政敵は一掃したし、法も整備し直した。地も治めたし、民の暮らしはだいぶ上向いているはずだ。あとは公爵の裁量次第というところだが、あの方にお願いしておいてもなお国が乱れるようならいっそ滅びるしかないだろう」

「……あんたなあ」

「事実だ。国は民がいてこそ成り立つ——まあ貴族も含めてだが、民が平和と国の発展を望まないのであれば、たとえ私がどれほど身を粉にして働いたところで次の世代まで保つかどうかはわからない。私はこの時のためにできうる限りの手は打った。今の私にとってはユーリより大切なものはない」

「言い切ったな」

「彼女には内緒にしておいて欲しいね。きっと烈火の如く怒るだろうから」

「本当によくわかってるんだな、あいつのこと」

 ここまで彼女を真剣に理解し、想っている相手のことをなぜユーリは受け容れないのだろうか。いくら運命がどうのと言っても心動かされないなんてことがあろうだろうか。顔にありありと浮かんだ疑問を読み取ったのか、アレクシスは苦笑する。

「初恋というのはそれほどに大切なものなんだろう、特に彼女にとっては」

「……は?」

「何だ知らないのか?」

 アレクシスは心底驚いたように呟いたが、それから少し寂しげに笑った。

「彼女らしいと言えば、彼女らしい」

「おい……」

「私も詳しく知っているわけじゃない。聞きたければ本人に聞くんだね。少なくとも私は恋敵の後押しをするほどお人好しじゃない」


 くつくつと笑いながら、どこまで本気なのかわからない口調でそう言うと、酒瓶に口をつけ、それ以上は話そうとはしなかった。言いたいことは山ほどあったが、これ以上問い詰めても仕方がない。酒瓶を持って立ち上がった。


「俺はいったん宿に戻るが、あんたはどうするつもりだ?」

「私はこのままここにいさせてもらうよ。夜明けまでそう長くもないだろう」

「物好きだな」

 ため息をつきながらも、船室に積んであった毛布を引っ張り出して放り投げた。

「風邪でも引かれちゃあ、前金が無駄になっちまうからな」

「……本当にお人好しだな。だが、ありがたい」

 爽やかな笑顔のまま投げられた皮肉には構わず、じゃあな、と告げて元来た道を歩き出した。しばらく歩いてから振り返ると、毛布を羽織ったまま月を見上げる姿が見えた。夜明けがくれば船出だ。面倒事は覚悟の上だが、なるべく風に恵まれてこの船旅が可能な限り短くなるように、と柄にもなく月に祈りたい気分だった。



 そっと扉を開け、部屋に戻ると、ユーリはぐっすりと眠っていた。淡い金の髪が窓から差し込む月の光を映して仄かに輝いている。長い睫毛にけぶる瞼はしっかりと閉じられている。あの瞳が見たいと半ば無意識に触れそうになって、我に返って拳を握り締めた。アレクシスの宣戦布告はさほど意味を持たなかったが、ユーリの初恋がジェイクだと言うのはいったいどういうわけか。少なくともすぐに思い当たる節はない。これほどの美しい相手とそんなロマンスがあれば、いかな彼でも忘れると言うことはないと思うのだが。


 ——まあ、話を聞く時間はいくらでもあるか。


 リィンのせいでやや短くなった前髪をかきあげながら、内心でため息をつく。彼女が話さなかったということは、彼女なりの理由があるのだろう。アレクシスの言う通り、彼女の運命を取り戻すのが先決だ。

「……ん」

 薄い唇から、微かな吐息が漏れた。こちらに向けられた瞼はまだしっかりと閉じられている。穏やかに眠るその頬に触れたいという己の欲望をはっきりと自覚して、そんな自分に呆れながらも、ねじ伏せてジェイクは長椅子に横になった。


 夜明けは、もうすぐそこだった。

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