5. この想いは
ふわりと香る花の香りに意識が急浮上した。頬に何かが触れ、そして離れた。泥のようにまとわりつく眠気を何とか振り切って目をこじ開けると、灰色の外套がまさに背を向けて離れようとしているところだった。とっさに腕を掴み、そのまま抱き込んで組み敷いた。
「どこへ行くつもりだ?」
自分でも驚くほど凶悪な声に、ユーリが目を見開いている。だが、その眼差しに怯えはなく、どこか諦めの光が浮かんでいるのに気づき、頭に上った血がスッと下がる。拘束するように押し付けていた腕を放し、起き上がって寝台の端に腰掛ける。ガリガリと頭をかきながらため息をついた。彼女と出会ってたった一晩、どれほどのため息をついたことだろうか。
寝台にわずかに横向いて横たわったまま動かない彼女を見やり、その背に腕を差し入れると今度はそっと抱き寄せた。押し倒した時よりもむしろ身を硬くする彼女を宥めるように、その背を軽く叩く。
「悪い」
ふっと強張った身体から緊張が解け、その頭が彼の肩に預けられる。
「悪かった」
怯えさせるつもりはなかったが、理由も分からず巻き込まれ、挙句に勝手に去ろうとする彼女に腹が立ったのは確かだ。だがそれ以上に、今このまま彼女を行かせてしまえば二度と会えないと思った。それだけは耐えられないと彼の本能が告げていた。衝動に任せて抱いてしまった、だがそれ以上に、彼女の存在は彼を惹きつけてやまない。その理由を知らないままに、彼女を行かせることは絶対にできない。
「あんたは俺を選んだと言った。なら、少しは信じろ」
包み込むように抱きしめながら耳元でそう告げたが、返事はない。わずかに腕を緩め、顔を覗き込むと、泣きたいような、笑いたいような複雑な表情がそこにあった。
「どうして……」
「それはこっちの台詞だ」
呆れたように呟いたが、ユーリはふるふると小さな子供のように首を振る。
「どうしてそんなに優しいんだ……」
「……誰にでもってわけでもないんだがな……」
頬に触れて、そのまま顔を寄せる。相手が目を閉じたのを確認し、ゆっくりと唇を重ねた。顎を捉えてさらにゆっくりと、だが深く口づける。ユーリの手がおずおずと彼の背中に回されたのに気づき、心臓がどくりと跳ねた。重みを感じさせないよう、肘で体を支えながら口づけたまま、その身を再び横たえた。
長い口づけを終えると、目元がさらに朱に染まる。首筋に舌を這わせるとぞくりとその体が震えた。
まずい、と彼の理性が全力で警鐘を鳴らす。このままでは昨夜の二の舞だ。わかっていはいても、もっと触れたい、という欲望がそれを覆い隠そうとする。逡巡し、体を起こした彼の鼻先に何かが掠めたかと思うと、伸び放題だった前髪が何本かぱらぱらと宙に舞った。
『いい加減にしろ! この色ボケ野郎!』
どこからともなく鈴を転がすような、という表現がまさにぴったりの可憐な声で、どうにも乱雑な台詞が聞こえた。呆気にとられていると、もう一度鋭い風が吹いて彼の頬を掠めた。ごく浅いが、うっすらと血が滲んでいる。
「やめて!」
先に声をあげたのはユーリだった。寝台から身を起こすと彼を庇うように手を広げる。
その視線の先を追うと、ほのかに光っている何かが浮かんでいるのが見えた。視線をそちらに据えたまま、立てかけておいた剣を鞘から引き抜き、素早く身を起こすとユーリの前に立ち、その光に切っ先を突きつけた。
「何だ……?」
よくよく目を凝らしてみると、まず最初にふわふわと透き通った羽が見えた。手のひらほどの大きさのそれは、小さいが、紛れもなく人の形をしていた。
「妖精……?」
『失敬な! れっきとした精霊だよ!』
大きなエメラルドのような目を見開き、声だけは可憐に、その不可思議な生き物は腰に手を当ててふんぞり返りながらそう応えた。あまりの事態に再び頭が真っ白になりかけたが、そっと肩に置かれたユーリの手に、我に返る。
「……あんたの知り合いか?」
「だと、思う……。見たのは初めてだけれど」
『ジュリアーナ! なんでこんなやつがいいのさ! アレクシスの方がよっぽどマシだよ!』
聞き慣れない名前に後ろを振り向くと、ユーリはため息をついて頷いた。
「私の名だ……精霊は言霊そのものだから、名をとても大切にすると聞く」
通称や愛称では呼ばないということか。その割に随分と口が悪いようだが。ユーリは一歩前に出ると、剣を構えたままの彼の右手に手を置いた。ふよふよと漂う自称精霊とユーリを見比べ、彼女が改めて頷いたのを見て、剣を下ろした。鞘を取り、剣を収める。
「……で?」
金の髪の美少女と出会い、一夜を共にし、悲劇の伝説を聞いた後、さらに精霊と出会う。次は一体何が起こるというのか。
