1. 港にて
夕暮れの空は朱色に染まり、太陽は真っ直ぐに黄金の道を示しながら海に沈もうとしている。
「なあ……本当に行くのか?」
「何だ、今さら怖気づいたのかい?」
からかうような声に、ジェイクは苛立ちの視線を送るが、当人はどこ吹く風とばかりの様子だ。
あれから半月が過ぎた。予定通り船はアンティリカの港に着いた。ここからは陸路でユーリの故郷である公国へと向かうことになる。だが、公国は自由な船乗りたちにとっては、あまり開かれた国とは言い難かった。
「気が進まないのなら、私がユーリを送って行こう」
これ幸いとばかりに彼女の肩を抱こうとするアレクシスの手を叩く。この男にユーリを預けるなど、獅子の前にみすみす生肉を置くようなものだ。わかってはいるのだが、何だか嫌な予感がしてならない。それでなくともこの国自体、目の前の青年のものだ。船から下りればある意味、彼の手の内かと思うと気が乗らないのは当然だった。だが、相手はそんな彼の心中を読んだかのように笑う。
「まあ、それじゃあ私はいったんここで失礼するよ。公国でまた会おう」
「ついてくる気じゃなかったのか?」
「そうしたいのはやまやまだけれどね。さすがに長く国を空け過ぎた。一度様子を見てくるよ」
「そのまま玉座に収まっててくれて構わないぜ」
本気で言ったのだが、アレクシスはそれには答えず、ユーリの手を取ると優雅にその甲に口づけた。
「それじゃあ、また」
「あなたも、お気をつけて」
ユーリの言葉に嬉しそうに笑い、アレクシスは本当にそのまま船を下りて行った。後には彼と、ユーリと、そしてもう一人。
「あんたはどうするんだ?」
長い黒髪を緩やかにまとめた青年は面白そうに笑う。
「私もしばらく一人で街を見てこよう。半月もあればそなたたちも目的地に着くか?」
問われても、目的地の場所をジェイクは知らない。ユーリに視線を向けると、しばらく考えたのち、小さく頷いた。
「多分、それくらいだと思う」
「では、またその頃に」
青年の姿をした竜はそう言って、ユーリの髪に口づけると、静かに船を下りて行った。半月の間、ユーリはともかく、恋敵と竜というこれ以上なく厄介な二人と共に旅してきた。実際のところ、旅の仲間としてはそう悪くはなかったが、それでも突然二人きりで残され、何となく戸惑う。だが、当の彼女の方を見れば、港を見つめ、目を輝かせていた。
「何か面白いものでも見えるのか?」
そう声をかけると、こちらを振り向き、屈託くなくふわりと花が開くように笑う。
「大きな市場があるようだ。行ってみたい」
思えば彼女は少女から女性へと変わる微妙な時期に己の運命を告げられ、ずっとそれを背負ってきた。解放された今、ようやく世界の全てを明るく見ることができるようになったのかもしれない。その頬を両手で包み、顔を寄せる。唇が触れる直前、だがユーリが口を開いた。
「ジェイク」
「何だ?」
「人が」
振り向くと、舷梯の先に人影が見えた。やれやれと内心でため息をつきながらもユーリを背にかばい、剣を抜いて舷梯へと近づく。
「何の用だ?」
「おいおい、そんなもん構えて、えらく物騒だな?」
その声は聞き覚えのあるものだった。フードを取ったその人影に、ジェイクは思わず目を瞠る。
「レンディ? こんなとこで何やってんだ?」
「そりゃあこっちの台詞だ。何だか見覚えのある船があるなと思ってきてみりゃ、本物だ。おまけに別嬪さんも一緒とはな」
にやりと笑う兄貴分に、ジェイクはどう応えたものかと思案する。レンディは幼い頃、ジェイクと同じように船長に拾われた身で、彼が船長の船に乗った時から何くれとなく面倒を見てくれた男だ。長い付き合いで、信頼もできる。
だが、彼は嵐で大怪我をして以来、船から下りた。ここから遠く離れた港——ジェイクが初めてユーリに会ったあの場所——に店を構えたのだ。
「まあ積もる話は後だ。ちょいと相談したいこともある。一杯やりながら話さねえか?」
