6. 旅立ちの前に

「その『竜の島』へはどれくらいの旅になるんだ?」

『船旅で、ここからならおよそ一月ってところかな。嵐やひどい凪になればもっとかかる』

「風の精霊の加護とやらがあるんじゃないのか?」

 ジェイクがぼそりとそう呟くと、ギロリとリィンに睨み返される。

『言っただろう、私たちにできるのはほんのわずかな助力だけだって!』

「精霊が人に干渉しすぎると、世界の均衡が崩れてしまう」

 ぽつりとユーリが呟いた。目線をそちらに向けると、微かに頷いて先を続ける。

「父に聞いたことがある。かつて、私たちの祖国は森に囲まれた丘の上にあったと」


 まだ王がいた時代、多くの魔術師が王に仕え、その力を戦で振るった。やがて大地は枯れ始め、風は滞り、水は腐った。それを案じた当時の公爵が何度も王に諫言したが、受け容れられなかった。むしろ王は公爵を憎むようになり、彼は家族と自分の領地の民を守るため、森の奥深く、湖の近くへと隠棲した。それが公国の始まりだという。


「その後、その王は?」

「精霊たちが病んだことで魔術師たちも力を失い、やがて王国は崩壊した。王家は滅び、民たちは離散したそうだ。公爵は可能な限り離散した民を集めたそうだが、失われた者の方が多かっただろうな……」

『愚かな話だ』

「ならば最初から力を貸さなければ良いんじゃないのか?」

「そうだな。本来その方が良いんだろう」

 静かに頷いたユーリの言葉に、リィンはそれ以上何も言わなかった。

「……まあいい。もともと加護なんてものに頼るのはガラじゃねえ。いずれにしても一月以上の船旅となれば、物資や装備を整える必要があるな」

 すでに夜は明けている。今から市場に行き、準備を整えても船出は夕方になってしまうだろう。夜は夜で星や月が道標にはなるが、未知の海域を行くならなるべく昼間に進む方が安全だろう。

「今日と明日はいったん装備を整えて休む。でかけるのは明後日の早朝だな」


 ひとまず店の親父に二日分の宿代を支払い、ついでに朝飯も用意してもらう。店主の意味ありげな視線は見て見ぬふりをした。答えたくない客には余計な詮索をしないのがこの店の良いところである。

「それじゃあ、俺は出かけてくる。あんたはここにいろ。鍵は一応かけておけ。誰かが来ても開けるんじゃないぞ」

 簡単な朝食を済ませ、ジェイクがそう告げると、ユーリは少しためらったのち、立ち上がった。

「私も一緒に行ってはいけないだろうか?」

「あんたがくると目立つ。できれば大人しくしていて欲しいんだがな」

「邪魔はしないと約束する」

 そう言いながらも、その眼はそれまでより明らかにきらきらと輝いている。

「市場に行きたいのか?」

 問いかけると、素直に頷いた。ここにたどり着くまでにも長い旅をしてきたはずだが。

「そんなに面白いものもないと思うがな」

「あなたと見るなら、きっと何でも楽しい」

 にこり、と満面の笑顔で言われ、さすがの彼も一瞬完全に言葉を失った。何か裏でもあるのかと思ったが、ユーリの表情には嘘や駆け引きは見られない。昨夜、あの面倒な男と渡り合ったあとは、まるで娼婦のような台詞でこちらを脅してきたというのに。

「あんた、よく無事にここまでたどり着いたもんだな」

「それはまあ、精霊の加護のおかげかな?」


 首を傾げたが、応える声はなかった。完全に日が昇りきり、朝日が部屋の中に差し込むといつの間にか小さな精霊の姿は消えていた。そういうものなのか、単純に気まぐれで姿を消しているのかはわからないが、まあ必要があればそのうちまた現れるだろう。彼にとってもその方が都合がよかった。それにしても、彼がユーリを抱いている間、あの精霊はずっと見張っていたのだろうか。ちらりとそんなことがよぎったが、気にしないことにした。人外の者の動向など手に負えるものでもないし、考えるだけ無駄だ。


「フードはかぶっておけよ。あんたは目立ちすぎる」

「そうかな?」

「そうだ」

 それに、昨夜の噂はそれなりに広まっているだろう。いずれにしても知り合いにはあれこれ詮索されるだろうが、厄介事は少ないに越した事はない。言葉には出さなかったジェイクの考えは、それでもきちんと伝わったらしい。

「わかった」

 ユーリは素直に頷いて外套をまとい、フードをかぶる。烟るような金の髪が隠れると、急に惜しいような気がして、ジェイクは思わず頬に手を伸ばした。

「本当に、あんたみたいな女、他に見たことがねえな」

「誰と比べているんだ、ジェイク?」

「あんた、俺の名前を知ってたのか?」

「知らないと思っていたのか?」

「そりゃあ……」

 酒場で会ったときには突然目の前の椅子に座り込み、あんな話をされたのだ。振り返ってみても、一度も名を呼ばれた記憶がない。

「知らずにあなたを選んだとでも?」


 ユーリは呆れたようにため息をついたが、そのまま彼の両頬に手を伸ばした。真っ直ぐに彼を見据える海の宝玉のような双眸そうぼう剣呑けんのんな光を浮かべている。それでも思わず見惚れてしまうほどに美しい。


