5. 夜と熱
勢いよく飛び出した後、だが、すぐに目測を誤ったことを悟った。このままでは二人とも地面に叩きつけられる。迷っている暇はなかった。なんとかユーリだけでも堀に届くよう押し出す。そしてついに地面に叩きつけられる、と思った瞬間、ふわりと大きな風が吹いて、それから堀に二人まとめて落下した。
『やれやれ、目の離せない子たちだねぇ』
『手助けなんて……』
『お前ができない分、私がしてやるんだよ』
聞き覚えのある声が聞こえた気がしたが、とりあえずユーリの手を掴んで急いで堀から上がる。
「大丈夫か?」
少しふらついたユーリにそう声をかけると、まだどこか定まらない眼差しだったがふわりと笑う。
「その格好、似合っている」
「……冗談じゃねえ、二度と御免だ」
そのまま手筈通り近くの楡の木に駆けよると、二頭の馬が繋がれていた。
「あんた、馬は乗れるんだよな?」
「大丈夫だ」
「……本当に大丈夫か? 辛かったら一緒に乗せてやるが」
「手綱を体に巻きつけてでも乗り切ってみせる」
にこりと笑う表情はいつものそれだったが、やはりどこか様子がおかしい。アレクシスが盛ったという薬の影響だろうか。あの野郎、とまたじわりと怒りが沸いてくるが今はそれどころではない。
「……勇ましいこって」
苦笑まじりに言って、そのままユーリを抱え上げると馬に乗せた。もう一頭の馬をつないでいた縄を解くと、行けとその背を叩く。それから自分もユーリを乗せた馬に跨った。
「私は大丈夫だと……」
「あんたがそう言う時は大体大丈夫じゃねえんだよ。それに……」
少しは俺に格好つけさせろ、と耳元で囁いて馬の腹を蹴った。
「どうせ港までだ、あの王様が人払いしておいてくれたおかげで、しばらく時間を稼げるだろう。追手も間に合わねえさ」
見上げた塔の上には人影は見えない。追ってくるつもりなのか、それとも——。
だが、今は気にしても仕方がない。ひたすらに馬を港へと駆けさせた。ユーリはあれこれと話を聞きたがったが、母親の件では息を呑むのがわかった。彼女の母も言っていたが、この母娘にはそれなりに複雑な事情があるのだろう。いつか、笑って話せる日がくるといいのだが。
そんな話をしているうちに港へと到着する。こちらは個人用の船溜りに近いらしく、昇ったばかりの月に照らされた港は静かで人気がない。寄せては返す波音と、潮の香りに確かに安堵する自分がいた。幸い追手はまだ来てはいないようだった。馬を下りると、ユーリの母から聞いていた一隻の船へと近づく。
「この船のはずだが……」
だが、船の舷梯に近づいた瞬間、首筋に白刃が突きつけられた。
「遅かったな」
「テオ兄様⁉︎」
「よおユーリ、おかえり」
視線を向けると、彼に剣を突きつけている男は、朗らかにユーリに笑いかけている。
「兄貴だって⁉︎」
「そういうことだな」
短い黒い髪に、黒い瞳。端正なその顔はあまり彼女と似てはいないが、あの森の中で見た男と背格好や雰囲気がよく似ていた。ではあれが上の兄だろうか。
「で、この状況について説明してもらえるか?」
「可愛い妹を拐かした不届き者を捕えるところだな」
「どっちかっていうと、お前さんの可愛い妹を手篭めにしようとした不届きな王様から救ってやった方なんだがな」
「何⁉︎ アレクシスの奴そんなことを……?」
「まあ、どっちでもいいさ。邪魔する方なら遠慮はしねえ」
そう言い捨てると、大きく蹴りを放つ。不意を突かれた相手はまともに食らったが、なんとか踏みとどまり剣を構えて踏み込んでくる。すかさず剣を抜いて応戦する。ユーリの兄は相当に訓練を積んだ使い手らしく、剣捌きは美しいが、それでもジェイクの型破りな剣技と膂力はそれを上回る。
「く……っ、海賊め!」
「そんなにお行儀のいい剣で本物の海賊と戦えるのか?」
不敵に笑ってその剣を弾き飛ばし、その喉元に剣を突きつけた。
「形勢逆転、だな」
