彼と彼女の事情 〜Extra〜

 荒くれ者の多い港町の酒場の喧騒はいつも通りだったが、その一角にどうにも不機嫌そうな気配を放つ男がいた。どちらかというと快活な方だったはずだが、最近はああして何やら思い悩んでいる姿を見ることが増えた。それもまた、成長の一環だろうと妙に年寄り臭いことを考えてしまう自分に笑いが漏れた。


「で、その後どうなんだよ?」

 件の相手の隣に勝手に座りこみ、そう尋ねてみたが、もはや長い付き合いの目の前の男は答えずふいと視線をそらす。隣に座られることさえ気に入らないとでも言うように、不機嫌丸出しでただ黙々と酒を飲んでいる。

「そんなに機嫌が悪いなら、こんなとこに来ずに家でおとなしくしてりゃいいのに」

「今日は嬢ちゃんがクロエと飯食いにいってるんだよ」


 横から口を挟むのはこれまた長い付き合いの鍛冶屋のブルーノだ。自分のゴブレットを持ってこちらも勝手に同じテーブルに座り込む。この面子で時折こうして酒を酌み交わすことはあったが、ここしばらくはほぼ毎日顔を合わせている。もちろん理由は目の前の仏頂面をしたジェイクだ。その仏頂面を見ながらそういえば、とブルーノが口を開く。

「お前、嬢ちゃんをさんざん抱きまくったその日の朝に求婚したんだってな?」

 ぶほっと酒を吹き出した後、ゴホゴホと本気で咳き込むその背中をさすがに哀れに思ってさすってやる。

「な、何で……!」

「クロエのやつが嬢ちゃんに聞いたって言ってたぜ。いくらなんでももう少しムードとか準備とかってもんがあるだろうと憤慨してたぞ」

 ニヤニヤ笑うブルーノに、ジェイクはわなわなと震えている。

「何だってそういうことを……」

「あー、嬢ちゃんを責めてやるなよ。クロエが根掘り葉掘り聞き出したらしい」

 くつくつと笑ってそう言うブルーノに、ジェイクは深いため息をついている。

「ったく……あいつが世間知らずなのをいいことに……」


 さもありなん、とレンディも内心で頷いた。ジェイクの想い人は公爵の娘だった。その出自もさることながら、生まれた時から背負わされた運命のおかげで人並みからは程遠い人生を送ってきたらしい。どうやら同性の年が近い友人などいたためしがないらしいので、本人もどう接していいのか戸惑っているようだが、クロエは良くも悪くもあっけらかんとした性格だ。だからこそ、彼女のような複雑な生い立ちを持った相手でも気軽に接することができるのだろう。それは、彼女にとってもきっとよいことだろうとレンディ自身は思っていた。


「それにしたってお前、いくらなんでもそりゃねえんじゃねえの?」

 求婚と言えば、男にとってはともかく女性にとっては一生に一度の一大事だ。ジェイクのことだからそれこそ相手が疲労困憊するまで抱き潰しているだろうに、その後に求婚するなど。

「うるせえ! 俺だってなあ……」

 叫びかけて、ジェイクは我に返ったように、口をつぐむともう一度酒を呷る。だが、レンディもブルーノもこんな面白い話を逃すつもりはなかった。

「話しちまえよ、楽になるぞ」

 ニヤニヤ笑いながら言う二人に、ジェイクはしばらくむっつりと黙っていたが、やがてそっぽを向いてぽつりと呟いた。

「俺だっていろいろ考えてたんだよ。二人で旅に出た後、船の上で……とかよ」

「へぇ?」

「だけどあいつが……」

 数多の女を惹きつけてやまないその灰色の双眸に浮かぶのは、だが見たこともないほど真摯な光だった。

「自分といると俺を危険に晒すかもしれない、なんて言うから」

「……侮られたと?」

「違う」

 ジェイクは即座に首を横に振る。

「あいつを不安にさせるものを全部消してやりたいと思った。俺がどれだけあいつに惚れてて、どれほど俺自身があいつを必要としているかを」

 あまりに率直な告白に、冷やかす気はとうに失せていた。

「さんざん抱いて、俺以外見えないようにしてやりたかった。だけど、それでもあいつはただ俺を見て幸せそうに笑うから」


 だから、もうあとはただ素直に自分の想いを伝えるしかないと思った、と。


「その日の朝にあいつの前に跪いて、その場で求婚した。それ以外考えられなかった。生涯あいつを守るのは俺だと、あいつ自身に選んで欲しかったんだ」

 そこまで言って、我に返ったのか、ジェイクは頭を抱えてテーブルに突っ伏した。その腕の隙間から覗く頬はもとより耳まで真っ赤だ。

「……熱烈だなあ、おい」

 呆れたように言うブルーノはにやけてはいるが、それでも心底目の前の男の幸福を喜んでいる顔だ。レンディ自身も同じような顔をしているんだろうと自覚がある。元々、女にはもてるがどちらかというと恋愛には淡白な方で、一夜限りの相手にも優しいが後腐れない関係を望む方だと思っていた。それがこの有様だ。

