公爵夫人の微笑

「ターランティアへは、わたくしが嫁ぎます」

 静かにそう告げた彼女に、目の前の青年は大きく目を見開いて、さらにあんぐりと口を開けた。常日頃の冷静さが嘘のようなその感情が丸出しの表情に、思わず彼女は微笑んでしまう。その笑みに、青年は何かに気づいたかのように彼女をじっと見つめ、それから深いため息をついた。

「ご自身を、人質に取るおつもりですか?」

「何のことでしょう?」

 ただ控えめに、柔らかく笑みを浮かべたままの彼女に、相手はほんのわずか、怒りにも似た苛烈な光をその切れ長で黒く美しい瞳に浮かべる。

「我が家の不始末を、あなたの身を以てあがなうなど、私が受け容れるとお思いですか?」

「もう、決まってしまったことですわ。父はすでに受諾の書簡をしたためていると」


 始まりは、数ヶ月前に起きた公国の船への襲撃事件だった。公海上で起きたその襲撃は、ターランティア共和国の船によるものだった。

 ターランティアは少数の有力な貴族の合議によって選ばれた元首が治める国である。けれども、権力争いに明け暮れる貴族たちによって常に国は不安定で、海洋国として名高いが、荒くれ者が多い。国が安定している時は良いが、荒れ始めると押さえの効かなくなった船乗りたちは容易に海賊へと姿を変えてしまう。そうして、その標的となるのが、小国ながら豊かなレヴァンティアの船だった。


 数十隻の船が襲われ、積荷を奪われた後、ほとんどの船が沈められ、多くの死者が出た。当時はまだ和平条約が有効であった頃で、あまりに強引で残虐なその略奪行為にレヴァンティア側は不意を突かれ、対処が遅れてしまったのである。

 以来、両国の関係は悪化の一途を辿っていたが、船の航行に防備のための余計な労力を割かねばならない状況はどちらにとっても望ましくなかった。そのため、ターランティアが提案してきたのが、和平条約の再締結と、親善のためのターランティアの元首の息子とレヴァンティア公爵の妹との縁談だった。


 先代が流行病はやりやまいで早逝し、後を継いだのはわずか二十二歳の青年アドリアーノ、その妹は十九歳。適齢期ではあったが、公爵の妹は荒くれ者の多い共和国へ嫁ぐことを嫌い、なんと、恋人と共に出奔してしまった。


 そうして、この現状がある、というわけだった。


「どうしてあなたが……」

 問う眼差しの色は深い。元々彼女の家は、旧家で力ある貴族ではあったが、それ故に公爵家との折り合いが悪かった。あえてそこに名乗りを上げるのは、公爵家への牽制の意味もあっただろう。

「私の妹はまだ十四歳。他国へ嫁がせるのは忍びないですわ」

「あなたとて」

 苦悩する表情を浮かべるアドリアーノに、彼女は困ったように微笑って見せる。

「元首の御子息は私と同じ十八歳だと聞きました。年頃が近いだけでもありがたいと思わなければ」

 基本的に貴族の娘の結婚は政治的な意図が常に絡む。十歳どころか、父親よりも上の年齢の相手に嫁ぐことさえままあることを思えば、確かに相手が若いだけでもましかもしれない。

「……あなたのように美しい人を、海賊まがいの相手に嫁がせるなど、絶対にさせません」

 不意に、厳しい眼差しできっぱりとそう言い切った相手に、今度は彼女が目を丸くする番だった。


「半年、待っていてください。その間に全てを終わらせます」

 

 そうして、縁談は進むことなく彼女はただ待ち続ける日々を送ることとなった。アドリアーノは手紙さえも寄越さなかったが、ターランティアとの折衝は困難を極めながらも、彼は脅しと懐柔をうまく使い分け、少しずつ進んでいる、というのは漏れ聞こえてきていた。

 やがて、きっちり半年後、次に彼女の屋敷を訪れた時、彼は美しい花束と指輪を持っていた。ターランティアからは複数の経済的に有利な港の領有権と航行の自由、さらには先方からかなりの慰謝料をもぎ取った上で、持参金の代わりに、と彼女と彼女の父に笑いかけながら。



 無事に娘とその伴侶の結婚式が終わり、祝宴も済んだ後、船縁で満天の星を眺めながら、彼女はそんなかつての記憶を懐かしく思い出していた。

 娘たちには、この船に泊まっていくよう勧めたが、彼女は少し申し訳なさそうに、それでも愛する人の手を取ると、共にあっという間に去って行ってしまった。

 もう小さかった娘はどこにもおらず、あれほどに精悍な大人の男に恋し、夢中になる年頃になってしまったのだと改めて思えば、寂しさはあるけれど、どちらかといえば微笑ましい気持ちでいっぱいだった。彼が、娘のことをこの上なく愛していること知っているから尚更に。