その表情を探るが、怪しいところはなかった。振り返ると、ユーリは軽く首を傾げていたが、やがて小さく頷いた。
「……わかった」
向き直り、そう告げると、レンディは片眉を上げてニヤリと笑う。
「お前さんがなあ……」
「うるせえ!」
長い付き合いのこの相手に、ユーリの事を説明せずに済ませるのはどうにも無理な話のようだった。
港の管理人に銀貨を渡し、船を任せた後、レンディに連れられてやってきたのは、港に近いそこそこ大きな酒場だった。少し奥まった席を確保すると、酒と料理を手際良く頼む。ユーリはあまり口を開かなかったが、その目を見れば興味を引かれていることは明らかだった。一応フードはそのまま被らせておく。
「ジェイク……暑い」
「我慢してくれ。それでなくても前みたいな厄介事は御免だ」
「過保護だなあ」
面白がるその腹に一撃をくれておく。いつかのように、レンディはただ馬鹿笑いするだけだったが。
それにしても、アンティリカと言えば大国だが、王位継承争いや、そもそも歴代の王が政治に興味が薄かったりしたことで国が荒れていることから、隣国のレヴァンティアやその向こうのターランティアなどと比較してもぱっとしない印象だった。それが今や、この賑わいはどうだろうか。疑問を口にするとレンディは呆れたように笑う。
「そりゃあお前、あの王様が即位してからだな。何しろ放蕩者で有名だった先代が遺言を残さずに死んだってことで、荒れに荒れた王位継承権をもぎ取った男だ。その上、国庫を空にした上に城の宝物をまで売り払って、民に施したってんで、まあ人気は上々だな」
「よく知ってるな」
「商売しにくるんだ、これくらい当たり前だろう」
「商売? わざわざこんなところまでか」
「そのことでちょいと話があってな」
「俺に?」
「というかそっちのお嬢ちゃんだな、どっちかっていうと」
視線を向けられたユーリはきょとんとした顔をしている。ジェイクはさらに嫌な予感がした。
「レンディ、あのな……」
「初恋が実ってよかったじぇねえか、ジャン?」
ニヤリと笑って言われ、ユーリの顔が真っ赤に染まる。度肝を抜かれたのはジェイクも同様だった。当のレンディはそんな二人を眺めてただニヤニヤしている。
「まさか、お前気づいて……⁉︎」
「四六時中あんな熱っぽい眼で見つめてりゃ、そりゃ気づくだろうよ」
「女だと、気づいていたのか?」
ユーリの問いに、レンディは頷く。
「まあな。男と女じゃいくら子供だっていったって体つきが違う。まあこいつも含めて荒くれ野郎ばかりだったから、他の連中は気づいちゃいないようだったが」
「お前、知ってて……」
「お前はちょうど一人部屋だったしな。雑魚寝部屋に交じってるよりは、その方が安全だろうと思ってはいたが、まあ本当に気づいてないとは思わなかったぜ」
呆れたように笑うレンディに返す言葉もない。別れ際に口づけをされてさえ、そんなことに思いも至らなかったのだ。思い込みとは恐ろしい。
「なぜ私だと?」
「見りゃわかるだろう、普通」
当然のように言われ、ユーリがふき出した。最初の船で最も側にいて、再会してから何度も肌を重ねてさえ気づかなかったのだ。そんな事情を察したのか、レンディはもう一度豪快に笑う。
「まあ、灯台下暗しって言うしな」
「うるせえ……!」
膨れっ面で酒を呷るジェイクに、ひとしきり笑った後、レンディが表情を改めた。
「ところでお前こそ、何でこんなところにいるんだ?」
「……予想がついてるんじゃないのか?」
探りを入れると、レンディは人の悪い笑みを浮かべる。だからこいつは食えないんだ、と内心で臍を噛む。とはいえ、ジェイクの知り合いのほとんどが人は良いものの、一筋縄ではいかない連中ばかりなのだが。レンディは笑みを浮かべたままユーリに視線を向ける。
「ジャン……じゃねえよな、あんた名前は?」
「……ユーリ、です」
「ユーリ、あんたアトランティリウムを持ってるだろう?」
「アトランティリウム?」
