7. エピローグ
空は晴れ渡り、恵まれた風を帆いっぱいにはらんで、港に並ぶ船は次々と海へと漕ぎ出していく。それを眺めながら、彼はぼんやりと傍らの宰相の報告を聞くともなしに聞いていた。
「こちらは、キュヴェリ鉱山からの報告書です。銀と月晶石の産出量は安定していますが、アトランティリウムの産出量がほぼゼロに近いと。掘り尽くしてしまったのかも知れませんね。まあ所詮宝石類ですから、ひとまずは様子を見ましょう。リガード鉱山の方の鉄と銅は順調のようですが、引き続き様子を見ていきます。貴金属はともかく、卑金属はこれからさらに重要になってくるでしょうし。……陛下、聞いていらっしゃいますか?」
わずかに眉をしかめた宰相から書類を受け取り、彼は深いため息をついた。目の前の相手が宰相に就任して以来、わずかな間に彼の国の経済は急成長していた。各鉱山の産出量をまとめ、適切な量に管理して、最も高値で売れる地域へ運び収益を上げている。あまりの緻密な管理に元々の管理者たちは眉を顰める者もいたが、単純に得られる利益が大きくなった民はその恩恵を享受し、おかげで現王の善政は素晴らしいと褒め称えられる始末である。
「順調にこの国の経済は成長しているかと思いますが、何か気になる点が?」
彼のため息に気づいたのか、宰相は肩を竦めて尋ねてくる。黒い髪に同色の瞳、口元の髭はきれいに整えられている。背は彼よりやや低いくらいだが、若い頃には大船団の船長として名を馳せていたこともあるその体は今でもしっかりと引き締まり、いざとなれば白兵戦で先陣を切った当時を思い起こさせる。
眼差しは鋭く、一見いかにも切れ者、という鋭利な印象を与えるが、口を開けば柔らかなその響きは話し相手をあっという間に惹きこんでしまう。端的に言って、有能で魅力的な人物である。だからこそ、宰相に採用したのだが。
「数ヶ月にも渡って国を空けるような放蕩者の王など、あなたならあっさり追い落してくれるかと思ったのですがね」
半分はそれが狙いだったのだ。有能な宰相である彼なら、長期間玉座を空けるような人間は見限り、傀儡の王でも立ててくれるのではないかと。そうすれば、少なくとも彼自身は王という身分から解放される。
「生憎と、数ヶ月の不在では揺らぎもしないような盤石の基盤を打ち立てる王の代わりなど、そうそう見つからないもので」
澄ました顔で告げるその言葉は本音なのか世辞なのか判断がつかない。
「本音ですよ」
こちらの疑念を読み取ったかのようににこり、と笑う。そんな表情は彼女を思い起こさせ、さらにやりきれない想いに駆られる。
「王の重責以外にも何かご不満でもございますかな?」
しれっと尋ねてくる宰相は、現レヴァンティア公爵その人であり、彼の想い人の父親でもある。
「私をだしにして、彼を試しましたね?」
「……はて、何のことでしょう?」
にこやかに答えるが、口元が震えている。今にも笑い出すのを堪えている顔だ。稀代の名宰相は有能な策士でもある。時に、人を意のままに使うことに何の躊躇いも抱かない。
「今頃は、遥か海の上ですかね」
「さて、ならず者と駆け落ちするような娘のことなど」
言いながら結局笑い出している。おそらくはどのあたりにいるのかも把握済みなのだろう。手玉にとったつもりが、実際は踊らされていたのは彼の方だった。穏やかに微笑む相手を前に、彼はただ、もう一度深いため息をついたのだった。
あれからもう一月が過ぎた。折れた骨もほぼ元通りになってきたようだった。それでも、失ったものはもう元には戻らない。なまじ手の届くところにあんなものがあり、彼女に触れられる機会が巡ってきてしまったのが運の尽きだったのだろう。あんな小細工をせず、真摯に向き合えばいつかは彼女も振り向いてくれただろうか。そんな後悔をしても意味はない。彼はもはやただの悪役で、勇敢な船乗りが彼女を救い出し、連れていってしまった。
「愚かだな……」
「本当だよ」
突然かけられた声に驚いて顔を上げると、大きく開けられた窓枠に少女が腰かけてこちらを睨み付けていた。知らない少女だったが、背の半ばまである豪奢な金の髪と深い森のような緑の瞳で、それが誰なのかはすぐに予想がついた。
「どうしたんだい……リィン、そんな格好で?」
「アレクシスが馬鹿なことをするから」
「……耳が痛いね」
なんと言われようとも仕方がない。ユーリに触れるだけでもさんざんジェイクを罵っていたリィンから見れば、彼の犯した罪は遥かに許せないものだろう。
「それで、君も私を叱りに来たのかい?」
「そんなに暇じゃない」
そう言って窓から立ち上がると、こちらへとゆっくり歩み寄ってくる。それから座ったままの彼の頭を不意にその両腕で抱き締めた。
「アレクシスは馬鹿だ」
容赦なく罵ってくる人ではないその少女の腕は、それでもとても柔らかく暖かかった。
「わかってはいたつもりなんだけれどね」
彼はただ、こんな温もりが欲しかっただけなのかもしれない。少女はそんな彼の想いを知ってか知らずか、ただ柔らかく彼を包み込む。
「私は、こんな人間だから、君を傷つけるかもしれないよ」
「私はそんなに弱くないから大丈夫だ」
深い緑の瞳は、それでもわずかに揺らいでいる。彼がそうであるように、人でないこの少女もまだ己の真意を理解しきれていないのだろう。
——だとしても、せめて今だけは。
彼は、その腕に包まれたまま、目を閉じた。
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