次兄の矜恃
朝早く父である公爵に呼び出され、いつも通りの冷静な顔で、常ならぬ無理難題を押し付けられたテオドーロは、その短い黒髪の頭をがしがしとかきながらため息をついた。
「大変申し上げにくいのですが、父上」
「言いにくければ黙っていても良いのだぞ」
このくそ親父、と内心で呟いたが、もちろん顔に出さないだけの分別はあった。彼の父は厳格なことで国内外に有名な公爵なのである。努めて冷静な表情を保ち、恐れながら、と続ける。
「父上は、先日のご自分の娘に対する所業を覚えていらっしゃいますか?」
「どれのことだ?」
「指折り数えるほどあることをご自覚で?」
「誠に遺憾だが」
どこぞの政治家のような口調でそう言う父親に、今度こそテオドーロは深いため息をついた。
彼らの故国であるレヴァンティア公国には、嵐の呪いと呼ばれるものがあった。百年に一度、公爵家に金の髪の娘が生まれると、その娘が二十歳になる頃に、国を飲み込むほどの大嵐が襲う。それを防ぐために、金の髪の娘は十九歳になる前にたったひとりでこの国を去らねばならなかった。
この百年目のその金の髪の娘が、彼の四歳年下の妹、ユーリだった。妹が生まれた時からその運命を聞かされていた彼と兄は、その妹を不憫に思い、せめてもとできうる限り可愛がった。だからこそ、彼女がその嵐の呪いを解いて戻ってきたと聞いて誰よりも喜んだのだ。だが、彼らの父はあろうことかユーリを北の塔に閉じ込め、隣国の王に差し出そうとした。
それを知った彼らの母親は、予め計略を立て、彼女の恋人を城に引き込みユーリを逃す手助けをした。その甲斐あって、二人はもう遠い海の彼方だ。
その二人の結婚式をこの国で執り行う支度をせよ、というのが父からの指示である。どう考えても無茶な話だ。
「ユーリの恋人の国外追放を命じたのは公爵かと存じますが」
「撤回する」
美しく整えられた顎髭をさすりながら、あっさりとそう答える。
「……衛兵に取り押さえさせ、殴りつけたことも撤回可能とお思いで?」
「無理だろうな」
今日の海は穏やかに凪いでいる、とその程度の口調での返答に、彼は深いため息をつく。
「そこまでおわかりであれば、彼らをこの国に連れてくるなど不可能だとご存知かと」
「だが、フィオレンティーナが望んでいるのだ」
不敬だが、神がそれを望んでおられる、と宣言するのと同じくらいの口調だな、なんてことをテオドーロは思った。ユーリへの仕打ちに、彼らの母親であるフィオレンティーナはそれはそれは深く怒っている。
ユーリの運命を知り、愛が深い故に、その日々の多くを泣き暮らした母は、そのことを深く悔いていた。もっと強く立ち向かうべきだったと。だからこそ、戻ってきたユーリには何としても幸せになってもらいたいのだ、と夫である公爵に逆らってまで彼女の恋人であるジェイクを城の奥深くまで引き込んだ。
それでも、今なお彼女の怒りは解けていない。その主な原因は隣国の王アレクシスだ。彼はあろうことか、北の塔に幽閉されていたユーリに手を出そうとしたのだ。
テオドーロは、幼い頃から彼がどれほど深くユーリを愛していたかを知っている。だが、すでに生涯の伴侶を決めている彼女に手を出すなど言語道断だった。それを見過ごした父は、むしろさらにたちが悪い。
彼らの母親はそう考えているようだった。
「とりあえず、父上が母上に平謝りしておけばいいんじゃないですかね」
「私が試さなかったとでも?」
「ですよねえ」
だいぶ砕けた口調になった上に、やれやれ、とため息をついた彼に、父親が珍しく困ったような笑みを見せる。
「私としても反省している。ちょっと悪ノリが過ぎた」
「どうせ
自分も本気で剣で斬りかかったことは伏せておく。おまけにあっさり返り討ちにあったことも。
「母上のご要望もわかりますがね。俺だってユーリの花嫁姿は見てみたい」
「私もだ」
「身から出た錆って言葉、ご存知です?」
「……不敬罪で投獄してやろうか?」
