24. 変わる世界で

『すまなかった……』

『謝罪をするなら、私にではなく、彼女たちにだろう』


 不機嫌な声に目を開けると、白く霞む視界に、二人の人影が見えた。


『それに、あなたが……いや、私たちがどれほどの犠牲を彼女たちに強いたか……。謝罪など無意味だろう』

『ならば、なぜ私が消えるのを止めたんだ?』

『言っただろう。私たちの業のために、大地を永遠に呪われたままにするわけにはいかない』

『……どこまでも君は為政者というわけだ』

 呆れたような口調は、それでも愛おしさを隠そうともしていない。優しく抱き寄せようとしたその腕は、だが厳しい視線で阻まれる。

『あなたもそうあるべきだった……! 失われた数多あまたの命は、私とあなたの責任だ』

深い苦悩の声に、青年はただ頷き、今度こそしっかりと相手を抱きしめた。

『わかっている。全ては私のとがだ。君が負う必要はない。今度こそ私の名に誓って、私と眷属たちは永遠にこの地と君の大切な者たちを守護すると誓う』

『……信用できない』

『そう言うと思ったよ……』

 青年は苦笑して、白く輝く結晶を取り出した。

『精霊王なんてもうこりごりだからね』

 彼はそう言うと、結晶を両手に包み込むと何事かを呟く。ややしてそれは強い光を放つと、粉々に砕けてしまった。

「な……っ⁈」

 思わず声を上げた彼女の方を、二人が振り返る。

『ああ、そこにいたのか』


 青年はこちらに歩み寄ると、ユーリの手を取って立ち上がらせた。間近に見るその顔は、竜が語った通り恐ろしく端正で美しく、そして何よりどこか軽妙な雰囲気は誰をも惹きつけてやまないだろうと思われた。


『君のおかげで救われた。こんなことを言われても嬉しくも何ともないだろうが、深く礼を言う。私だけでなく、この大地も、そして何より私の愛する人の憂いを払ってくれたことに』

 屈託のない笑顔が眩しい。隣に立つレヴァンティアもほっとした表情をしている。だが、ユーリ本人からすれば複雑な気分だ。別に二人の愛のために命を賭したわけではない。彼女も、歴代の贄となった娘たちも。その想いを感じ取ったのか、レヴァンティアは深いため息をつく。

『……だから言っただろう』

 だが、かつての精霊王はただ肩を竦める。

『つれないところは君にそっくりだな。だがまあ、くどくどと言い訳したところで許されるものではないだろう。私の力の大半は風と大地へと還った。今後私に何かがあったとしても、それはこの地とは無縁だ』

 あとは元の気ままな風の精霊として生きるだけだ、とあっけらかんと言う。何だかやりきれない気分ではあったが、これ以上亡霊や精霊に付き合っていても仕方がない。

「私は元の世界へ戻れるのでしょうか?」

『戻れない、なんて言ったら私は今度こそ、ヴェトリアクラムに消滅させられるよ。彼は君のことが気に入っているようだからね。気をつけるんだよ』


 ——竜は存外、情が深いからね。


 笑って告げられたその言葉の真意を問う間もなく、再び視界が曖昧になっていく。強い風が彼女の体を包み、思わず目を閉じる。そうして目を開けた時には、世界は一変していた。


 そこは鮮やかな緑の草原だった。若木がいくつかある他は、高い木はないが、生命の息吹に満ちている。すぐそばに見える泉からはこんこんと澄んだ水が湧き出ている。空は青く、雲ひとつない。風が爽やかに吹き抜ける。闇も嵐もまるで何事もなかったかのように。

 背後でザッザッと草をかき分ける足音がした。確かな予感と共に振り返る。


「……無事だな?」


 低い声は笑みを含んでいる。座り込んだまま見上げたその姿は、最後に見た時よりもさらにあちこち傷ついていた。言うべき言葉を見つけられない彼女を、ジェイクはさも当然と言うようにその腕を掴んで抱き寄せた。そのまま深く口づけられる。

