終章: 海の王と風の娘
夜明けの前の空は晴れ渡り、心地よい風が吹いている。舷梯を渡り、ゆっくりと舵まで歩く。ほんの数日離れていただけのはずなのに、舵を握ると何だか懐かしい気がした。
「竜に、精霊に、闇の化け物、なあ……」
口に出して呟いてみても、実感がない。自分が対峙した数々のものを誰かに話しても信じてもらえないだろう。ジェイク自身も同じ船乗り仲間からそんな話を聞かされたとしても、鼻で笑い飛ばすに違いない。
あれから十日ほどが経った。思っていたより戦いで負った傷が重く、竜の島に戻った後、不覚にも倒れて数日間昏睡状態に陥っていたらしい。闇に呑まれたアレクシスも同様で、枕を並べて——というわけではないが、数日間仲良く倒れていたというわけだ。ただの外傷というよりは、闇の瘴気に当てられたのが大きかったようだ。
「情けねえなあ……」
ユーリを追って島を囲む凄まじい嵐を越え、竜の島にたどり着いたとき、既に彼女は発った後だった。一人で行かせた竜にも腹が立ったが、何より一人で行ってしまうユーリ自身に頭を抱えた。結局のところ彼女はほぼ一人で闇と対峙し、あの呪われた大地をも浄化してしまった。守ってやるなどと言ったわりに大したことはできなかった。
「まあ、終わり良ければ全てよし……か」
「何が終わったんだ?」
不意にかけられた声に目を向けると、真昼の海のような双眸が穏やかにこちらを見つめていた。元々どこか儚げな雰囲気だったが、今こうしてみれば、どこかその気配が以前よりも明るいような気がする。
「何だろうな?」
招き寄せると、素直に身を寄せてくる。抱きしめると、柔らかい体から体温が伝わる。ほのかに香る花の香りは竜の島でついたものだろうか。
「あんたは体はもういいのか?」
「もともと大したことはない。あなたの方こそ……」
そう言って、頬に触れてくる。それから、左腕に。袖をまくると、そこには闇の触手が巻きついた痕が赤黒く残っている。最初の数日はほとんど感覚がなく動かせなかったが、今はだいぶ動くようになってきている。ユーリはその手を握り、抱くように額に押し付ける。
「すまない」
「何を謝ってるんだ?」
「巻き込んで……怪我まで……」
俯くその顎をすくい上げる。抑えた表情の奥で、瞳だけが今にも泣き出しそうに揺らいでいた。そんな顔をする必要はないのに、と思う。ユーリが竜に攫われた後、幾度もの嵐に見舞われながら竜の島に辿りついて、彼女が既に去った後だと知ったときの絶望感に比べれば、傷を負うことなど何ともなかった。
「ようやくあんたは呪いを断ち切ったんだ。そんな顔するな」
そのまま深く口づける。ゆっくりと角度を変えて、何度も深く、この想いが伝わるようにと。唇を離すと潤んだ眼でこちらを見上げてくる。そのまま全てを奪ってしまいたい衝動を何とか抑え込んでニヤリと笑って見せた。
「そんな顔してると、攫っちまうぞ」
「ジェイク……」
切ない声に、柔らかな体をもう一度しっかりと抱きしめると、自分でも思っている以上に手放したくないという欲が湧いてくる。嵐の呪いは解けた。彼女を縛るものはもう何もない。一緒に世界を見せてやりたい。公爵家の娘だという身分が邪魔をするなら、攫ってしまいたいと半ば本気で思う。
「なあ、あんたはどこへ行きたい?」
「……あなたと一緒なら、どこへでも」
花がほころぶように笑う。ためらいのない答えに、情けないほどに喜んでいる自分を自覚する。だが、気がかりがないわけではなかった。
「国へ、戻らなくていいのか?」
「戻ったところで、歓迎されるかどうかわからないしな……。ただ、呪いが解けたことを伝えないと、百年後に娘が生まれた時にまた悲劇が起きそうだな」
急に思案顔になったユーリになるほどと頷く。ここ数百年は自発的に娘たちが去ることによって、嵐が襲うことはなかったとのことだが、次にまた同じことが起きないとは誰にもわからない。罪のない娘が百年後に同じように国を追われるようなことだけはあってはならないが、呪いが解けたと伝えたところで、数百年続いた悲劇と因縁をそう簡単に払拭できるだろうか。しばらく考え込んでいたユーリは急に、いいことを思いついた、と顔を輝かせた。
「ヴェトリアクラムに証書でも書いてもらうのはどうだろうか」
「……あんたも大概不遜だな」
太古の竜相手に、借金取り並の扱いだ。
「もっといい考えがある」
割って入った声に驚いて振り返ると、背の高い青年が立っていた。黒地に青の糸で複雑な文様が縫い取られた長衣を身に纏い、青みがかった真っ直ぐな黒髪をゆるく腰のあたりで結えている。眼は、ちょうど今の空を映したような藍色をしている。
