墓標
その質量に反して、彼は音も立てずに緑の地へと降り立った。かつては森だったその場所は、一度は枯れ果てたが、今は周囲のどこよりも緑の陰が濃い。元より竜が好んで棲むような場所は大地の恵みが深い。一度呪いが解かれれば、どこよりも早くかつての姿を取り戻そうとするのだろう。
樹々に囲まれた森の中、一振りの剣が大地に突き立てられている。彼女も気づいたのか、彼の背からするりと滑り降りると、それに近づく。
「これは、レヴァンティアの……?」
「そうだ。あの後、私がここへ運んだ」
闇が溢れていた大地で、確かに彼は彼女の声を聞いた。その呼び声はたった一度、しかも真の名でさえないのに、どうしてだか彼に届いたのだ。
ふわりと風が吹く。目を向ければ剣の脇に、もはや誰よりも長い付き合いとなった青年が立っていた。剣の前に立つ少女に向ける眼差しは、ひどく優しい。
「セフィーリアス」
「え……?」
少女が不思議そうにあらぬ方向へと視線を向ける。きょろきょろと周囲を見回すその姿で、そういえばすでに彼女は精霊の力を全て失っているのだと思い出した。あの大地を救うため、彼女はその力の全てを差し出した。もし、護り手の存在がなければ、その命ごと失われていただだろう。
「気になるか?」
「いえ……大丈夫です」
ほんのわずか、顔をしかめる様子に懐かしい彼女の面影が重なる。精霊の青年が関わってくると、彼女もよくそんな顔をしていた。彼はふわりとその姿を人に似た者に変えると、少女の顎をすくい上げた。
「ヴェト……?」
不思議そうにこちらを見上げる瞳は真昼の海のように碧い。彼女のそれとは似ても似つかぬ色だというのに、どうしてだかその眼差しは彼の胸の奥をざわめかせた。そのまま唇を重ねる。驚いてわずかに開いたその隙を捉えてさらに深く口づけると、ひくりとその体が震えるのが伝わってきた。
「ヴェトリアクラム、君って奴は……」
重ねた唇を離し、声のする方に目を向ければ、精霊の青年が呆れたようにこちらを見つめていた。視線を戻すと、少女はわずかに頬を染め、目を見開いてこちらを見つめている。その表情はかつて見たそれとまったく同じで、だからこそ思わず吹き出してしまう。
「それほど驚くことか?」
「むしろなぜ驚かないと思うのですか……」
嫌悪はないようだが、ひたすら戸惑っている様子に、セフィーリアスが深いため息をつく。そちらに視線を向けて、彼女が驚いたように目を見開いた。
「セフィーリアス?」
「やあ、ジュリアーナ。元気そうで何よりだ」
「どうして……?」
「さっきのあれはそういうことだね」
なおも首を傾げるジュリアーナに、セフィーリアスはもう一度ため息をつきながら苦笑する。
「竜は存在そのものが魔法だからね。その体の一部を分け与えられれば、魔力が宿る」
つまりはそういうことだ。ささやかな竜の力を分け与えるために口づけた。彼としてはごく合理的な行為だったのだが、そういえば「彼女」もそれについてはひどく驚いて抗議されたのを、彼は思い出していた。
『ヴェト……』
その呼び声は、正式な召喚ではなかった。本来ならばその本質たる名を呼ばれなければ届かない。そのはずなのに、その囁きは確かに彼の元へと届き、彼は彼女の前に姿を現していた。
「呼んだか?」
そう問うたが、呼び出した当の本人は目を丸くしている。気がつけば彼は人の形をとっていた。ここが彼女の城の中で、本来の姿では収まりきらないが故に、無意識に姿を変えていたのだろうが、そういえばこの姿で彼女に会うのは初めてだったとようやく気づいた。
「……ヴェトリアクラム?」
「そうだ、レヴァンティア」
まじまじとこちらを見つめたあと、レヴァンティアはふわりと微笑んだ。その笑みは初めて会った頃から変わらない。だが、寝台の上でクッションにもたれるその姿は明らかに病み衰えていた。肌は白を通り越して青ざめており、軽々と剣を振っていた腕は少女よりも細い。明らかに、その病は長く続いているものだと知れた。
「最後に会ったのはいつだったか……」
「五年ほど前かな。フィオレが生まれてすぐの頃だから」