 微かな潮の香りと血の匂い。それはあの戦いが幻でなかったことを思い出させるが、それ以上に性急な口づけは彼の想いを真っ直ぐに伝えていた。唇を離すと、間近に灰色の眼がこちらを見つめてくる。その頬や額にはまだ新しい傷が生々しい。そっと触れると、ジェイクはわずかに顔をしかめた。


「痛む……?」

「大したことないさ。あんたこそ、綺麗な顔に傷がついちまったな。腕や、脚にも……残らなけりゃいいが」

 痛ましそうにユーリの頬にそっと触れる手つきは優しい。

「痕が残ったら、貰い手がつかないかもしれないな」

 冗談まじりにそう言うと、目の前の灰色の双眸が剣呑な光を浮かべた。何やらぞくりと背筋が震える。

「……なるほど、嵐の呪いは解けた。だからもう『契約』は終了ってわけか?」

「ジェイク……?」

「あれだけ俺を振り回しておいて、逃げられると思ってるのか?」


 それまで見たこともないほどに、強い眼差しに思わず腰が引ける。腕を掴まれて身動きが取れない。それでも思わず見惚れている自分を自覚する。ああ、この人が好きだ、と。

 最初は一目惚れだった。それから、粗野に見えて相手のことを深く思いやる優しさを知ってさらに惹かれた。幼い恋と言われればそれまでだが、もう一度出会ってから、さらに惹かれた。どうせ先の見えない運命ならと何でもできる気がした。だが、その運命はどうやら回避されたようだ。


 むしろ、戸惑っているのは自分の方なのだ、とようやく気づく。

「……ったく、何て顔してるんだよ?」

 不意にジェイクは相合を崩し、額に口づけてくる。その暖かな感触に思わず本音が漏れる。

「……だって、あなたの世界は私よりもずっと広い。齢だって随分上だろうし、あなたを慕う女性だってたくさんいるだろう」

 海賊の島で見た女たちは皆、ジェイクに熱っぽい眼差しを送っていた。街を歩いていれば声をかけてくる女性も多かったし、港々に彼を待つ女性がいるというのもあながち冗談とも思えない。長い航海を繰り返す船乗りほど、女たちを必要とするものだと彼女は様々な書物で読んで知っていた。

「……ようやく、あんたも普通にそういうことが考えられるようになったってことか」

 呆れたように笑って彼女を抱き寄せると、ジェイクはその場に腰を下ろした。柔らかな草の感触が心地よい。肩を抱く腕から熱が伝わる。


「いいか、あんたはもうあんたが望まない場所へなんて行く必要はないんだ」


 耳元で囁く声は低く、そして優しい。

「行きたい場所へ、どこへだって行ける。俺が連れて行ってやる。それが気に入らないってなら、俺がどこまでもあんたについていく」

 できれば船の上がいいがな、と付け加えて笑う。

「……どうして……?」

「……ああ?そんなのあんたが一番よく知ってるだろう?」

 ニヤリといつもの笑みを浮かべたジェイクに、気がつけば押し倒されていた。

「惚れた弱みってやつだ」

 首筋に噛み付くように口づけて、今度ははっきりと熱を宿した眼差しを向けてくる。

「だいたい、何で俺がこんなところにいると思ってるんだ?どうでもいい女のために、命懸けで竜の島にたどり着いた上に、何だかわからない化物に挑むほど、お人好しに見えるのか、俺が?」

「見えな……くもない」

「あのなあ……」


 突然現れた少女のために、嵐を越え、海に飛び込み、竜と対峙して、さらにかつて精霊王だった闇と戦う——そんなお人好しで勇敢な船乗りは他に知らない。


「まあ、言っといたよな。説教と他にもいろいろ……ってな」

「……こんなところで?!」

「誰もいやしねえよ」

 本当にそのまま胸元に伸びてきた手を慌てて押さえる。向けられる表情は既に男のそれで、はっきりと欲を滲ませる声は蕩けるように甘い。

「ジェイク……!」

「何だ?」

「その……できれば、せめて寝室が……」

 いい、と最後は声にならなかったが、ジェイクはやれやれとため息をついて身を起こした。よっこらせと、妙に年寄りくさいセリフと共に立ち上がると、ユーリに手を差し伸べてくる。その手を取って立ち上がると、間近でニヤリと灰色の瞳が悪戯っぽい光を浮かべて笑う。