「私がついていって、直接説明してやろう」
「まさか、ヴェト……?」
「そう呼ばれるのは随分久しぶりだな」
唖然とするユーリに、青年は面白がるように笑う。その声に、確かに聞き覚えがある気がした。すらりとした姿は人間の青年にしか見えないが、その気配はどことなく老成した感がある。
「本当に竜、なのか? 人間の姿になれるなんて聞いてねえぞ……」
「もしかして、あの時の手当ても着替えも、その姿で……?」
「言っただろう、他におらぬと。それに、魔法でできることなど限られている」
腕の中のユーリが何となく気まずげに身じろぎした。視線を向けると、ほのかに頬を染めている。何だか嫌な予感がした。
「……ユーリ?」
「いや、ただの治療だし……」
「乙女の柔肌というのはいいものだな」
面白がるように投げられた言葉に、ジェイクだけでなくいつの間にかすぐ後ろに立っていたアレクシスも唖然とした顔をしている。
「竜にまで好かれてしまうなんて、実にあなたらしいけれどね」
呆れたような呟きに、だが竜は薄く微笑む。
「もはや気にする必要もないほど、血もだいぶ薄まった頃だろうからな」
主語も何もない曖昧な呟きに、だがユーリだけがはっと目を見開いた。それからまじまじと青年となった竜を見つめる。
「もしかして、レヴァンティアは竜の血を引いていたのですか?」
「何……?」
「黒い髪に、藍色の瞳。あなたたちはよく似ている気がする」
「レヴァンティアってあんたの国の名前だろう?一体……」
「そうか、そなたはあの場で会ったのだな」
竜は少し寂しげに笑うと、彼と初代公爵との縁を語り始めた。
かつてこの世界には多くの竜がいたこと。彼にも眷属である者たちがいたこと。そのうちの一人がどういうわけか人間と恋に落ち、子までなしたのだという。
「あの王国の魔術師の多くは竜の末裔だ。精霊とは本質を異にするが、それが故に使役することができたのだ」
「ってことは、嵐の呪いも元を正せば……」
「まあ、我らに関係がある、と言えなくもないがな。だが、数千年に渡る因縁を全て数え上げたら、ありとあらゆることが繋がってしまう」
「……そりゃそうか」
「だがまあ、レヴィは確かに色濃く私たちの血を受け継いでいたようだ」
レヴィ、と呼ぶその響きには確かにただの友人に向けるにしては親密すぎるように感じられた。
「あんたはその……」
「全ては過去の話だ。彼女はもうどこにもいない」
そう言ってユーリに歩み寄ると、その顎をすくい上げる。
「そなたの勇敢さ、高潔さは好ましい」
真っ直ぐな眼差しと言葉に、ユーリが明らかに驚いているのが伝わってくる。だが、それでも一呼吸おくと、彼女は柔らかく微笑み返した。
「ありがとうございます。あなたの助力がなければ、あなたがジェイクをあそこに導いてくれなければ、きっと私は成し遂げることができなかった」
「そなた自身の行動の結果だ。理性も感情も全て後回しにして、行動が先走るところは、本当によく似ている」
そう言って、竜はユーリの額に口づけると離れていった。結局は庇護、ということなのだろうか。複雑な感情が表情に出たのか、竜はこちらを向いてもう一度薄く笑う。
「人の恋路を邪魔する趣味は持たぬが、そなたがその娘を傷つけるようなら、容赦も遠慮もせぬよ」
穏やかな声で、だが眼差しだけは確かに恐ろしげなそれで、ジェイクはただため息をつく。そんな彼に竜は笑って、そういえば、と話を続ける。
「準備ができているならそろそろ出発するとよいだろう。いまは落ち着いているが、間も無くこの島はまた嵐に包まれる」
「あれはあんたの力じゃないのか?」
「始終嵐を起こすような面倒なことはせぬよ。ここはそういう島なのだ。故に隠棲にはちょうどいい」
どうにも人間くさい台詞だが、本音のようだ。やれやれと一つため息をついてから、ユーリを見ればどこか遠くを見つめている。
「大丈夫か?」
声をかけると、はっと我に返ったように頷く。
「いろいろなことが起きるな、と思って」
「違いない」
頷いて見せたが、どうも上の空なのは竜からの好意だけが理由ではないらしい。ふと見やると、アレクシスも何かを考え込む様子だった。
「ところでアレクシス、あんたはどうするんだ?国に戻るなら、送っていってやるが」
「そうだね。頼もうかな。だが、レヴァンティア公国の港には、君も入りづらいんじゃないのか?」
「そういえばそうだな」
「……?」
