22. 対峙

 踏み込んだ先は真の闇だった。樹のうろであれば、すぐに突き当たるはずなのに、恐る恐る進んでも壁らしき感触はない。やがて後ろの光も遠くなり、まったく視覚が役に立たなくなったところで、ユーリは見ることを諦め、かと言って何が起きるでもない状態にいつまでも緊張してもいられず、ひたすら歩みを進めた。竜は長旅にはならないと言っていた。であればどういう仕組みなのかはわからないが、そう時間はかからず目的地に着けるのだろう。本人が思っている以上に、彼女の血筋は楽観的であるようだった。


 そうしてどれほど歩いたのか、時間の感覚がわからない中、気がつくと先に光が見えた。出口にたどり着き、そこに広がる光景を見て、ユーリは思わず絶句した。


 そこはかつて精霊が共に住まうほど美しい自然や街があったとは到底信じられないほどに荒れ果てていた。灰色の土と岩ばかりが広がっており、わずかに残る泉は一目で飲めぬとわかるほどに淀んでいた。夜ではなさそうだが、あたりは暗く寒々しい。

「さて……どうしたものかな」

 目的地に着いたようだが、手がかりがない。途方に暮れかけたとき、腰の剣が鞘の隙間からわずかに光を放っているのに気づいた。抜き放つと、真っ直ぐに天に向かって一筋の光を放った。それはまるで光の柱のようだったが、とてつもなく嫌な予感がした。

「ご先祖様のように勇敢になりたいとは言ったが……」

 その光に引きつけられるかのように、あたりに闇の気配が満ちる。かつて見たそれと同様に空が錆びたように赤く染まっていく。轟々と風が唸り始め、やがて沸き上がった闇の中から一人の人影が現れる。その姿を見て、ユーリは再び絶句した。


 長い薄茶の髪に、深い緑の瞳。背の高いその姿は見慣れたもので、だが、その眼差しに浮かぶ光は明らかに異質だった。

「アレクシス……様?」

「待っていたよ、ユーリ」

 にこり、と微笑むその表情は確かに記憶にあるものと同じなのに、背筋が粟立つのを感じた。思わず後ずさると、目の前の青年は意外そうに首を傾げる。

「どうしたんだい?」

「……どうしてここに……あなたは一体……?」

「私は私だよ。ただ、ずっとあなたを愛し、求めてやまない、ね」

 そう言いながらこちらに手を差し出し、一歩踏み出してくる。同時にその全身から染み出すように闇の気配が溢れ出た。とっさに剣を構える。アレクシスはぴたりと歩みを止め、こちらをじっと見つめる。

「私に剣を向けるのかい?」

 切なげな眼差しは幾度も向けられてきたそれで、ユーリはずきりと心が痛むのを感じた。彼の想いは知っていた。けれど、だからと言ってはいそうですかと受け容れられるようなことでもなかった。

「私は……あなたの想いがどれほど深いか、今は知っている。けれど、私にはやるべきことも、そして、私自身の望みもあるんだ」

 毅然と背筋を伸ばし、そう告げる。それは、アレクシス本人にも何度も告げてきたことだった。彼の想いを知って、その想いが真剣だとわかるからこそ何度拒否しても、彼は諦めようとはしなかった。

「その望みを果たしたいなら、私を斬って進むんだね」


 微笑んでそう告げるアレクシスの静かな眼差しは、彼女のよく知ったものだった。だが、だからこそ、怒りがふつふつと沸いてくる。何がそこまで彼を追い詰めたのかは知らない。けれど、彼は己の背負うものの重さを知っているはずだった。その重荷から逃れたいと心の底では思っていてさえも、それを乗り越えるだけの強さを持っている。


「……許さない」

 剣を振りかぶって踏み込んだが、あっさりと抜身で受け止められる。間近に交錯する眼差しに、一瞬アレクシスが怯むのが見えた。その隙をついて足を払う。地面に倒れたその頭のすぐ脇に、膝をついて両手で剣を逆手に持ち、突き立てた。

