彼と彼女の事情 〜後編〜
家に着くと、ジェイクはてきぱきと持ち帰った食事をテーブルに並べた。それからワインをグラスに注いで、扉の前に立ったままの彼女に椅子を勧める。
「座ったらどうだ?」
「……怒ってるのか?」
問いかけたが、その表情は蝋燭の灯りではいまひとつ定かでなかった。
「……どうだろうな」
低い声の答えに、ユーリは扉の前から動けなかった。そんな彼女に、ジェイクはひとつため息をついて立ち上がる。ゆっくりと近づき、それから彼女の頬を両手で包んだ。どうしてだか彼の眼を真っ直ぐに見られず、視線を逸らしてしまう。
「ユーリ」
低くやわらかい声で彼女を呼ぶ。見上げると、強い光を浮かべた灰色の瞳が真っ直ぐに彼女を見つめていた。不意に胸が苦しくなる。もう一度視線を逸らそうとしたが、今度は許してはくれなかった。
「あれがあんたの本心か?」
問われて、言葉を失う。酒場でクロエに語ったことは半ば本心だった。いつかまたジェイクが傷つくのが怖い。けれど、それ以上に失うことが怖かった。
「馬鹿だな、あんた」
呆れたような声に何も言えず、そのまま抱き上げられて寝台に運ばれた。そうして、全部聞かせろ、と低く甘い声で囁く。
「あんたの本心も全部だ」
ジェイクは彼女の白い首筋に噛み付くように痕を残していく。思わずその頭を掴みなんとか止めようとしたが、その手は大きな手で優しく阻まれる。
「だめだ、今日という今日は、あんたに徹底的にわからせてやる」
こちらを見上げたジェイクの灰色の眼は甘く、だが獰猛な光を浮かべていた。
ジェイクはただひたすらに彼女にその想いを刻みこむ。そうしてふと彼を見上げると、不意に優しい口づけが落とされる。
「そろそろわかったか?」
「……なに……を?」
「俺がどれだけあんたに惚れてるかってことだよ」
ジェイクは両手を彼女の頭の両脇につき、真っ直ぐに視線を合わせて見下ろしてくる。向けられる眼差しには、確かに甘い優しさといたわりが見えるのに気づいて、こみ上げてくる何かに耐えきれず唐突に彼女の目に涙が浮かんだ。その涙の意味さえ、ジェイクは正しく理解して、眦に口づける。
「あんたがどう思うと、俺はあんたの側にいる。あんたが嫌だと言っても、もう逃してやらねえ。そう言っただろう?」
本当に逃げられると思ったのか?と告げられる言葉は恐ろしげなのに、声も眼差しも蕩けるように甘い。
「だって……私はあなたのことをほとんど知らない」
「俺だって同じだ」
そう言われ、ユーリは眼を見開いた。ジェイクは彼女を見つめたまま笑って言う。
「俺だって、あんたのことはほとんど知らない。だが、あんたを誰よりも愛してる。知らないことはこれから知りたいと思ってる。それじゃだめか?」
あまりに率直な告白に、どきりと心臓がはねた。彼女のその表情にジェイクは優しく笑って、もう一度優しく口づける。あとはもう言葉は必要なかった。
夜明けが近づく頃、彼女が目を覚ますと、ジェイクは水浴びでもしたのか、髪を拭きながら窓から外を眺めていた。濡れた前髪の間から覗く灰色の瞳はいつになく優しい光を浮かべている。その手には、昨日クロエが持ってきた小さな箱がある。
「大丈夫か?」
「ああ……」
頷いた彼女をジェイクは手招きする。
「外はいい天気だ。少し歩くか?」
体が辛くなければだが、と耳元で囁かれ、ユーリは頬を染めたが、確かに少し外の空気を吸いたい気分だったので素直に頷いた。ジェイクはそんなユーリの手を取り、外へと連れ出す。
夜明けの近い港町はすでに人があちこち行き交い始めていた。顔見知りに声をかけられ、ジェイクは時に笑い、時に悪態をつきながらも楽しそうに歩いていく。その間もユーリの手を離そうとはしなかった。冷やかす声も何度も聞かれたが、気にする風もなかった。ユーリの歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれるその優しさが嬉しかったが、絡められた指が熱い。
「……ジェイク、その……手を……」
そう呟いたが、ジェイクはただニヤリと笑う。
「こうしとけば、誰もあんたに手を出そうなんて思わないだろ。しばらくこの町にいる予定だしな」
この港町は確かに治安がいいとは言い難い。彼がついているとわかっている方が、安全なのかもしれない。そう自分に言い聞かせてはみるが、指先から伝わる温度はそれでもいつもより高い気がした。
そうして港を歩き、気がつけば彼の船の前に立っていた。ジェイクは舷梯を先に渡ると、ユーリを手招きする。その船は他の船からは少し離れたところに停泊しているから、あたりは静かだった。船尾に並んで立つと、ちょうど朝日が光の道を作りながら昇ってくるところだった。
「あの時も、こんな風に朝日を見たな」
「あの時……?」
「あの闇との戦いの後、あなたの傷が癒えた日の朝」
「ああ……そんなこともあったな」
たった二月かそれくらいのはずなのに、随分遠い日のような気がする。
「波乱万丈だな」
「だから言っただろう」
彼が傷つくのは見たくない。それだけは彼女の本心だった。その思いが表情に出てしまったのか、ジェイクが肩を竦めて笑う。
「そんな顔するなって言ってるだろう。退屈しなくていいさ」
「でも……」
言いかけた彼女を遮るようにジェイクは彼女の左手を取ると、その場に片膝をついて跪いた。眼を瞠る彼女に、照れたように笑う。
「どこぞの騎士様じゃあるいまいし、ガラじゃねえんだけどな」
先ほどから持っていた小箱から金の指輪を取り出し、彼女の眼を真っ直ぐに見つめる。
「——俺の生涯をかけてあんたを守り抜くと誓う。だから、俺と海と一生を共にして欲しい」
朝日を受け、灰色の双眸は今まで見たことがないほどに強く、甘く、そして真剣な光を宿している。でも、だからこそ、ユーリは逡巡する。
「本当に私でいいのか?」
「まだわかんねえのか?『あんたが』いいんだ。他の誰でもなく」
「だけど……」
なおも言い募ろうとした彼女に、ジェイクはただ優しく笑う。彼女の迷いも、不安も全て織り込み済みだと言うように。
「知らないのか? 求婚の答えは、『はい』か『いいえ』だ」
強い眼差しは、逸らすことを許さない。それに答えなどはじめから決まっているのだ。四年前、彼に初めて会った時から。
「……はい」
そう答えると、ジェイクは心の底から嬉しそうに笑い、彼女の指にその金の指輪を嵌めると、立ち上がって強く彼女を抱きしめて深く口づけた。長い長い口づけの後、改めてその指輪を眺めると、驚くほどそれは彼女の指にぴったりだった。
「……どうして」
「昨日はああ言ったがな。あんたの心や過去はともかく、あんたの体で俺の知らないことなんて、ほとんどないんだよ」
耳元で囁かれたその言葉の意味を悟って、ユーリは真っ赤になり、ジェイクは笑ってそんな彼女にもう一度深く口づけたのだった。
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