ユーリが駆け寄ってくるのを見て、後ろ手に庇う。それを見た青年が目を丸くした。
「なんだ、本当に相思相愛なのか」
「……え?」
「可愛い妹を悪漢の手から救って格好いい兄ぶりを見せつけるつもりだったのに、これじゃあ俺が悪役じゃないか」
突きつけられた剣をものともせず、その場にどすんとあぐらをかいて緊張感も何もなく肩を竦める兄に、ユーリは深いため息をついた。ジェイクの右腕に触れ、剣を下ろすように伝えてくる。少し迷ったが、ゆっくりと剣を下ろした。それでも数歩の距離を取り、ユーリの肩をしっかりと抱く。
「テオ兄様、この船のことを兄様に伝えたのは誰です?」
「母上だ」
「……何だと⁉︎」
彼女の母は味方のはずだが。思わず声を上げたジェイクに、だが、ユーリはもう一度深いため息をつく。
「母上は、兄様になんとおっしゃったのですか?」
ユーリが真っ直ぐに視線を合わせて問い詰めると、青年はあらぬ方へ視線を彷徨わせる。
「えーと、それはだな……」
「テオドーロ兄様?」
やや剣呑な声と瞳で、愛称でなく名を呼ばれた青年は、頬をかきながらばつが悪そうに答える。
「……この船の前でお前とその男を待ち、必要があれば助力を、と」
「だったらなんで襲いかかってきたんだよ?」
「いやぁ、大事な妹を本当に預けられるやつかどうか、兄としてはやはり気になるじゃないか」
テオドーロの剣は到底手加減しているようには思えなかった。斬られるような相手ならそれまで、とどこか本気で思っていた節がある。
「この国の連中ときたらどいつもこいつも……」
ぼそりと呟くと、ユーリが隣でもう一度深いため息をついた。彼女にとって、兄の行動は珍しいものではなかったのだろう。
「とりあえず、俺たちはもう出かけさせてもらうぞ。あんたたちの父親に、ユーリが売り飛ばされる前にな」
「アレクシスか。父上らしいと言えばらしいが。まあ、そうだな、妹の恋路を邪魔するつもりはないよ。ユーリ、これ母上からの手紙と荷物と路銀だ」
「母上が……」
ユーリが差し出された荷を受け取ると、テオドーロはようやく立ち上がった。それから固くその妹を抱きしめる。
「お前を守ってやれなくてごめんな。母上も父上の今回の件については相当怒ってらしたから、まあほとぼりが覚めたらそのうちまた訪ねてきてくれ」
「……吊るされるのはごめんだぜ?」
「次は母上がお許しにならないさ。もちろん、俺とヴァル兄もな」
「ヴァル兄様は今……?」
「それこそアンティリカのごたごたを治めにいってるんじゃないか。まあ一年とはかからないだろうから」
そう言って、テオドーロはユーリの身体を離すと、ジェイクの方に向き直った。
「試すようなことをして悪かった。だが、妹はこう見えて世間知らずだから。よろしく頼む」
深く頭を下げられ、何となく居心地の悪さを感じたが、ユーリの肩を抱き寄せると、何とかいつも通りに笑って見せる。
「海賊まがいの荒くれ者で悪いが、あんたの妹は絶対に何があっても守る」
「……ありがとう。さあ、もう行け。船の支度は全て済んでいる。岩礁が多いが、白旗に沿って行けば安全だ。ああ、あとあんたの船はターランティアの南の港に運んである。アンティリカはもはや安全な場所ではないからな」
「用意周到だな」
「我が家の家訓でね。妹の信条とは正反対のようだけど」
面白そうに笑う兄に、ユーリはただ苦笑を返す。思い当たる節がありすぎるようだった。兄にぎゅっと抱きついて頬に口づけすると、すぐにそのままジェイクと共に船へと乗り込む。舵を握るや否や、ふわりと大きな風が吹いて船を海へと送り出してくれた。そうして暗い海へと漕ぎ出す間も、ユーリはずっと港の方を見つめていた。
「本当によかったのか?」
しばらくして港を抜け出し、風に乗って船が漕ぎ出した頃、そう声をかける。