「あなたにそんなことを言わせる存在を、私は絶対に許さない」

 険しい眼差しで真っ直ぐにそう告げた彼女に、アレクシスの気配が変わる。同時に闇がさらに溢れ出してくる。

「逃げるんだ、ユーリ! これ以上は、抑えきれない……!」

 その言葉に弾かれたように身を起こしたが、間に合わず闇は彼女を捕らえようとする。瞬間、光が弾けた。

「ジュリアーナ、走って!」

「リィン……⁉︎」

「振り向かないで、とにかく急いで!この先に全ての元凶がある。運命を切り開いて!アレクシスも……あなたの大切なものは全部私が守るから」

 幼さの残る少年は、だが、これ以上なく真剣な眼差しでそう告げる。迷っている暇はなかった。背を押されるままに、ユーリは走り出した。


 幾らも走らないうちに、「それ」は目の前に現れた。灰色の大地に、目を疑うばかりの深い闇。そこに浮かぶ、何か大きなモノ。揺らめく闇の中から徐々に形を顕にしたそれを目にした瞬間、ぞわりと先ほどアレクシスと対峙した時とは比較にならぬほどの悪寒を感じ、背筋が粟立った。暗い眼窩には闇しかないように見えるのに、それは確かな意志をもってこちらを見つめている。無意識に震える拳をぎゅっと握り締め、蠢く闇に向かって問いかける。

「それで、あなたは私に何を望む?」

 答えは期待していなかったのだが、相手はぴたりと動きを止めた。ややして、低い声が響く。

『私を滅ぼしてくれ』

「……何?」

『愛し子よ。私の意識があるうちにここにたどり着いた勇敢なる娘。どうか、その剣で私を貫いてくれ』

「そうすれば、全ては終わるのですか?」

『わからぬ……だが、これ以上悪くなることもあるまい』

 どこか皮肉げに言う声に、なぜか懐かしい想いがした。だが、同時にじわりと怒りが心の奥底から沸き上がってくる。

「あなたをこの剣で貫けば、全てが終わるというなら、なぜもっと早くにあなたはそう求めなかったんだ! どれほどの命があなたのために失われたと……!」

 彼女の怒りに呼応するかのように、闇がその色を深くする。


『私が望まなかったとでも思うのか? 愛しいあの人の子孫をこの手に喜んでかけたとでも?』


「結果は同じだろう!」

 叫び返すと、闇はさらに膨れ上がる。怒りに任せてしくじったかと、後悔しても遅い。闇から吹く風は勢いを増し、少しでも気を抜けば吹き飛ばされそうだ。突然、地面がその形を歪めた。闇が彼女を包み込もうとする。

「な……っ!」

 とっさに剣を振り、まとわりつく影を払う。わずかに闇は怯んだが、すぐにその触手を伸ばしてくる。触れる直前に剣で斬り払うが、切っ先を逃れた一本が頬を掠める。

「……っ!」

 火傷のような痛みが走る。酸なのか、熱なのかもわからないが、痛みが逆に意識をはっきりさせる。こんなところで挫けている場合ではない。剣を構え、闇を見据える。

「こんな因縁は、ここで終わりにする」

 そして、その闇に向かって走り出す。迫りくる黒い触手を斬り払い、ひたすらに闇の中心を目指す。頬に、腕に、脚に、いくつもの切り傷が走るが構ってなどいられない。あと一歩で届く、というところでぐにゃりと地面がまたその境界を曖昧にした。足を取られそうになりながらも、剣を支えに何とか踏み留まったが、膝をついてしまう。

「く……っ!」


 体勢を立て直す間も無く、一際長い黒い触手が目の前に迫った。剣を構えるのも間に合わない。搦めとられる——そう思ったとき、目の前に人影が割って入った。

 彼女に届く寸前だった触手を左腕で受け止める。肉を焼く嫌な音が響き、焦げたような匂いが立ち込める。呆気に取られている彼女の前でその人影は、右手に持った剣で触手を斬り捨て、腕に巻き付いたそれを強引に引き剥がす。そして振り返ると彼女の腕を取って立ち上がらせる。


「何であんたは先に行っちまうんだ!」


 長い黒い髪が、強風に煽られている。その隙間から覗く灰色の眼はいつかと同じように、はっきりと怒りと、そして心の底から気遣う光を浮かべていた。

「……ジェイク!」

 思わずその首に抱きつくと、きつく抱き返される。力強いその腕に、途方もない安堵を感じ、だがそれどころでないことを思い出す。襟首を掴み、その顔を懐かしむ間も無く真っ直ぐに見つめる。

「お願いだ」

「……何だ」

「道を開いて」

「ああ……⁉︎ あんたが行くのか? ここは俺に任せて……」

「嫌だ」

 はっきりと告げた彼女に、ジェイクは一瞬凶悪な眼差しになった。怒鳴られる、と思ったが、雷は落ちてこなかった。かわりにぐいと一度強く抱きしめられる。

「説教は後だ。他にもいろいろ覚悟しておけよ!」

 そう言って、彼女を離すと剣を構えて走り出す。ユーリもその後に続く。闇はもう目の前に迫っている。

「勝算は?」

「わからない」

 ただ、ジェイクが切り開いてくれた道に飛び込む——その瞬間、闇に包まれた。

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