3. 北の塔

 意識を失ったジェイクに声をかける間も無く、衛兵たちは彼を連れ去り、またユーリ自身も北の塔へと連行された。その塔は、かつてこの屋敷が城であった頃に建てられたもので、正気を失った夫人を閉じ込めるために造られたのだと聞かされていた。故にその小部屋は美しいが入り口には頑丈な鉄の扉が嵌め込んであり、扉の上部には覗き小窓が、下部には食事を差し入れるための小扉がついていた。


 娘たちが自主的に国を離れるようになり、嵐が襲わなくなってしばらくたってから、堅固な城を不要とした時の公爵により現在の壮麗な屋敷が建てられた。その一角にこの塔は残され、身分の高い人物を拘束するために使われてきた。だが、長らく使われていなかったにしては、部屋の中は整えられており、寝台のシーツも清潔な物がかけられている。明らかに事前に準備されていたとしか思えなかった。


「一体なぜ……」

「お前を捕えたのか、か?」

 突然割って入った声に目を上げると、小窓から公爵が覗いていた。それから扉を開けてゆっくりと入ってくる。背の高い姿は子供の頃からほとんど変わっていない。あまり笑顔を見たことのない父だが、それでもいつも穏やかで、何につけても冷静だが的確な指示を下し、子供たちにも常に公平に接してくれている。旅立つ時も、少ない言葉の中にも確かな気遣いを感じたと思ったのだが。


 公爵はしつらえられた椅子に腰掛けると、立ったままのユーリを見上げるようにして口を開く。

「アレクシスが即位する前、アンティリカは政情が不安な厄介な国だった。鉱山は利権にまみれ、荒れ果て、それにより疲弊した民は隣国へと雪崩れ込む。それは周辺の国の治安の低下も招く。それに対抗できる国があればよかったのだが、我が国を含め、周辺国いずれも都市に毛の生えた程度の小国しかない。いかに荒れていようとも、簡単にどうにかできる相手ではなかった」

「アレクシス様が玉座についたことで、アンティリカが安定したことはわかります。けれど、私が嫁がねばならぬ理由がわかりません」

「為政者の娘とはそういうものだと、お前は理解していると思っていたが?」

「……それは、身内を差し出しでもしなければ脅威をしのげないような、強国相手にすることかと思っておりましたが?」

 真っ直ぐに見つめ返してそう言うと、再会してから初めて公爵は表情を緩めた。顎髭を撫でながら口の端をわずかに上げる。

「なるほど、私は娘をしっかりと育て上げたらしい」

「答えになっておりません」

「……お前の問いが、そのまま答えだ」

 表情を戻し、冷徹な瞳でそう答えた公爵にユーリははっと息を呑んだ。それはつまり——。

「アレクシス様が我が国にとって脅威であると、そういうことですか?」

 父は頷きもしなかったが、答えは明白だった。そして、その理由も。


 彼女自身が——またしても——この国にとって災厄なのだ。


 アレクシスは初めて会った時から彼女を求め続けた。彼は決して強引な手段を取ろうとはしなかったが、諦めようともしなかった。これまで助力をするに留め、無理強いをしなかったのは、恐らくそんなことをしても無駄だと知っていたからだ。彼女が二十歳を過ぎれば嵐がこの国を襲う。たとえ彼がユーリを自国に連れ去ったとしても嵐がこの国を襲わない保証はない、それどころかアンティリカを襲わないとも限らない。一国の王として、そんな危険を犯すことはできなかった。だが、嵐の呪いが去った今、彼を止めるものはもはや何もない。

 言葉を失った彼女に、公爵はそれ以上告げるべきことはないとばかりに立ち上がり踵を返した。重い扉の閉まる音は、そのまま彼女の未来が閉ざされた音のように感じられた。



 それから数日が過ぎた。食事は日に二度、小扉から差し入れられ、夕刻には湯浴み用のたらいと着替えも差し入れられた。世話をする女たちは日替わりで見慣れない顔ぶればかりだったので、あえてそういった者たちを差し向けているのがわかった。扉の外には基本的に兵はいないが、湯浴みの際などには二人いるのが開閉する際に見受けられた。警備は固いが、ユーリ自身は逃亡する気力をすでに半ば失っていた。


 変化が訪れたのは、五日目の夕刻だった。すでに習慣となった湯浴みを終え、女たちが下がると、ユーリは大きく開いた窓に腰掛けて外を眺める。西日が海の中に沈んでいく様を眺めていると、いつかの衝動を思い出してしまう。窓枠に手をかけ、もう少し港の様子を見ようと身を乗り出したところで、後ろから左手を掴まれて部屋に引き戻された。驚いて振り向くと、アレクシスの蒼白な顔が間近にあった。いつの間に入ってきたものか、扉はすでに閉じている。

「飛び降りるのかと」

「生憎と、そこまで世を儚んではおりません」

 なるべくやんわりと手を振り払い、距離をとったが、自分でも思った以上に声が強張っている。アレクシスの表情は夕陽のせいばかりでなくかげっているように見えた。だが、その翳りはいつも通りの笑みでかき消されてしまう。彼は部屋の真ん中にある椅子に腰を下ろし、持参したらしいワインとグラスをテーブルに載せ、その真っ赤な液体を注ぎ込むとユーリにも席につくように示す。断ることも憚られ、椅子に座り、グラスに口をつけた。アレクシス自身は口にせず、じっとユーリを見つめている。濃い葡萄の香りに混じって何か不思議な風味を感じた気がしたが、それについて考えを巡らす前に、アレクシスが静かに口を開いた。