「あとで、覚悟しておけよ」

 低い声で囁かれ、ユーリの心臓が跳ねた。しばらくは、この新しい状況に慣れそうになかった。



『彼でいいのかね、本当に』

『彼でなければ、あの子は成し遂げられなかっただろう』

『ふうん』

『どうにも厄介な相手に惚れてしまうのは、血筋かな』

 レヴァンティアは苦笑して肩を竦めたが、彼はただ優しく笑うばかりだった。その頬に触れる。今は互いに存在が曖昧なままだから触れることもできる。だが、それも長くは続かないだろう。

『どうして、君はここにいるんだ?』


 今更のように、セフィーリアスが問うてくる。そう、彼女は既に遥か昔に死んだ身だ。死の間際、会いにきてくれた竜の友に、彼女の死後も遥かに長く生きるであろう精霊の伴侶を見守るよう頼んだ。それは深い意味はなく、ただ、同じように長い時を生きる友として、時折気にかけて欲しいとその程度のことだったのだが、おそらく、それが彼女をこの世につなぎとめた一つの鎖だったと思う。


 それは竜の友の予感だったのかもしれない。微睡から覚めた彼女はいくつもの悲鳴を聞いた。彼女が覚醒したときにはすでにセフィーリアスは正気を失っており、嵐の呪いによって彼女の子孫たちは危機にさらされていた。だが、亡霊となった彼女にできることは何もなかった。ユーリがセフィーリアスの元にたどり着くまで、ひたすら待ち続けることしかできなかった。


『きっと、この日のために』

『私のせいなんだな』

『まあ、そういうことだな』

『もう少し、ここに留まって欲しいと、願ってはいけないのだろうな?』

『私が本当に悪霊になることを望まないのなら、な』

『君なら立派な魔王になれそうだ』


 軽口を叩きながらも、セフィーリアスは切ない眼差しを向けてくる。長い時を見守ってきた。それはただひたすらに辛い時だった。せめてもう少しだけ二人でいられればと彼女とて願わないわけではない。

 だが、もう時は残されていないようだった。彼女の周りから光が溢れ出す。わずかに残っていた生命のかけら——おそらくは竜の友が分け与えてくれたもの——はセフィーリアスを浄化するために使い果たしてしまったのだ。


『セフィーリアス』

『何だい?』

『どうか、自由に生きて』

 もう見守る必要もない、竜の友も精霊の伴侶も、「見守って欲しい」というただそれだけの彼女の言葉に縛られてしまっていた。

『私はもうお役御免かい?』

『私が何かを頼むと、厄介事を引き起こすようだからな』

『違いない』

 セフィーリアスはただ笑う。

『もう一度会えるだろうか?』

『いや』

『つれないね』

『言っただろう、もうあなたを縛りたくないんだ。私が消えても、私はずっとあなたを想っている。けれど、あなたはあなたの思うように生きて欲しい』

『私の思うように……ねえ。じゃあ、しばらくはあの子たちを見守っていようかな』

 それでは同じことの繰り返しだ……そう言いかけたところを、口づけで塞がれる。

『誰も私を縛ることはできない。私の心は永遠に君と共にある。これは私の望みなんだ』

 大丈夫、二度と同じ轍は踏まないと、それだけは真摯に告げる。その誓いを受け容れ、そっと口づけを返す。

『セフィーリアス、愛している』

『私もだよ、レヴァンティア……どうか安らかに』

 長い長い時を経て、ようやくもう一度眠りにつくことができそうだ。目の前の相手に微笑みかけ、それから眼下に広がる緑と、若い恋人たちを見下ろし彼らのために祈る。


 ——どうか皆、幸せに。


 その祈りと共に、彼女の意識は溶けていった。

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