「宝石だ。光の加減によって色が変わる、まあ珍しい石だな。この国でしか採れない」
「これのことか?」
ユーリは袋からアレクシスから受け取ったアミュレットを取り出す。一度は彼女と彼を救った石だが、流石にもう身につける気にはならなかったらしい。テーブルの上に置かれたその見事な宝飾品を見て、レンディはほうと息をつく。
「こいつは見事なもんだな。これだけ大きな石はそうあるもんじゃねえ」
だが、とレンディはその目に強い光を浮かべて続ける。
「その石は綺麗なだけじゃない。ある秘密があるんだよ」
「秘密?」
レンディはユーリのアミュレットを手に取ると、その中心に嵌められた石をまじまじと見つめる。それからおもむろに自分の懐から小さな布袋を取り出した。その中身をテーブルにざっとあける。それは小さな青い石の欠片のようだった。アミュレットの石とよく似た色をしている。
「これは……?」
「アトランティリウムの小石だ。さて……と」
レンディはその石をひとつずつつまみ上げてはアミュレットの石に近づける。
「何やってんだ?」
「いいから見てろって」
何個目だったか数えるのも飽きてきた頃、レンディの持っていた石がほのかに光った。
「何だ……?」
目を見張ったジェイクに、レンディはその小石を放り投げる。
「耳にあててみな?」
「はあ?」
「いいからやってみろって」
促されるままに、その小石を耳に当てると、不思議な音が聞こえる。風の音のようにも聞こえるが、耳から離すと聞こえなくなるので、この小石が発していることは間違いないらしい。
「一体何なんだ?」
レンディはジェイクから小石を受け取ると、もう一度、アミュレットの石の上にその小石を触れさせる。すると、その小さな小石はさらに強く輝いた。
「これがアトランティリウムの秘密さ。俺も詳しいことはわからんが、ある程度の大きさの結晶を割ると、小さくなった方が大きい方に反応するようになるそうだ」
「それで?」
「一つの石を割って指輪を作って結婚指輪にするのが流行ってるらしいぜ」
なるほど、二人の愛の証というわけか。
「ついた石言葉が『あなたを永遠に離さない』だってよ」
豪快に笑うレンディに、だがユーリはうんざりしたような顔になる。あの王様がその石言葉とやらを知らなかったとは思いがたい。
「話はそれだけか?」
光るのは珍しいが、割った結晶同士が光ってもさほど役に立つとは思えなかった。
「慌てなさんなって。大事なのはここからだ」
そう言って、レンディは短剣を取り出すと、その石の中心に当てた。石は中心から綺麗な断面を見せてぱっくりと割れ、細長い結晶になる。それを拾い上げ細い糸を巻きつけると目の前にぶら下げて見せた。その石はしばらくくるくると回っていたが、やがてぴたりとユーリのアミュレットを指し示した。
「……まさか」
「わかったか?」
どうだとばかりに笑うレンディに、だがジェイクは嫌な予感を覚えた。割った欠片は大きい方の石を指し示す。それは船乗りたちが使うコンパスと似ているように思えた。ただ、北を指さず、特定の場所を指し示す——あるいはその持ち主を。
「まあ、ただ割った石くらいだと相当近づけないと反応しないらしいがな。ただ、ある程度大きな石なら魔法でその範囲を増幅したりできるらしいぜ」
「魔法で?」
「ああ、どう言う仕掛けだかは俺も知らないが、そういう加工屋があるらしい」
「へぇ……」
不意にユーリが立ち上がった。アミュレットを掴み、外に向かって歩き出す。慌ててその腕を掴んだが振り払われた。そのまま後ろを振り向かず、店を出て行ってしまう。
「おい、ユーリ!」
「どうしたんだ?」
「わからねえ……が、とにかくまた後でな」
「おうよ」
酒代として幾らかの銀貨を放り投げると、店を飛び出す。ぎりぎり雑踏に紛れる前にそのフード姿を捉えた。
「ユーリ!」