竜からすれば、人の時の流れはあまりに早すぎる。ほんのわずか目を離した隙に、赤子は大きな子供になり、気がつけば大人になっていたりする。
「まだ子供だ。さすがに」
こちらの内心を読んだかのように笑う。だが、その拍子に咳き込んだ。長く続く咳に思わずその背に触れる。ほんのわずか、力を注ぎ込むと呼吸が安定した。
「ありがとう」
「……いつからだ?」
何が、とは言わずとも伝わったようだった。レヴァンティアは、少し首を傾げて何かを思い出そうとするように視線を彷徨わせる。
「いつから、とはっきりとはわからないんだ。ただ、いつの頃からか、少しずつ体が重いと感じることが増えた。朝、起きられなかったりな。最初はただの疲れだと思っていたのだが」
けれど、とレヴァンティアは続ける。ある朝、血を吐いたのだ、と。毛布が真っ赤に染まるほどの吐血をして、そのまま意識を失った。数時間後には目を覚ましたが、それ以来、寝台を離れられなくなってしまったのだという。
「突然だった。だが、それで気づいたのだ。もう私は長くないのだと」
「レヴィ……」
「あなたも、知っているのではないか?」
ほとんど黒に見える、藍色の瞳がこちらを真っ直ぐに見つめる。その眼差しは静かだが、嘘や欺瞞を許さない。
「……ああ。そなたの中に宿る、竜の血だ」
——どうして、気づかずにいられたのだろう。そして、これが後悔というものなのだと呆れるほど長い生を経た今、初めて知る。
「竜……か」
「そなたは、知っていたのか?」
そう尋ねたが、レヴァンティアは曖昧に首を横に振る。
「詳しくはわからない。だが代々私の家系では時折、ひどく寿命が短いものが生まれるとは聞いていた。短い者では二十歳前後で、長くとも三十歳頃に原因のわからぬ病で命を落とす者がいると。だが、三十歳を超えると概ね皆、長生きする。だから、私も大丈夫なのではないかとどこかで安心していたのだが……」
そうでもなかったようだ、とどこか儚い笑みを浮かべて呟いた。彼はそっとその頬に触れる。微かに乾いたようなその肌はそれでも滑らかで温かい。だが、触れたその先で彼にしかわからないであろう荒れ狂う嵐の様な力を感じた。それは、彼女の身中で彼女の命を食い荒らしている。もはや、手遅れなのは明らかだった。
「人の医者は何と?」
「体の中のありとあらゆる部分が損傷していると言っていた。まるで内側から何かに食い荒らされているように、とな。さすがに恐ろしかった」
そればかりは少しも恐れる風もなく言う彼女に、彼は自分の中から湧き上がる感情を持て余して彼女を抱き寄せた。
「ヴェト?」
「セフィーリアスは気づかなかったのか?」
「……気づいてはいたようだった。だが、彼にはどうしようもないと」
「なぜ私を呼ばなかった?」
言っても詮無いことだとはわかっていた。気になるのならば自ら会いにくればよかったのだ。相手が短い命しか持たぬ人であることを忘れ、精霊たちと関わる様に相手に任せて交わりを間遠にし、見過ごしたのは彼の咎だ。
「セフィーリアスが言っていた。竜は存外、情が深いのだと。だからあなたにもそんな想いをして欲しくなかった」
長い長い時を生きるからこそ、自分のような者のために心を痛めて欲しくなかった、と。
「いずれにしても、私はあなたたちを残して死ぬ。それが早いか遅いかだけだ」
「そんなことはさせない、と言ったらどうする?」
真っ直ぐにその瞳を見つめる。彼女の中に宿るのは、彼の眷属の血だ。人にはあまりに大きすぎる力は、満ちた瞬間から行き場を失ってその宿主を内側から食い荒らす。それを避けるためには、その力を正しく導き、解放する術を知らねばならなかった。もっと早くに、力が満ちたその時に彼が気づいていれば、少なくとも魔法使いのように、その力を制御し、人として生きることができたはずだ。
だが、彼女の体はもう保たないだろう。
「そなたの身中に宿る力を使って、そなたの体を治癒させる」
「……その後、私はどうなる?」
「一時的に解放しても、そなたの身の内に宿る力は、そなたを食い荒らす。その力を制御し、継続的にそなたの体を癒し続ける必要はある」