「まあ、初恋同士じゃな。微笑ましいったらありゃしねえ」

「……誰が初恋だって?」

「何しろ十四歳で一目惚れだからな」

「おいおい子供に手ぇだしたのか? さすがにそりゃ……」

「違ぇよ!」

「違う違う、お嬢ちゃんの方がジェイクに一目惚れだ」

「何だと?」

「それから四年越しでこいつを探し出して、見事射止めたってわけだ」

「男冥利に尽きるじゃねえか」

 頭を抱えているジェイクは、だがふとこちらに視線を向けてくる。

「あいつはそうかもしれないが、俺は惚れた女の一人や二人……」

「お前さんの場合は、大して惚れてねえだろ。ただ寝るのと惚れるのじゃ全然違うだろうが」

「ま、そりゃそうだな」

 ブルーノも尻馬に乗ってくる。彼も妻を早くに流行病で亡くし、それからは独り身を貫いている。クロエのことがあるにしても、それは亡き妻への想いの現れだとレンディも知っていた。それは彼も同様だったから。

「何にせよ、それだけ惚れられる相手がいるってのは幸せなこった」

 ブルーノの言葉に頷き、杯を掲げる。

「運命の恋人たちに乾杯」

 ブルーノも同様に掲げる。ジェイクもため息をつくと杯を掲げた。

「海と幸運の女神に」



 結局酔い潰れたジェイクを抱えて彼の家の扉を叩くとしばらくしてそろりと扉が開いた。

「お嬢ちゃん……じゃなかった、ユーリ、不用意に扉を開けるなって言われてないか?」

「一応気をつけるようにはしている」

 動じた風もなく微笑むその様子に、やれやれとため息をつく。以前見かけた時より遥かに艶が増している気がする。これではジェイクが気を揉むわけだ。とりあえずもはや半ば意識のない男をそのまま寝台へと運ぶ。

「……酔い潰れたのか?」

「そんなところだ」

「珍しいな」

「めでたいことがあったらしいからな?」

 ニヤリと笑って見せると、ユーリは無意識なのか、そっと左手に嵌められた指輪に触れる。それは控えめだが美しい輝きを放っていた。

「まだ不安か?」

 問うと、ユーリは少し驚いたように目を見開いたが、やがてゆっくりと首を横に振った。

「信じると決めたから」

「そうか。よかったな」

「……ありがとう」

 微笑んで、真っ直ぐに見つめるその眼差しだけは、あの頃から変わらない。ただひたすらにジェイクを追うその眼差しはあまりに眩しくて、ほんのわずか、嫉妬に似た感情を抱いたのは彼の胸の奥にだけ秘めておく。




 レンディが立ち去った後、水を汲んだカップを持って寝台に近づくと、呻くような声が聞こえた。

「大丈夫か?」

 カップをその口元に近づけると、少し身を起こして飲み干す。まだ眼差しは茫洋としていたが、ユーリの姿を捉えると手を伸ばしてくる。その手を握ると、そのまま引き寄せられた。静かな眼差しが真っ直ぐにユーリを見つめてくる。蝋燭の火を受けて揺らめくその灰色の瞳はいつもとどこか違うように見えた。

「もう一度、やり直してもいいか?」

 何を、とは聞かなくてもわかる気がした。

「後悔でも?」

「そうじゃない……が、まあそうといえばそうか。あんたにも理想みたいなのがあるんじゃないのか? そういえば海賊の花嫁になりたいだとかなんとか……」

「子供の頃、自由に海に行かせてもらえなかったから、物語を読んで夢を膨らませていたんだ」

「……なるほど」

「夢は叶ったしな」

「海賊に攫われた?」

「ああ」

 それでもまだもの問いたげな視線に、どう答えたものかと思案する。ジェイクが何かを気にしているようなのはわかるのだが、それが何かが彼女にはわからない。寝台の端に膝をつき、その頬に触れる。それから額に大きく残る傷跡に唇を寄せた。それもまた、先日の彼女の故国で負った傷の一つだ。次に頬に、それから肩、胸元へと。嵐と戦いと、言われなき罪での拘束でどれほどの傷を負ったことか。

「俺が、望んだんだ」

「ジェイク……」

 向けられる灰色の双眸は、どこまでも真摯な光を浮かべている。

「あんたはもう自由だ。だから、あんた自身に選んで欲しかった」

 父も、アレクシスも、皆自分の選択を優先した。だが、彼だけははじめから彼女の選択に付き合ってくれた。

「もう、あなたは知っているはずだ」


 ——この指輪を贈られるずっと前から。


「私が、あなたを選んだんだ」

 真っ直ぐに見つめてそう告げると、ジェイクは驚いたように目を見開き、それから彼女を強く抱きしめた。胸元から直接伝わる心臓の音は早い。いつかもこんなことがあった、ともはや懐かしく思い出す。ふと、その耳元でジェイクが笑みを含んだ声で囁く。

「悪い」

「何が?」

「熱烈な告白をしてもらっておいて申し訳ないが、酔っ払いすぎて、今夜はあんたを抱けそうにない」

 さすがに呆れた顔になったユーリに、ジェイクは屈託なく笑う。たまにはこんな日があってもいいのかもしれない。彼との日々はまだずっと続いていくのだから。

 ユーリも笑みを返し、だが、ジェイクの肩を押して寝台に押し倒すと、深く口づけた。

「おい……」

「たまにはこんな日があってもいいだろう?」

 両手の指を絡めて微笑んだ彼女を、ジェイクはしばらく驚いたように見上げていたが、やがて半身を起こして噛み付くように口づける。

「まったくあんたって奴は……」

 そのままあっという間に上下を入れ替えられてしまう。

「どれだけ俺を煽れば気が済むんだ?」

「あなたが私に飽きるまで」

「……なら、そんな日は一生来ないな」

 ユーリを見下ろす灰色の双眸は甘く、低く笑う声もすでに熱と欲を宿している。


 そうして結局、また、長い夜になったのだった。

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