不思議そうに見上げてくるユーリに肩を竦める。
「あんたの故国は名の知れた海洋国家だろう。自分たちの船団を持っていて、基本的に交易は自分たちの国の船だけでやってる。ついでに言うとあんたの国は海賊たちに厳しいし、俺たちみたいなならず者の船は港に入ることさえ基本的に許しちゃくれないんだよ」
「でも、あなたは海賊ではないだろう?」
「まあな。だが見方によっちゃ、似たようなもんだ」
レヴァンティアの商船団は船乗りたちの間でも有名だ。数十隻のガレー船と帆船で構成され、よく統率されており、交易品の質も高い。だが、ジェイクたちがよく身を寄せる、自由な交易を旗印に掲げる港街を要する国とは折り合いが悪いのも事実だった。どちらかというとならず者の多いその国の船乗りたちは、時にレヴァンティアの船も襲うため、その国の港に出入りする船は十数年前からレヴァンティアへの入港を禁じられている。
「まあ考えてても仕方ねえ。とりあえずアンティリカの港に行くか。あそこなら何度も行ってるし、何より王様がいるわけだしな」
「堂々と帰るのもどうかと思うけれどね」
それでもアレクシスは反対しなかったので、とりあえず荷をまとめて出航することになった。
「そういえば、リィンのやつはどこに行ったんだ?」
戻ってきてから一度も姿を見ていないことを思い出し、ユーリに尋ねたが首を振るばかりだった。だが、アレクシスは不思議そうに声を上げる。
「そこにいるだろう?」
彼が指さしたのはマストの上付近だったが、そこには風が吹いているばかりだった。ユーリもまた首を傾げている。
「もしかして、私にしか見えていないの……か?」
「あんた、疲れてるんじゃないのか?」
からかうようにそう言ったとき、頬を鋭い風が吹き抜け、浅い切り傷を残していく。
「……っ!」
「ジェイク!?」
見上げた先には、やはり誰もいない。だが、どうやら確かにそこに何かが「いる」らしい。
「あの時、リィンは私を救うために指輪を外したんだ。それで元の姿に戻ったんだが、どうして私にしか見えないんだ?」
心底不思議そうに首を傾げるアレクシスに、思わずジェイクは深いため息をつく。アレクシスからすればこの旅がほぼ初対面だったのだから、それも仕方ないのかも知れないが、リィンの泣く姿を見たジェイクからすれば、その理由は火を見るよりも明らかだった。
「……あんたも大概だな」
だが、その理由に気づかないのは、どうやら本人だけではないらしい。離れたところで竜だけが笑っていた。
帆が大きく風をはらんで海へと漕ぎ出していく。アンティリカへはまた半月ほどの船旅になるだろう。今回は竜も精霊もついているし、難儀な旅にはならないと信じたいところだが。舵を握り、そんなことを思いながら空を眺めていると、ユーリが身を寄せてきた。甘えるように背中に擦り寄ってくる。珍しいその様子と、回された両腕と背中に触れる柔らかな感触に、思わず男の部分が反応する。そういえば、結局攫われたあと、再会してから一度も彼女と二人きりになる機会は巡ってこなかった。さらに言えば、しばらくはやってこないだろう。
「頼むから俺を煽るなよ」
「……どうして?」
「恋敵の王様と竜と、ついでに小うるさい精霊がいるそばであんたを抱けるほど、俺も豪胆じゃないらしい」
言いながらも腰に手を回して引き寄せると、胸元に頭を寄せてくる。細く白い首筋が眩しい。
「海の女神に嫉妬されそうだな」
「女神なのか……?」
「俺の国の伝説ではな。あんたの国では違うのか?」
「私の知っている伝説では、雄々しい男神だな。黒い長い髪をなびかせ、船を駆って風と海を統べる」
真っ直ぐな眼差しは何よりも雄弁に彼女の想いを伝えてくる。柄にもなく、どうしたものかと戸惑っていると、白い柔らかな両手が彼の頬を引き寄せ、唇を重ねてくる。
「私にとっては、あなたが海の王だ」
それまで見たこともないほど、ふわりと満面の笑顔を向けられ、ジェイクは今度こそ内心で白旗を上げた。そうして決意する。
「なら、あんたを攫っても誰にも文句は言われないな」
風と竜に愛された娘と、海を愛する自分と。きっとその旅はどんな困難に遭うとしても、面白いものになるだろう。
「厄介事に巻き込まれても……?」
「あれ以上の厄介事がそうそうあるとは思えないがな」
たとえそうだとしても、望むところだ、と笑って強く抱きしめ、誓いの代わりに深く口づけた。
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