後日譚 ~After storm~

0. 承前

「こちらへ」


 慇懃いんぎんに案内する衛兵の後を黙って歩く。この壮麗な宮殿は、何代か前の王が建てたものだと聞いたが、華美な飾りは先代の浪費を埋めるために大半がはぎ取られて売り払われ、長い回廊にも見事な石造りの柱と壁くらいしか残っていない。だが、それも現在の若き王の気質をそのまま表しているようで、彼にはむしろそちらの方が好ましく感じられた。


「この先は、お一人で、とのことです」


 大きな扉の前で、ここまで案内してきた衛兵たちは立ち止まり、彼に一人で入るよう促す。信頼されているのか、それともそれほどまでに自信があるのか。後者であろうことは予想がついていたので、そのまま素直に扉を開き、中へと進む。どうやら執務室らしいその大きな部屋の奥で、彼を呼び出した人物は窓際に立ち外を眺めていた。


「わざわざのお呼びたて、何かございましたか?」

「久しぶりにあなたにお会いしたくなって」


 にこり、と笑うその表情は穏やかで屈託がない。まだ二十代の半ばを過ぎたばかりだが、多くの競争相手をねじ伏せ王位を手にした目の前の若者はその穏やかな容姿からは想像もできないほどの切れ者だ。そう知っていればこそ、その笑顔は曲者だった。

「旅に、出ようと思います」

 唐突な言葉に、日頃滅多に冷静な表情を崩さない彼も思わず目を見開いた。相手は真剣な表情でそのまま言葉を続ける。

「ですので、あなたに宰相位をお願いしたいと思います。レヴァンティア公爵、アドリアーノ殿」

「冗談にしては笑えないようですが」

「私としても、もう少し時間が欲しかったのですが、彼女はもう行ってしまったので」

「たかが一人の娘のために、国をまた混乱におとしいれるおつもりですか?」

 規模は違えど、同じく民の生活を預かる身としては、承服しかねる態度であった。それなりに目をかけてきた相手であればなおさらに。冷ややかな眼差しを向けられた青年は、だが怯むどころか、むしろ彼以上に酷薄な笑みを浮かべる。

「私にとって、彼女以上に大切なものはありません。ですが、この国が荒れればあなたの、そして彼女の国にも災いをもたらす。ですから、あなたにお願いしているのです」

「私が承服するとでも?」


 小さな公国の公爵が隣国の宰相を兼ねるなど、どう考えても無茶な話だ。まして国はようやくまともな王を得て落ち着いたばかり。ここで王が国を空ければまた波乱が起きるなど自明だった。


「そうおっしゃるだろうと思って、準備をしておきました」


 そう言って、青年は机の上の地図を示す。そこには彼の国を含めた周辺国が細密に描かれていた。いくつかの場所に、アトランティリウムと呼ばれる、この国でしか採れない希少な石が置かれている。そのどれもが、彼の国の周辺と、外海へ出るための海路に点在していることに、気づかないわけにはいかなかった。

「もう、おわかりですね?」

「いったいいつの間に……」

「あなたに気づかれずに事を進めるのはなかなかに難儀でした」

 にこりと笑うその表情には邪気はないが、その眼差しは強い光を浮かべている。

「私が宰相位を承諾した場合の条件は?」

「私の不在中にあなたの国へ侵攻しないこと、あなたの国の船が外海に出るのを妨げないこと」

「それだけですか?」

「そして、私が帰還した際には、あなたの娘を王妃に迎えること、です」

 やはり、と彼は気づかれぬよう、静かに拳を握り締めた。たった一人の娘を手に入れるために、この王はこれだけの周到な用意をしたのだ。

「……無事に戻ってくるとお思いですか?」

「何があろうとも」


 決意は固い。だが、この青年の想いがどうであれ、彼の娘は自分で運命を選び取ると決めているようだった。であれば、もし、戻ってくることができたとしても、その申し出を受け容れることはないだろう。本人もそれはわかっていると思っていたのだが。


「……もしお断りした場合は?」

「今すぐ兵を動かします」

 明るい緑の瞳に浮かぶ光は真剣だった。目の前の青年が玉座を手にするまで、ありとあらゆる手を尽くした事を彼は知っていた。目的のためなら犠牲を払うことさえも躊躇わない。

「そんなことをして、娘が許すとお思いですか?」

「その前に、あなたは決して民を見捨てないでしょう?」

 読まれている。そして、娘一人と民の命を秤にかけた時、彼がどちらを選ぶかも。内心で一つため息を吐いてから、静かに見つめ返し、頭を下げる。

「わかりました。なるべく早い無事のお帰りを願っております」

「私も、そう思います」


 あれから数ヶ月。待ち望んだ知らせが届くなり、彼は王国から自国へと急ぎ帰国した。ついにその時がきてしまったのだ。本来はこれ以上ない喜ばしいことだというのに。

「さて、どうしたものかな」


 青く澄み渡る空と、美しい港を眺めながら、だが彼は、不敵に笑ったのだった。

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