後日譚 〜海の祝宴〜

公爵の憂鬱

 生家じっかに帰らせていただきます、と淑やかに言った妻の顔を、彼はまじまじと見つめた。年を経てもなお艶やかに輝く亜麻色の髪と、同じ色の瞳。初めて出会った時から比べれば、互いに年を取ったが、それでもまだ十分に美しい。それに、彼が最も惹かれたのはその美しさだけでなく、その内面だった。


 そして、今、一見穏やかに見えるのその人の内面が、溶岩が吹き上がる火山並に荒れ狂っていることを、長年連れ添った経験から、気づかないわけにはいかなかった。


 心当たりは大いにあった。まず第一に、多くの困難を乗り越えて帰国したばかりの娘を北の塔に幽閉したこと。その想い人の男を衛兵に捕えさせ、昏倒させた上に国外に叩き出したこと。そして何より、幽閉した娘に、隣国の王が手を出そうとしたことを見過ごしたこと。

 何よりも三つ目が致命的だった。一応、娘の想い人が救い出しにくることを織り込み済みで彼を招き入れ、諦めさせる魂胆だったのだが、それでも娘にあの男が触れたことを聞いて妻は激怒したと、下の息子から報告を受けていた。


「フィオレンティーナ」

 花のような、というその名に違わず美しい彼の妻は、だがその氷のような表情を崩そうともしない。

「何でしょう」

「愛しているよ」

 頬に触れて顔を寄せたが、返ってくるのは冷ややかな声だ。

「もちろん私もです」

 誤魔化されてくれる気はないらしい。拒絶する風でさえないのに、その瞳だけが剣呑な光を浮かべて怒りを如実に表している。

「……どうしたら許してくれるのかな?」

「何のことです? わたくしはただ、久しぶりに生家の様子を見てこようと思っているだけですわ」

「私が悪かった。アレクシスがあそこまで追い詰められているとは思わなかったのだ」

「嘘ですわね」

 即断される。実のところ、その通りだった。

「……すまなかった」

「謝っていただくことは何もございませんわ。あなたが公爵として、それが必要と判断されたのでしょう? でしたら、妻たる私に否やのあろうはずがございません」

 どう見ても異論だらけの冷ややかな眼差しでこちらを見つめながら平然とそう言う。どうあっても簡単には許すつもりはないらしい。頑固なのは母親譲りか、と自分のことは棚に上げて、遠くへ去ってしまった美しい娘を思い浮かべる。

「わかった。全面的に私が悪かった。何でもするから許してくれ」

 その手をとって、その指に輝く誓いの指輪に口づけながらそう言うと、しばらくまじまじと彼を見つめ、それから花のようににっこりと微笑んだ。

「本当に、何でも、と約束してくださる?」

「ああ」

 頷いた彼に、では、と美しい彼の妻はもう一度微笑む。

「あの子の結婚式が見たいのです。あの子に相応ふさわしく、美しいこの海の都で」

「それは……」

「何でも、と約束してくださったわよね?」

 その瞳には、やはり剣呑な光が浮かんでいる。高価な宝石をねだられた方がまだ遥かに容易いだろうに。そもそも娘の恋人であるあの男がこの国に二度と足を踏み入れるとは思えないのだが。

 そんな彼の内心を悟ったのか、妻は艶やかに微笑む。


「我が国の公爵は、隣国の宰相をも務めるほどに優秀ですから、愚かな女のつまらない願いなど、たちどころに叶えてくださるでしょう?」


 できない、などと言おうものなら、今度こそこの屋敷を出ていく、と明らかに言外に告げて。


「……わかった。レヴァンティアの名にかけて」


 半ば自棄気味にそう言った彼に、妻は美しく微笑んで、そうして謝罪を受け入れた印なのか、そっと彼の唇に触れるだけの口づけを落とした。

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