「ジェイク」

「何だ」

「誤解させたのは悪かったが、私は誰にでも抱かれるような人間じゃない」

「そりゃまあ、そうだろうな……?」

「その上、どうやら先の短い命のようだ」

 重い言葉とは裏腹に、ふとその口元がほころんだ。見惚れている間に、目を閉じるまもなく、ぐいと両手で顔を引き寄せられたかと思うと、その美しい顔が間近に近づき、唇が重ねられた。どこかためらいがちな、それでも十分に情熱的な口づけに、呆気にとられていた彼の理性はあっという間に焼き切れかかる。彼女はふと唇を離し、そうして耳元でささやく。

「その短い間、できれば抱くのは私だけにして欲しい」

 思わず細い背中を強く抱きしめて深く口づけ返す。危うくそのまま寝台に逆戻りしそうになったところ何とか堪えた。自分の魅力を理解していない人間ほど恐ろしいものはない。ジェイクは深いため息をついて額を押さえたまま、ユーリの腕を掴むと外へと歩き出した。


 市場の活況はいつも通りだった。馴染みの商人に声をかけ、必要なものをそろえていく。皆一様に、ジェイクの連れに好奇の眼差しを投げかけたが、誰しもが彼を良く知るが故に詮索しようとするものはいなかった。ただ一人を除いては。

「ようジェイク。えらい別嬪さんをつれてるんだってな?」

「レンディ……無駄口はいいからさっさと燃料を寄越しやがれ」

「まあまあいいじゃねえか。見たって減るもんでもなし」

「うるせえ!」

「よう、お嬢ちゃん。なんだってこんなやつに目をつけた? ああ、まあだが船乗りとしては一流だ。そうだな、口は悪いが、人柄もまあ悪くねえ。男としちゃあ——港々に馴染みの女がいるくらいだ、察しろってもんだな」

 ガハハ、と馬鹿笑いする古馴染に思い切り肘鉄をくれてやる。その程度ではこちらの肘が痛むぐらいだが。案の定、レンディはものともせずに、ユーリの腕を掴むとそのフードを覗き込んだ。

「お嬢ちゃん……どこかで見た顔だな」

「そうやって誰彼構わず口説くのはよせ」

「ハハァ、男の嫉妬は醜いぜ、ジェイク」

「誰がだ!」

「冗談はさておき、本当にあんたどこかで……」

 真顔になったレンディに、ユーリは何か言いたげな様子だったが、口は開かなかった。

「ところで、何か最近変わった噂を聞いてないか?」

「噂なあ。そういえば、どこぞの王が隣国の公爵令嬢に求婚しただとか、どうもその国の天候がおかしなことになっているとか」

「天候がおかしい?」

「もともと雨の多い国らしいが、なんでも一月の間、降り続いたそうだ。あとはそうさな、例の海域でまた船が一隻沈んだそうだ」

「船の墓場の先、か」

「ああ。やめときゃいいのに性懲りもなく挑んだ命知らずがいたそうだ。適当なところで引っ込んでおけばいいものを、越えられない嵐はねえと息巻いて、船は大破。船長は海のくずと消えたそうだ」

「生き残りは?」

「二人だか三人だか、そんなもんだが全員おかに上がっちまったとよ。金輪際こんりんざい船に乗るなんざまっぴら御免だってな」


 まだまだ海には踏み込めない場所が多々ある。船の墓場と呼ばれる海域もその一つだ。多くの船乗りがその海を越えようと挑んだが、なぜか急な嵐に見舞われ、挙句暗礁にぶつかって、海の藻屑となる。小舟で命からがら戻ってきた者たちの話によれば、恐ろしい魔物の影を見たの見ないのと。


「いずれにしても、あんなところにゃあ、近づかないのが一番だ」

「用がなけりゃ、な」

 助かった、と告げて荷物を受け取り、レンディの店を後にする。ユーリの顔を覗き込むと、どこか浮かない顔をしていた。

「大丈夫か?」

「ああ」

 頷きながらも表情は曇ったままだった。

「雨が続いたということは、故国は守られたのだろうか」

「ユーリ」

「私がここにいることに、意味はあるだろうか……?」

 十八の少女がたった一人で、海賊の根城とも呼ばれる港町へたどり着いた。それだけでも十分に苛酷な話だ。

「一つ教えておいてやる」

 一本路地裏に入ったところで、その体を抱き寄せる。

「考えても仕方のないことはな、考えないこった」

「それが七つの海を渡る秘訣?」

 どこか呆れたように目を丸くする少女に、ニヤリと笑って見せる。

「そんなところだ。天候なんざ、呪いがあろうがなかろうが、コロコロ変わりやがる。そもそも人の手に負えるもんじゃねえ。しっかり食って、しっかり寝る。それから竜の島とやらにたどり着く。俺がそこまで連れて行ってやる」


 だから——。


「あんたはただ安心して俺の船に乗っていればいい」

 何の衒いもなくそう言った彼にユーリは何か眩しいものでも見たかのように目を細め、ふっと表情を和らげて笑った。それから少し含みをもった上目遣いになる。

「なるほど、港々にあなたを待つ女性がいるわけだ」

 それでも十分に魅力的な表情で、冗談とも本気ともつかない表情でそう言った彼女に、いたずら心を起こしてもう一言付け加えておく。

「だが、今の俺の相手はあんた一人なんだろう?」

 一瞬ののちに、耳まで真っ赤に染まった少女に、一体どこまでが演技で、どこからが素なのかわからなくなったジェイクだった。

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