「ますます母上に怒られるだけですよ」
とりあえず不毛な言い合いをしていても仕方がない。
「何か策がおありなのではないですか?」
実のところ、彼の父は誰よりも切れ物だ。母の無理難題をそのまま息子に丸投げするような種類の人間ではない。
「……フィオレンティーナはこの海の都で、と言った。だがさすがにそれは厳しいだろう。代わりに、この国で結婚式を上げることなら可能ではないかとな」
どちらも変わらないではないか……と言いかけて、彼はふと一つの可能性に思い当たる。
「ああ、その手がありましたね」
彼はぽんと手を打った。連れてくることは叶わなくても、こちらから出向いてしまえばよいのだ、と。
「船上の結婚式なら、我が国の娘にはぴったりですね」
ニヤリと笑って言った彼に、父は我が意を得たりとばかりに口元を緩めた。
船の上は実質上、船長に各国と同等の権限がある。その権限で、結婚式を行うこともできるのだ。
「ちなみに、二人がどこにいるかはご存知で?」
「ああ」
あっさりと頷くその様子に、やはり全てはお見通しだったのかと呆れて肩をすくめる。息子のその様子に公爵は今度こそ苦笑を浮かべる。
「仕方なかろう、それほどに隣国の王の執着は——もはやあれは妄執だったのだ」
「具体的には?」
「兵を動かすと」
「……街一つでも滅ぼすつもりで?」
「海沿い三つだ」
脳裏に浮かぶのは、この国の要衝となる港町だった。なるほどそれでは父があのような強引な手段に出たのもある意味止むを得なかったのだろう。
「あいつは諦められたんですかね、それで?」
「目の前で攫われてなお、追いかけるほどではなかったようだ」
「そりゃよかった」
ちなみに、と彼は続ける。
「結婚式の招待状は——」
「お前、この国を滅ぼすつもりか?」
「……冗談ですよ」
片目をつぶって笑った彼に、父は冷ややかな目を向けてくる。家族も大切だが、公爵としてこの国の安全保障は重要なものでもあった。
「はいはい。それで、ご予算はいかほどで?」
「好きなだけ使え」
「豪毅なお話で。参加者は、家族だけでよろしいですか?」
「まあ、そうだな」
「では、俺と兄上と、母上ということで」
しれっと言った彼に、もう一度父が冷ややかな眼を向けてくる。
「……一人欠けておらぬか?」
「宰相が国を離れては怪しまれましょう」
「
じっとりとこちらを見つめる黒い瞳は、冗談ではなくこちらを射抜くように強い。それほどに愛しているのなら、もう少し素直になればいいものを、とは思ったが口には出さなかった。
「承知しました。それでは船の手配から、花嫁衣装の用意まで、兄としての誇りに賭けて全て完璧にこなして見せましょう」
「頼む。私が下手に動けばあちらを刺激しかねない」
「……いっそ招待してしまった方がいいと思いますけどね」
「やめておけ。あれは猫ではなく、眠れる獅子だ」
やれやれ、とテオドーロはもう一度ため息をつく。美しい娘に成長した妹はそれこそ引く手数多であろうに、一介の船乗りの胸に飛び込んだ。お似合いの二人だったから、実のところ兄としては異論はないのだが。
「さて、まずは伝令だな」
何はともあれ、彼女の伴侶に伝える必要があるだろう。押しかけて、逃げられてはかなわない。
「テオドーロ」
踵を返して歩き出した彼に、父が声をかけてくる。顔だけで振り向くと、今度は珍しく楽しげに笑った父の顔がそこにあった。
「首飾りには家宝の真珠を。あれによく似合うだろう」
その価値がどれほど高いか知っているからこそ、彼は眼を丸くしたが、それもまた父なりの謝罪と祝福なのだろうと気づいて肩をすくめた。
「ご自分で手渡してくださいよ。俺が落っことして壊したりしたら呪われそうだ」
軽く笑って、今度こそ部屋を出る。久しぶりの妹とその伴侶との再会を楽しみにして。
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