 ひとり微笑んでいると、ゆったりとした足音が聞こえてくる。振り向くと、穏やかな表情の夫がそこに立っていた。礼服を脱ぎ、いつもよりは少し緩い雰囲気のその姿は、自国にいるときよりも柔らかで、かつて、彼女が恋した頃の姿を思い起こさせた。

「私の愛しい人は、もう許してくれるのかな?」

「絶対に許しませんわ」

 即答した彼女に、アドリアーノはいつかのように大きく目を見開く。完全に不意を突かれたというその顔に、思わず彼女は声を上げて笑ってしまう。そんな風に笑ったのはいつ以来だろうか。

「どうやら、私の妻は随分と意地が悪いらしい」

「公爵ほどではございませんわ」

「私のどこが?」

「ご自分の胸に手を当ててお考えなさいませ」

 つんと言い放ち、その姿に背を向けると、ややして笑う気配が伝わってきて、後ろから抱きすくめられた。初めて出会ってからもう随分と経ち、互いに歳を取ったけれど、実のところ、今なおその引き締まった体躯も、渋みを増した顔も、彼女にとっては惚れ惚れしてしまうのは変わらなかったのだけれど。

「こんなに愛しているのに」

「嘘ばかり」

「どうかな? まあ、あなたの方が策士だからな」

 苦笑する夫の顔に、彼女はふともう一度微笑んで、かつての二人の馴れ初めを思い出す。


 初めて彼を見たのは、屋敷の窓からだった。肩までの黒い髪、穏やかな同色の瞳と、同輩に見せる屈託のない笑顔。そんな姿に、彼女は一目で恋に落ちてしまった。淡い幼い恋と言われればそれまでだったが、幸いなことに彼女の生家は公国では指折りの名家で、公爵家と縁組をするのに不足はなかった。

 だが当時、公爵家とは同じ海洋国であるターランティアの扱いで対立しており、関係はよくなかった。そこで、彼女は一計を案じたのだった。


「……ターランティアの縁談を引き寄せたのが、まさかあなただったとはな」

 対立国との折衝が全て片付いた後、屋敷を訪れた彼は呆れたようにそう呟いた。

「なんのことでしょう?」

 涼しい声でそう答えた彼女に、アドリアーノは肩をすくめて笑い、それから彼女の前に跪いて求婚をした。彼女は自分の身を人質にとることで、若き公爵の実力を試した。望まぬ婚姻から、自身を含む、公国の娘たちを守るために。

 彼女自身の運命を賭け、そうして彼女はその賭けに勝ち、愛しい人との人生を手に入れたのだった。


 その後の苦悩の日々は予想外だったが、今となっては全てが運命だったのだろうと思う。ただ、もう少しだけ強くあれればよかったのに、とそれだけが悔いとして残っていた。そんな彼女の想いに気づいたのか、そっとその頬に触れてくる。

「あなたは母親だ。あの子の運命を思い、苦悩するのは当然だろう」

「けれど……」

「全ては終わってしまったことだ。私も罪を犯した。だが、あの子とその伴侶はどうやら許してくれたようだ。せっかくの祝いの日だ、その寛大さに甘えておこう」


 見上げれば、彼女を見つめるその顔はどこか苦い笑みを浮かべていた。言葉以上に、自分の行いを悔いているのだろう。自国を治めるためならばどんな冷徹な判断も辞さないように見えて、実のところ誰よりも愛情深い人であることを、彼女はよく知っていた。

「……アレクシス陛下には、もう少しお仕置きが必要だったかしら」

 そもそもは、彼がユーリ愛しさのあまりに公国の領域を侵したことから始まっていた。

「もう十分だろう。勘弁してやりなさい」

「そうかしら」

「十年以上もの恋心だ。多少の暴走やりすぎは多めに見てやらねば。もう深く後悔しているよ」

「お膳立てした方もかしら?」

 上目遣いにそう尋ねれば、深いため息が降ってくる。自国では、決して見せないであろう心底困ったようなその表情に、彼女は思わず相合を崩した。結局のところ、先に恋に落ちたのは彼女の方で、今でもその想いは変わらない。

「ユーリの花嫁姿、美しかったですわね」

「ああ、だが」

 そう言って、彼女をじっと見つめる。続く言葉の予想がつかず、首を傾げた彼女を柔らかく力強い腕が抱きしめる。そうして、耳元で低い声で囁かれた。


「あなたの花嫁姿の方が美しかったがね」


 切れ長の黒い瞳が、かつてと変わらぬ確かな熱を浮かべているのを見て、今更のように彼女の心臓がおかしな鼓動を打つ。激しい恋の想いが、穏やかな愛に変わるのにもう十分に長い時を過ごしてきたと思ったのに。


「いつまでも、私の生涯をかけて、誰よりもあなたを愛しているよ、フィオレンティーナ」


 直裁な愛の言葉に、頬が赤く染まるのを自覚しながら、彼女はその口づけを受け入れたのだった。

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