「公爵から聞いたかい?」

 何を、とは問うまでもない。彼女の表情から答えを読み取ったのか、アレクシスは苦い笑みを浮かべた。

「あなたが旅立った後、私は公爵に宰相位をお願いした。その対価は、あなたの国へ侵攻しないこと、また、あなたの国の船が内海から出るのを妨げないこと」

 公国はほぼ他国との貿易で成り立っている。隣国アンティリカは外海へ出るための途中に港を持っているから、内海からの経路を封鎖されれば、確かに彼女の国は事実上孤立することになってしまう。

「要衝を押さえるのには時間がかかったが、その甲斐はあったようだ。公爵は承諾し、私は旅に出た。その間に何か起きるかと思ったが、公爵はただその職責を全うしてくれたようだ」

 私が期待していた以上にね、とさらに苦く笑う。

「公爵の善政のおかげで、私の人望までうなぎのぼりだ。これでは私も退くに退けない」

「どういう……ことです?」

「公爵に一人娘がいて、長年続いた嵐の呪いが解けたと竜が告げたというのは私の国にも広まっていてね。詳細はわからぬまでも、竜の加護を受けたというその奇跡の娘をぜひ王妃にと、民が望んでいる」

 どこか他人事のように語る隣国の王に、ユーリはじわりと怒りが沸いてくるのを感じた。どれほど彼女がその運命に翻弄されていたか、家族を除けば彼こそが最もよく知っているはずなのに、それすら利用しようというのか。

「私にまた贄になれと?」

 静かに、だが確かな怒りを込めてそう問うと、アレクシスは深いため息をついた。

「手厳しいね。だが、贄と言われるのは心外だ。本当に誰よりもあなたを望んでいるのは、私なのだから」

 そうして、真っ直ぐにユーリを見つめる。緑の瞳に浮かぶのは狂おしいほどの熱情だった。それは、あの闇の中で見た昏い眼差しとは異なり、率直にその想いが真実であると告げてくる。


「長く苦しい闇の中のような日々、あなただけが私の希望だった」


 かつて彼女がジェイクに伝えたのと全く同じような言葉を告げてくる。彼もまた、何か別の闇の中にいたのだと、初めて知った。立ち上がり、じりじりと後退りするが、気がつけば後ろにはもう壁しかなかった。アレクシスは彼女の頭の両脇に手をつき、間近にその顔が迫る。逃れようとしたが、腕を掴まれた。

「——彼は、どんな風にあなたに触れた?」

 かつて聞いたことがないほど低く、熱を持った声で尋ねながら、そのまま寝台へと引き倒された。その唇がユーリの首筋に触れる。

「アレクシス様、おやめください」

「嫌だと言ったら?」

 平然と笑うアレクシスの頭を引き離そうと手を伸ばしたが、あっさりと両腕とも片手で封じられてしまう。身をよじってもびくともしないその力に、初めて彼もまた本気で彼女を女として求めていたのだと実感する。到底受け入れられることではなかったが。

「あなたが私を求めないのは知っている。けれども、まだたった一人しか知らないあなたを、私は変えられると信じているよ」

 熱を帯びた身勝手な言葉に怒りを感じたが、いくら力を込めても身動きが取れない。

「あなたを泣かせたいわけではないけれど、他に手段がないなら、あなたを快楽で私の虜にする」

 低く囁く声は甘く優しい。彼女の拒絶さえなければ愛し合う二人のそれと言っても過言でないほど、アレクシスは優しく触れてくる。

「……いやです、アレクシス。どうか……!」

「恥じる必要はないよ。元々人の体は快感には逆らえないようにできているんだ。それに、魔女の薬は本当によく効くようだ」

 そう言って、小さな瓶を彼女に示しながら、ゆっくりと顔を近づけてくる。卑怯だ、と罵ることさえできないままに、漏れそうになる声を必死にこらえる。

「声を聞かせて。ここには私以外誰もいない」

 囁く声だけは優しく、だが、熱い眼差しと彼女の脚に押し付けられるそれは隠しようのない欲望をさらけ出している。薬のせいなのか、触れられるたびに嫌悪よりも湧き上がる快感に戸惑い混乱する頭で、それでもなんとか打開策を探った。このままではどうやっても逃れられない。身を委ねたところで、この先に待っているのは美しいかもしれないが、彼女にとっては新たな牢獄だ。


 覚悟を決めて、抵抗を止めた。涙を浮かべ、抵抗を諦めたように見えた彼女に、アレクシスは切ない表情を向けると、両手でその頬を包んだ。

「あなたを大切にする。だから……」

 その言葉が終わらぬうちに、ユーリはアレクシスの腰から長剣を引き抜いた。わずかに黒みがかった鋼はよく研ぎ澄まされ、その首さえ一太刀で落とせそうだ。アレクシスが目を見開く。

 だが、一国の王であり、民の命運を担う彼を斬ることはできない。


 ——ならば、選択は一つしかない。


 ユーリは、その刃を自らの首筋に押し当てた。

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