祝宴 #3
母はユーリの手を取り、船へと誘った。父と言葉を交わす間もなく、そのまま船室へと連れ込まれる。
「母上……?」
「さあ、いよいよね」
心の底から楽しげなそんな母を見るのはこれが初めてだったかもしれない。そうして笑っていれば、絶世のと呼ばれた美貌は今だに健在で、ユーリでさえも見惚れてしまうほどだ。だが、母とその侍女と思われる女性が取り出したものを見て、ユーリは目を丸くする。
「母上……これは」
それは白い——どう見ても花嫁衣装だった。気が遠くなるほど繊細に編み込まれたレースが、幾重にも織り込まれている。さらに、その端々には小さく輝く硝子の欠片が縫い込まれ、きらきらと輝いていた。
「もちろん、あなたの花嫁衣装ですよ」
「まさか……?」
「そのまさかです」
笑って、母はもう一度ユーリを抱きしめる。それから身を離すと悪戯っぽく眼を輝かせて笑った。
「公爵にお願いしたのです。あなたの結婚式が見たい、と」
「……なんて無茶なお願いを」
「でも叶えてくださったわ」
「どうやってあの父上を動かしたか、お聞きしても?」
「愛、かしらね」
くすくすと楽しげに笑うその様子に、ユーリはこの母親は、彼女が思っているよりも曲者らしいと今更ながらに気づいた。そうでなければ、あの人の妻など務まらないのかもしれない。
「それにしても、あなたがあんなに素敵な男の人を連れてきてくれて、とっても嬉しかったわ」
「素敵……ですか?」
「ええ。強くて、勇敢で、逞しくて。何よりあなたを誰よりも深く愛してくれている」
それにと、楽しげに眼を輝かせてさらに続ける。
「あなたも彼を深く愛しているのでしょう? 十四歳の、あの時から」
「……どうしてそれを」
眼を見開いた彼女に、母はただ楽しげに笑う。
「母親ですもの。それに——実は私もあなたの父上に、一目惚れしたのよ」
「それは……知りませんでした。兄上からは父上が母上に一目惚れして求婚したと」
「女にはいろいろと秘密があるのよ」
にっこりと、綺麗な笑みは何やら意味深だったが、母はその話は後でね、と言うと支度にかかる。
「さあ急がなくては。式が始まってしまうわ」
そうして、ユーリの意向など構わず、母と侍女は様々な飾りを取り出し、艶やかに微笑んだ。
支度を整え、甲板に上がると、そこにはいくつかのテーブルと椅子、そして大きな本の置かれた台座が設えられていた。テーブルには、やや緊張した面持ちのクロエとその父親、さらにレンディの姿もある。ユーリが視線を向けると、クロエはうっとりとこちらを見つめ、それから大きく手を振ってきた。そっと振り返すとさらにその笑みが深くなる。
それから、長兄が手を差し伸べてきた。黒い礼装に身を包んだその姿は、妹から見ても端正で美しい。思わず見惚れた彼女に、ヴァルフレードはだが、まじまじと彼女を見つめ、それからやわらかく微笑む。
「美しいな」
ユーリは、レースの花嫁衣装に身を包み、淡いその金の髪の両脇にも細く同じような繊細なレースのリボンを編み込んで後ろで一つに結んでいる。目元にはわずかに薄く紫が引かれ、彼女の碧い瞳を引き立てている。頬には薄く、唇には鮮やかな紅をのせ、艶やかに。
はにかむように微笑んで兄のその手を取り、共に誓いの台座へと歩みを進める。そこには、父と次兄と、そして彼らと同じように裾の長い黒い礼装に身を包み、髪も整えられて後ろで一つにまとめたジェイクが、やや仏頂面で立っていた。普段はまばらにその頬を覆っている無精髭も綺麗に剃られたその顔は、いつもより若く端正に見える。
ジェイクはユーリの姿を認めると、しばらくその姿に見惚れ、それから蕩けるように甘い笑みを浮かべた。
「……あんたが美人なのは知ってたが、それでも……見違えたな」
「あなたこそ」
「惚れ直したか? 正直に言やぁ、首やら頬やらが寒々しい上に、物凄く肩が凝るんだが」
いつもと変わらない物言いに、思わず吹き出す。
「よく似合っている。普段のあなたも好きだけれど」