わずかな月明かりでは、その表情は窺い知れない。ゆっくりとこちらへと歩み寄ってくる。その碧い双眸はいつもより少し潤んでいるように見えた。ジェイクの頬に手を伸ばし、どこかが痛むような顔をする。
「無事でよかった」
「そりゃこっちの台詞だ。大丈夫か?」
「……ああ、大丈夫だ」
平静な声の、だが一瞬のためらいにジェイクも気づいた。舵を握ったままそっと片腕で抱き寄せる。びくりと震える体にあの時感じた怒りが蘇ってくる。
「遅くなって、悪かった」
「……怖かった。あんな風に——誰かに求められるのは初めてだったから」
「あんの野郎、腕の一本や二本もまとめて折っておいてやればよかった」
物騒な声と表情で、冗談でもなくそう呟くジェイクの胸元にユーリが頭を寄せてくる。
「あなたが来てくれて、本当によかった」
「少し休め。あとで起こしてやるから」
「でも……」
ジェイクとしても離れがたいが、まだ薬の効果が残っているのかユーリの足元はふらついている。だが、頑なに離れようとしない彼女にため息をつき、島影に入ったところで一度錨を下ろした。その体を抱き上げると、明らかに熱を持っていた。
「あんた……辛いならもっと早く言え!」
そのまま船室へと運び、寝台に下ろすと浅い呼吸が繰り返される。ただの熱にしては、何か様子がおかしい。
「おい、大丈夫か……?」
「ジェイク……苦しい……」
熱に浮かされたような眼差しは明らかに普通ではなかった。
「まさか……あいつの薬のせいか……?」
恥じらうようにユーリが目を伏せた。その肌は熱を帯びてうっすらと朱に染まり、伏せられた目元はこちらを誘うように潤んでいる。それが、本人が望むことではないとわかっていてさえ、ジェイクは自身の男の部分が反応するのを自覚した。そっとその頬に触れると、びくりと体全体が震える。潤んだ眼差しに浮かぶのは、微かな怯えと明らかな情欲だった。
「……私は、どうして……」
「あんたのせいじゃない。あの薬のせいだ。早く治めるためにはその熱を散らしちまった方がいい」
「散らす……?」
眉根を寄せて苦しげに問い返すその表情に、湧き上がる自分の欲を自覚しながら何とかねじ伏せつつ、荷物からいくつかの解熱剤と解毒薬を取り出すと水に溶かして口移しで流し込んだ。ごくりと飲み込むが、幾筋かがその唇からこぼれ落ちる。それを指で拭って、頬を撫でてやる。
「これで、しばらくすれば落ち着くはずだ」
「しばらくってどれくらい……?」
だが、わずかに首筋に触れただけで、ユーリはあえやかな声を上げる。熱を帯びた瞳はさらに潤み、苦しそうに眉根を寄せる。その切ない表情に、どくん、と心臓が跳ねる。
「大丈夫か……?」
理性を総動員してなんとか冷静に問いかけたが、ユーリは子供のように首を横に振る。
「体が熱い……んだ……ジェイク」
潤んだ目で訴えかけられ、ぞくり、と背筋が震えた。こういう時の対処法が一つしかないことはわかっていたが、それでも惚れた相手が薬でどうにかなっている時に手を出すのはさすがに憚られた。
「一応言っておくと、俺はあの王様みたいな趣味はないからな?」
「わかっている……でも」
言いながら、彼の顔を引き寄せ、唇を重ねてくる。柔らかくはむように繰り返される口づけに目眩がした。それでもジェイクは男の矜恃にかけて、最後の抵抗を試みる。
「……あんたは今、普通の状態じゃない。俺は……」
「それでもいい。あなたに触れて欲しい。全部忘れさせて欲しいんだ」
忘れさせて欲しいという記憶が何かは明らかだ。だが、それを言い訳にするのはどうなのかとそれでも躊躇っていると、ユーリはその碧い双眸で真っ直ぐに彼を捕らえる。
「私は、あなた以外、誰も知りたくもないし、欲しくない」
——微笑みながら告げられた最強の殺し文句に、ジェイクは完敗だと白旗を上げるしかなかった。
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