6. 再び、海へ
目を覚ましたのは明け方、既にジェイクの姿は寝台になかった。起き上がると、熱に浮かされたような感覚は既に消えていた。ただ、あちこちに残された愛された痕と、微かに重い体が昨夜のことが夢でなかったことを自覚させる。薬のせいだとはいえ、幾度も繰り返された行為と自分の言葉に今さら赤面する。
アレクシスに触れられた時、絶対に嫌だと心が悲鳴を上げた。たとえ行為が同じでもその意味合いは相手によって全く異なるのだと当たり前なのだろうが思い知った。ジェイクに言えばきっと喜ばせてしまうだろうから、今は秘密にしておくことにしよう。そんなことを思いながら、ユーリは自然と笑みを浮かべていた。
甲板に出ると、空はちょうど青く染まり始め、潮風が心地よく吹いている。ジェイクは舵を片手にいつかのように、鼻歌でも歌い出しそうに楽しそうな表情だった。
「おう、起きたか?」
屈託のない笑顔に引き込まれるように、傍に歩み寄る。
「体は大丈夫か?」
「もう何ともない」
「……満足したのは俺だけじゃなかったと思っていいのか?」
人の悪い笑みに、答えを探しあぐねて背を向ける。くつくつと低い笑いを聞けば、その真意は伝わってしまっているとわかっていたけれど。
「ターランティアの港まではしばらくかかる。そこで俺の船が無事に回収できればいいがな」
「兄は嘘をつくような人ではないから、きっと大丈夫だと思う」
「あんたがそう言うなら大丈夫なんだろうな」
あっさりと頷くその信頼が嬉しい。
「昨日会ったのは、下の兄貴か?」
「ああ、テオドーロという。四歳上の兄だ」
「もう一人は?」
「ヴァルフレード、テオ兄様より二歳上だな。私より六つ上だ」
「二十四か。それにしちゃ随分落ち着いてるな」
「……会ったのか?」
「まあな……。いろいろあったが、助けてくれたんだろうな。もう少しお手柔らかにお願いしたいもんだが……」
首を傾げたユーリに、だがジェイクは何でもないというように首を振る。兄たちは、それぞれ性格は異なるが二人ともユーリには常に優しかった。だが、母も兄たちも基本的には父の意向には逆らわない人たちだったから、今回助けてくれたことには驚いたのも事実だった。もしかしたら、と思う。
「父も、裏で関わっているのかもしれない」
父の諜報網は世界でも有数のものだ、と兄たちが話していたのを思い出す。アレクシスの手前、大っぴらに助力をすることはできないが、母たちの行動を読んで、包囲網を緩めたり兄たちが自由に行動できるよう手を回しているというのは十分ありそうだった。だが、ジェイクは不満げに鼻を鳴らす。
「だとしても、アレクシスがあんたに手を出すのを見過ごしたことを、俺は絶対に許さない」
その表情は、それまで見たことがないくらいに険しい。それほどまでに怒っているのだ——彼女のために。助けに来てくれた時は、どちらかと言えば穏やかに包み込んでいてくれていたが、それは彼女を怯えさせないためだったのだろう。
胸元に頭を寄せると、ごく自然に抱きしめられる。それがこんなにも幸福なことだと、改めて思う。
「私は幸せだな」
「……あんたのそういう豪胆なところは本当に尊敬するよ」
「豪胆?」
聞き返すと、ジェイクはどこか切なげに頷く。
「あんたはどんなに困難な運命にでも果敢に立ち向かう。だからこそ俺は——」
途切れた言葉に目線を上げると、ジェイクは舵から手を離して額を押さえて天を仰いでいる。
「……あーもう情けねえな」
「どうして?」
「あっという間に捕まるわ、惚れた女を他の男に触らせちまうわ、これが情けなくなくて何だってんだ」
「それはまあ……そうだな」
アレクシスに触れられた時の嫌悪を思い出し、あまり深く考えずに頷いたのだが、ジェイクは殴られたかのように項垂れる。
「ジェイク?」
「守ってやるって言ったのに、な……」
だが、あれは不可抗力というものだ。そもそも公国への入国をしぶるジェイクに、それでも屋敷へ一緒に来て欲しいと言ったのは彼女だ。父である公爵があのような行動に出るとは彼女でも読めなかったし、アレクシスの彼女への執着も予想を超えていた。彼女からすれば、あの状況から救い出してくれただけで十分なのに。
