風の約束

 ふと窓から見上げた空はどこまでも青い。その色は、彼女の瞳とは異なっていたけれど、遥かに遠くに去ってしまったというその事実を突きつけるのには十分だった。それでも、もはやそれは過去のことだと自分に言い聞かせる。


 彼には背負うべきものがある。彼女を迎えに行く、という約束を遅らせてまで——全てをなげうってまで手に入れた王冠は、決して軽くはない。彼女より大切なものなどないと言い切ったその言葉に嘘はないつもりだったが、それでも彼の肩にかかっているその重さは、辛いばかりではないことを、今の彼はもう自覚していた。


「ご自覚があるのであれば、ぜひご検討ください」

 彼の内心を読んだかのように、彼の国の宰相はそう言って、山のような肖像画を彼の執務机の上に積み上げてにこやかに微笑んでいる。一点の曇りのもないその爽やかな笑顔が、その表面通りでないことは誰よりも彼が一番よく知っていた。彼の犯した罪も、公国に対する敵対行為とさえ呼べるそれも、何事もなかったかのように受け流してその地位に留まりながらも、平然とそうやって彼を追い詰めてくる。

「心外ですな。これも貴国とあなたを思えばこそですよ?」

 完璧な笑顔を浮かべる宰相に、彼は両手を組んでそこに顎をのせ、深いため息を一つ吐いた。

「……急ぐ必要は、ありませんよね?」

「ええ、年が明けた頃にでも、ご決断いただければ」

 すでに年の変わり目にある日にそんなことを言う。思わず目を見開いた彼に、宰相は肩をすくめて見せる。

「冗談ですよ」

「……本当に、人が悪い」

 恨めしげにそう言った彼に、宰相はただ声を上げて笑った。それから表情を改めて、彼をまっすぐに見つめる。

「あなたも、そろそろご自身の幸せを考えても良い頃だと、私は思いますよ」

 穏やかな黒い瞳は彼女には似ていないのに、そうした真摯な表情はやはり似ている、と感じてしまう。彼が何より惹かれた、彼女のまっすぐな資質は間違いなくこの人から受け継がれたものなのだろうと。

「……もう少し、時間をください」

「お望みのままに」

 穏やかに微笑んで一礼すると、宰相は執務室を出て行った。



 それから一刻ほどが経った頃、彼は頬杖をついて窓の方を見つめてため息をついていた。

「……いつまでそうしているつもりだい?」

 こちらを仁王立ちして睨みつける少女に、どちらかといえば面白がるような声でそう言った彼に、涼やかだが怒りを充満させた返事が返ってくる。

「アレクシスがちゃんと話を聞かないからだ!」

「ちゃんと聞いているよ」

「聞いてない!」

 さっきからこの押し問答がかれこれ半刻ほども続いている。

「私は大人しくここに座って君の話を聞いている。何がそんなに気に入らないんだい、リィン?」

 まっすぐに見つめてそう言うと、大きく開いた窓枠に腰掛けた豪奢な金の髪と鮮やかな緑の瞳を持つ少女は、憤懣やる方ない、という表情のままこちらをじっと見つめていたが、彼の視線が揺るがないことに気づくと、ややしてため息をついた。

「……そんなのアレクシスに似合わない」


 彼女が——今は少女の姿をしているので——睨み付けて言ったのは、彼の執務机の上にのった多くの肖像画だった。それは先ほどこの国の宰相が一枚一枚解説した上で置いていったものである。端的にいえば、つまりは見合い用の。


「仕方ないじゃないか。私もいい歳だからね。いつまでも独り身と言うわけにもいかないんだよ」

 一国の王という、ままならない身であればこそ。

 机の上に広げられたその一枚を手に取る。どれもこれも、王の歓心を得るためのものだから、それはそれは細密に美しく描かれている。

「この姫なんてどうだい? 姿形もさることながら、身につけている物も素晴らしいものばかりだよ」


 実際のところその国は、無計画に鉱石も掘り尽くしてしまって、売るものといえば娘だけ、という状態だと知らないわけではなかったが、ひらひらとその姿絵を振って見せると、リィンはもう一度あからさまに不機嫌な表情を浮かべる。子供のように頬を膨らませる姿は、彼にとっては可愛らしく見えるばかりだったのだが。