腕を掴むと、こちらを静かに見上げてきた。その険しい眼差しははっきりと怒りを宿している。ユーリは口を開かず、そのまままた歩き出してしまう。どうやら港を目指しているらしい。どうにもその雰囲気に圧され、ジェイクはただその後ろをついていくしかなかった。
港につくと、ユーリは人気のない桟橋の先まで歩いていく。そこでようやくジェイクを振り向くと、剣を貸して欲しいと言った。
「剣を? 何でだ?」
だが、ユーリは答えない。ただ、その瞳にはまだ何か激しい感情が浮かんでいた。やれやれと内心でため息をつき、ジェイクは剣を抜いて柄を差し出した。ユーリは受け取ると、先ほどのアミュレットを艀の板床に置き、切っ先をそこに突きつけた。力を入れると、中心に嵌められた宝石は粉々に砕けた。
それでもユーリは何度もそれを細かく砕くと、剣を置いてその粉々に砕けた欠片を両手ですくいあげ、海へ振りまいた。そうして、その欠片が沈んでいく様を厳しい瞳で睨み付けていた。
全ての欠片が海へと沈むか波にさらわれて見えなくなっても動かないユーリを横目に剣を拾い上げ、それからその顔を覗き込む。
「気は済んだか?」
答えはない。何か激しい感情が渦巻いていて、持て余しているように見えた。
剣を鞘に収め、その体を抱き寄せた。ややして、その手がジェイクの胸元を掴む。
「アレクシスは、あれを贈り物だと言っていた。でもそうではなかった」
ユーリはジェイクの胸元で、指が白くなるほど拳を固く握りしめている。
「私を監視するために持たせていたんだ。だから、彼はあの島にも現れた」
「あんたが心配だったんだろう」
「私は彼のものじゃない。首輪を付けられる謂れはない!」
その目は怒りに燃えていた。彼女は全て覚悟の上で、精霊の導きのみを頼りに故国をたった一人で旅立った。誰にも縛られず、誰にも助けを求めず。なのに、アレクシスはその居場所を常にその石によって知っていたことになる。
それは、誇り高い彼女にとっては許しがたいことだったのだろう。だが、それほどにアレクシスの執着は強いのだと改めて実感する。アレクシスは、旅の間中、ひたすらにユーリに献身的だった。彼女を救うためにありとあらゆる助力を惜しまなかった。竜の島からかつての王国へと渡ったときには、その闇に囚われたが、それでもぎりぎりで彼女を守ることを選んだ。
その想いに嘘はないはずだ。だからこそ、彼女の運命が解放された今、アレクシスがどう出てくるのかが気にはなる。だが、それを今思い悩んだところで仕方がないだろう。
握り締めた拳をそっと開かせ、その手のひらに口づける。
「あんたが剣を握る必要はない。そういうことは俺に任せてくれ」
「そうはいかない。私だって必要があれば剣だって握る。あなただけを危険な目に合わせたくない」
そう告げる眼差しは決然として揺らがない。そういうところも、彼を惹きつけてやまないのだと改めて思う。
「まったく、あんたって人は……」
ため息をついてから、その頬に手をすべらせると、くすぐったそうにして、ようやく表情を和らげた。
「ジェイク……」
「惚れた女は守ってやりたいし、そうやって笑ってて欲しい。男なんてそんなもんだぜ?」
「そうなのか……?」
「ああ」
首を傾げるその姿に、低く笑って腰を引き寄せてしっかりと抱きしめる。その体は柔らかく、やはり細く頼りない。剣を扱えるのは知っているが、本来誰かを傷つけたり戦ったりするようなタイプではないのだ。叶うならば、どこか安全なところに閉じ込めてしまいたい。そんな自分の欲望をはっきりと自覚し、顎をすくい上げて口づける。
長い口づけを終えて解放すると、ユーリは目元を染めて肩で息をしていた。その表情だけで、心臓が跳ねた。そういえば、二人きりになるのは本当に久しぶりだった。
「今夜は長くなりそうだな」
ニヤリと笑うと、ユーリはさらに顔を赤くして身を引こうとしたが、ジェイクには逃す気などさらさらなかった。
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