「私の望みは、あなたと共に在ること。それだけだ」
言って唇を重ねると、離れようとした彼女を捉えてジェイクはそのままさらに深く口づけてくる。ゆっくりと、何度も角度を変えて。その口づけと腰に触れられる手だけで、体が熱くなる。
「本当に、あんたは……」
「何?」
「あんたの兄貴たちが心配するわけだ」
何と答えたものかと途方に暮れたユーリに、ジェイクは深いため息をついて、それから心底おかしそうに笑ってもう一度彼女を抱きしめたのだった。
それから数日後、ターランティアの港につくと船を下りる。そうして探すまでもなくすぐに自分の船を見つけたジェイクは驚きの声を上げた。
「レンディ?」
「よう、お二人さん、また会ったな」
船の上でこちらを見下ろしていたのはアンティリカで会ったジェイクの兄貴分だった。警戒しつつも船へと移ると、レンディはジェイクの顔を見つめ、それから快活に笑う。
「随分勲章が増えたか?」
「うるせえ。何でお前がここに……」
「アンティリカで商売しようと思っていろいろ下調べしてたんだが、アトランティリウムはもう産出量が減っちまってるらしくてな。商売にならねえらしい。どうしたもんかと途方に暮れてたら、声をかけられてな」
見知らぬ黒髪の男に、船を一隻、ターランティアの南の港まで運んで欲しい、と頼まれたのだという。
「どうにも怪しい依頼だが、提示された額が額でな。あてもねえしとりあえず話でも聞いてみるかと、その船の前に連れて来られてみりゃ、お前の船じゃねえか」
「——偶然、じゃねえよな?」
こちらを意味ありげに見下ろしてくるジェイクに、ユーリは深くため息をつくことしかできなかった。
そんなわけで無事に「東風と夜明けの海」号を取り戻したジェイクは上機嫌で海へと漕ぎ出した。アンティリカの港を越える際は緊張したが、特に誰何も拿捕されることもなく無事に外海へとたどり着いたときには安堵の息を吐いた。レンディも船員として乗り込んでいる。今は疲れたと言って、船室で昼寝の最中だった。
「これからどうするんだ?」
「どう……って言ってもなあ。とりあえずレンディのやつを送ってかなきゃならねえし、いったんはあっちに向かうしかないだろうな。そこで船を乗り換えるのがよさそうだ」
「乗り換える?」
「ああ。あんたと二人で旅するには、この船はでかすぎるしな」
「だが、あなたの大切な船だろう?」
「あんた以上に大事なものがあると思うか?」
あくまでも軽く、それでも冗談でなくそう告げてくれる言葉に、どくんと心臓が跳ねる。それほどまでに想ってもらえるほど、自分は何かを返せているだろうか。その胸の内を読んだかのように、ジェイクが彼女を引き寄せた。
「いいか、いい女ってのは男を振り回すもんだぜ?」
「あなたを振り回せるような女性が他にも?」
「幸か不幸か、海以外で俺を振り回したのは、あんたが初めてだ」
人の悪い笑みは、それでも蕩けるように甘い。腰を抱く腕は、既に彼女の奥に触れようとさわさわとうごめいている。
「……海の女神が嫉妬するんじゃないのか?」
「生憎と欲望には素直な方でな」
嫌か? と率直に告げてくる灰色の瞳に彼女が逆らえるはずもない。
「あなたこそ、後悔しないのか?」
「何をだ?」
「私は、あなたが思うよりずっと嫉妬深いし面倒くさい女かもしれないぞ?」
「……はあ?」
「あなたが誰よりも海を愛する船乗りなのは知っている。でも、ずっと側にいたい。もっと触れて欲しい。私だけを見て欲しい」
それは彼女の本心だった。それまで多くを望めないと思っていたのに、自由を手に入れた途端、ここまで欲深くなるなんて。
「一国の王を狂わせておきながら、まだ自覚がないのか?」
呆れたように言って、それから灰色の双眸に甘く強い光を浮かべてユーリを見つめてくる。
「言っただろう。あんたが嫌だと言ったって、もう離してやらねえよ。覚悟しておけよ?」
彼女はただ、答えの代わりにその顔を両手で引き寄せ、唇を重ねたのだった。
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