「全然だめだ。アレクシスには似合わない」

「何基準なんだろうね?」

 本当は、彼女が誰を思い浮かべているのかなど、わかっていた。それでも、それを口に出さないだけの優しさは持ち合わせているようなので、あえてこちらもそれ以上は踏み込まなかったけれど。

 いまだにあの碧い瞳を思い出せば、ずきりと心臓が刺されるように痛む。だが、そんなものをいつまでも抱えているわけにはいかない。彼は王であり、もはやその運命から逃れる気も失せていた。

 だから、君がそんなに気に病む必要はないのだと、そう言ってやるべきなのだろう。彼はゆっくりと立ち上がり、彼女とは質の異なる黄金の髪を一房手に取り、口づける。

「王にはきさきが必要なんだよ。ちなみに、竜に愛された娘には逃げられてしまったおかげで私の株はずいぶん下がってしまったけれど、『風を操る奇跡の姫』なんてものを手に入れられれば、また民も熱狂してくれるかもしれないね」


 その美しさでさえなく、「奇跡」という付加価値こそが彼にとっては最も重要なのだと、そう聞こえるように。そして、そんな俗物かれなど見限って、離れていってくれるように。


 だが、彼の思惑とは裏腹に、リィンは呆れたような視線をこちらに向けてくる。

「相変わらず、馬鹿だね。アレクシスは」

「……何だって?」

「悪役なんて、どう頑張ったってできないくせに」

 ひとつため息をついてから、彼女は何かを諦めたように首を振った。それからまっすぐにこちらを見上げてくる。その鮮やかな翠玉エメラルドのような瞳は、嘘や欺瞞を許さない。

「私は、自分の意志でここにいる。前はなりゆきだったけど、今は違う」

「それは……」

「私は人間じゃないから、そうそう簡単に死んだりしない。だから、アレクシスは気にしなくていいんだ」


 ——私が勝手にあなたを守りたくて、ここにいるだけだから。


 その言葉と共に柔らかく吹いた風に、いくつもの記憶が蘇る。かつて、決意を秘めて公国から故国へ戻った彼は幾度も死の危険に晒された。その度に、不意に吹いた風。それは、時に砂嵐を巻き起こし、時に大きな材木を吹き飛ばして彼の命を狙うものたちを阻害した。


 単なる偶然にしては、おかしいとは思っていたのだけれど。


 まじまじと鮮やかなその翠の瞳を見つめる。彼には彼女ユーリのように精霊を感知する能力はない。けれど、その意味するところはもう明らかだった。

「……これからも、私のそばにいて、守ってくれるつもりなのかい?」

「そうだよ」

 あっさりと告げるその言葉の意味を、本当にわかっているのだろうか。

「いつまで?」

「私の気が変わるか、アレクシスが死ぬまで」


 それは、どう考えても愛の告白にしか聞こえないのだけれど。


 彼はおもむろにリィンの顎を捉えると、有無を言わさず口づけた。逃れようとする体をきつく抱きしめて、深く、何かを試すように。

 しばらくして、唇を離すとその目元が朱に染まっていた。その細く柔らかな身体を抱きしめたまま、耳元で低く囁く。


「ほら、私は悪い男だろう?」

 だから、こんな男からは早く逃げておしまい、とそんな想いを込めて。


 だが、リィンは彼の襟首を掴んで引き寄せると、唐突に、彼の脳天に拳を振り下ろした。あまりに意外なその行動と、思いの外、力のこもった一撃に、目の裏で火花が散るほどの痛みが走る。

「アレクシスの馬鹿! は、初めてだったんだからな……!」

 先ほどまでの余裕の表情はどこへやら。口元を拳で覆って、真っ赤に染まった顔でそう叫ぶその様子に、何やら心臓がおかしな鼓動を打った。


 痛む頭をさすりながら、真っ赤に染まったその顔を、もう一度まじまじと眺める。わなわなと震えるその顔は、それでもやはりどう見ても可愛らしく見えてしまい、もう一度触れたい、という率直な自分の欲望を自覚して。


「殴られて、恋に落ちるとか……」

「馬鹿じゃないの⁈」

「……同感だね」

 

 そんな風にして、彼の二度目の恋は始まったのだった。

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