「そうか? レンディなんて爆笑だったぜ?」
ジェイクはそう言って肩をすくめたが、改めて彼女に向き直ると、手を差し伸べる。
「俺は幸せ者だな」
その手を取ろうとして、だがこほんと咳払いに眼を向ければ父が手を差し出していた。隣で兄たちが笑って、それからヴァルフレードがユーリの手を父へと渡す。
ユーリの手を握り、父は微笑んで懐から何かを取り出すと、ユーリの首にかけた。それは細く連ねた金の鎖の先に、大きな真珠のついた首飾りだった。
「我が家の家宝の真珠だ。持参金代わりに」
「私には過ぎたものかと……」
驚いて眼を丸くした彼女に、だが次兄の軽口が割って入る。
「父上の謝罪の証だ、受け取ってやれよ」
眼を向ければ、またテオドーロはまた長兄に殴られていた。だんだん容赦がなくなってきている気がする。それを見て、やれやれと一つため息をついてから、いつになく、少し困ったような顔で笑った父がユーリを抱きしめた。
「すまなかった」
どちらかというと堅苦しい父に抱擁されるのは、大きくなってからは初めてかもしれない。
「……いいえ」
生まれてからずっと、愛されていた自覚がある。先日の件は笑って済ますには、あまりにも大きな出来事だったが、それでも彼女が家族と共に過ごしてきた時を毀損するほどではない。
彼女のその想いを受け取ったのか、父は静かに頷いてその腕を解く。その後ろから、またしても次兄の能天気な声が響いた。
「落とし前はつけておいたから、大丈夫だぜ!」
「……テオ、いい加減黙らないとその口、縫いつけるぞ」
「えー、せっかくの俺とジェイクの愉快な冒険譚を——」
「後にしろ」
地の底から響いてくるような父の声に、今度こそテオドーロが黙る。父はもう一度微笑んでから、ユーリの手をジェイクに渡した。父の瞳に浮かぶ光はどこか複雑だったが、そのまま誓いの台座の前に立つと二人をじっと見つめた。それからゆっくりと口を開く。
「この船の船長としての権限を持って、我が娘とその伴侶の結婚式を執り行う」
そう宣言して、ジェイクに向き直る。
「ジェイク、そなたは我が娘、ジュリアーナを妻とすることを誓うか?」
堅苦しいその言葉に、ジェイクはユーリを見つめ、軽く肩をすくめて笑う。その笑みの意味は明らかだ。
——誓いなら、とうに済ませてしまっていたから。
ユーリもその指に嵌められた金の指輪を見て微笑んだ。父もそれに気づいたのか、ため息をついて、それから片眉を上げて笑う。
「ここは私の顔を立ててもらえないかね?」
ちらりと母の顔を窺えば、にっこりと微笑んでいる。そもそもこの結婚式そのものが、父への意趣返しも含んでいたのだろう。
ジェイクと視線を合わせ、小さく頷くと彼もまた笑ってその場に跪いた。そうして、ユーリの手をとってまっすぐに彼女を見つめる。
「俺の名と船と、そして海にかけて。生涯をかけてあんたを愛し、必ず守り抜くと誓う」
その灰色の双眸に浮かぶ光は強く、いつかと同じようにひとかけらの迷いもない。
「……ジュリアーナ、そなたはこの男を夫とすることを誓うか?」
ほんのわずか、揺らぐ父の眼差しは、娘を他の男に委ねる父親なりの感傷だろうか。ユーリは微笑み、それから、ジェイクをまっすぐに見つめる。
——初めて会った時から、そして、これからもずっと。
「はい、生涯をあなたと共に。私の名と、この海と、そして精霊と竜にかけて」
ほんの悪戯心で付け加えたその言葉に応えるかのように、強く風が吹く。その風は、どこかでかいだことのある花の香りを含んでいた。それを感じたのか、ジェイクがほんのわずか顔をしかめた。
「——あんた、本当に懲りないな」
「退屈しなくていいだろう?」
そう言った彼女に、ジェイクは呆れたように、それでも楽しげに笑って立ち上がると強く彼女を抱き寄せ、そして深く口づけた。
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