「それで、どれくらい生きられると思う?」
それは、問いというよりは確認だった。いずれにしても彼女の力は彼女を滅ぼそうとし続ける。どれほどごまかそうとしても、それはそう遠くない未来にやってくる。
「ヴェト、気持ちは嬉しいが、私はいずれにしてもあなたたちを残して逝くのなら、人として死にたい」
彼の望みを見透かすように、レヴァンティアは少し困ったように、だが柔らかく笑う。
竜の力を行使して彼女の命を繋ぎ留めようとすれば、きっと彼は彼女の力を使うだけでは済まなくなる。彼女の力が尽きれば、次は彼自身の力を注ぎ込むだろう。だが、それは彼女を本質から変えてしまう。竜の力で命を引き延ばせば、それはもはや人ではなくなる。
それだけでなく、一度そうやって終わりを引き延ばしてしまえば、きっと彼は彼女の命を惜しんで、永遠に繋ぎ留めようとしてしまうだろう。
——その激しい想いを何というのか、彼はその時になって初めて知った。
そんな彼の想いに気づいたのか、レヴァンティアはそっと彼の頬に触れてくる。
「どうか、彼と子供たちを見守って欲しい」
私の代わりに、と彼女は言う。
「人はあなたたちのようには生きられない。けれど、命は続いていくから」
その切実な願いの言葉に、だが、どうしてだか彼は予感がした。それは今まさに彼女を蝕もうとする力よりも遥かに不吉な影を落とす。
「わかった」
言って、その顎を捉えて唇を重ね、ほんのわずかに彼の力を注ぎ込む。せめても、彼女をその不吉な影から守れるように、と。だが唇を離すと、レヴァンティアは驚いたように目を丸くしていた。
「これは、何かの契約の証か?」
「いや、ほんの約束の印だ」
そう告げると、レヴァンティアはどうしてだか頬を染めて俯く。それから責める様に上目遣いに見上げてくる。
「ヴェト、竜にとってはどうなのかは知らないが、人は、こういうことは愛する者同士がするんだ。気軽に誰にでもするものじゃない」
その言葉に、思わず彼は吹き出す。それがどういうことか、知らないとでも思っているのだろうか。人より遥かに長く生きて、人がどういう生き物だかをよく知っている彼が。その行為は確かに彼にとっては護りを授ける手段ではあったが、そこにそれ以上の想いがあることは、ただ彼の胸にしまっておくことにした。
それから数日後、レヴァンティアは息を引き取った。彼は森の中で、その命が消えるのを感じた。それから約千年、彼女はあの場所に囚われてしまっていた。ひたすらに精霊が荒れ狂う様を見せつけられたその日々は、彼女にとっては辛い時でしかなかっただろう。
大地に突き立てた剣にそっと触れる。最後の最後で、彼は彼女の願いに反して、ほんのわずかに踏み込んだ助力をした。ジュリアーナに預けたこの剣が彼を呼び、そして彼女の護り手をあの地へと送る鍵となった。
けれど、きっとそれさえも彼女が望んでいたことだったのだろうから。
「セフィーリアス、彼女は安らかに眠れただろうか?」
あれからずっと、聞けずにいた問いがするりと口からこぼれ出た。彼女を永遠の伴侶と定めた青年は、それでも晴れやかに笑って見せる。
「ああ、これ以上なくね。ジュリアーナと、そして君のおかげだ、ヴェトリアクラム」
真摯な眼差しは、真っ直ぐにその想いを伝えてくる。この青年のことだから、きっと彼自身が気づいていなかった想いさえもすべて承知の上だったのだろう。
「そうだよ、だから私は求婚を急いだんだ」
——君と、彼女がその想いに気づいてしまう前にね。
悪戯っぽく笑うその顔は、彼がただの風の精霊として彼女に出会った頃から変わらない。だからこそ、彼も掛け値なしに彼らを祝福できたのだ。その想い自体は今も変わらない。
彼女の墓は王国の崩壊とともに失われ、どことも知れない。彼の分け与えた力も全て使い果たし、彼女は消えた。けれど、せめてもの墓標として。
——彼は、その剣にそっと口づけた。
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