『ジュリアーナ、本当にこいつでいいの? こんな色ボケたやつ、本当に頼りになるかも分からないし、何よりジュリアーナには似合わない!』
「でも、あなたが私をこの人の元に導いてくれたのでしょう?」
微笑みながらユーリがそう尋ねると、精霊はぷぅっとそれこそ子供のように頬を膨らませた。
『だってそれはジュリアーナがそう望むから……』
「ありがとう。あなたたちの加護がなければ私はこの人の元にはたどり着けなかった」
ユーリが手を差し出すと、精霊はちょこんとその手のひらに腰を下ろした。
「……それ、触れるのか?」
「触ってみる?」
『絶っっっ対にイヤだ!』
——嫌われたものだ。
「それにしても、なぜ今になって姿を? 彼にまで見えるのはなぜ?」
『それはジュリアーナの力が増してるから。愛は力を強くする』
「愛……」
『本当になんでこんなやつに……』
苦虫を噛み潰したような顔でこちらを睨みつけてくる精霊に見せ付けるように、ニヤリと笑いながらユーリの肩を抱く。
「……礼を言うべきかね?」
その手をまた風が掠めたが、今度は傷はつけられなかった。
「あなたの名前は?」
『リィン』
「リィン……。風の精霊、よね』
『そうだよ』
「私をここまで導いてくれた。あなたは、私の運命を知っている?」
それまで子供じみた仕草をしていた精霊は、急に表情を改めた。迷うように視線を彷徨わせたあと、首を横に振った。
「それは知らない、ということ? それとも、知っているけれど、話せない、ということ?」
『……私たちにできるのは、ほんの少し助力すること。知っていることを話しても、私たちではジュリアーナを救えない』
「知っていることがあるなら話せ。判断は俺たちがする」
風は世界を駆け巡る。まして、ユーリを見守ってきた精霊だというのなら、多くのことを知っているはずだ。
「竜ってのは何者なんだ? なぜ公爵の娘を連れて行く? なぜ、公爵の娘たちが去れば嵐は国を襲わないんだ?」
恐らく彼女がもっとも知りたかったであろう疑問を率直にぶつけると、リィンはさらに顔をしかめた。
『お前に話す筋合いなんて、ないんだけど』
「私も知りたい」
『……ジュリアーナが望むなら。竜がどこにいるかは知ってる。なぜ嵐が起きるのかと、なぜ竜が連れ去っていくのか、その理由は知らない。竜は私たちよりも遥かに古くて強い存在だから』
でも、とリィンは続ける。
『ジュリアーナが持つ力とあの海に関係があるのだと思う』
それが何だかは皆目見当がつかないけれども、と何とも役に立たない情報だ。
「もうひとつだけ聞かせろ。国を去った娘たちはどうなったんだ?」
リィンは、ふいと俯いて唇を噛んだ。
「知っているんだな?」
「……リィン?」
『竜に連れ去られた娘たちと、その元に自らたどり着いた者たちがどうなかったかはわからない。あの島には、私たちは近づけないから。あの島に辿りつかなかった者たちは……死んだ』
「いつ、どんな風に?」
蒼白な顔で、それでも真っ直ぐに問うたユーリに、リィンは暗い声で続けた。
『みんな、二十歳を迎えて一年もしないうちに……。眠るように息を引き取るものもいれば、海に身を投げた者もいた。私たちは何とか救おうとしたけれど、どうにもならなかった……』
それゆえに、彼らはなんとか一縷の望みを賭けて、娘たちを竜の島へと導くのだという。
「目の前で死なれるよりはまし……か」
だが、とふとジェイクは疑問を抱いた。
「娘たちと共に竜の島へ行った者はいないのか?戻ってきた者は?」
これにはリィンはきっぱりと首を横に降った。
『娘たちは皆一人で旅立った。誰一人供を連れることなく、誰とも深く交わることもなく』
その多くが二十歳になる直前まで国に残り、ぎりぎりになって旅立つ者が多かったからだろうとリィンは言った。それほどに彼女らの故国への愛は深く、そして絶望もまた深かったのだと。
『長い時の中で、ジュリアーナだけが早く旅立った。それはとても不思議なこと』
もしかしたら、とリィンは呟く。
『それが運命を切り開く鍵になるかもしれない』
それは、祈りのようにも聞こえた。
「私は……私の運命を変えられるだろうか」
リィンの話は死刑宣告に近い。だが、彼女は自らの運命を掴み取るために、行動を起こした。そして彼もまた、もはやその運命とやらを受け容れる事は絶対にできない。
「変えられるか、じゃない。変えるんだ」
背に手を回し、強く抱きしめる。
「あんたと共に竜の島へ行き、運命を変える鍵をその竜とやらに吐かせてやる」
「太古の竜を相手に勇ましいことだな」
ふわりとほころんだその笑顔があまりに儚げで、ほんのわずか彼の心にも陰を落としたが、今は気にしても仕方がない。顎を持ち上げ、精霊の目もかまわずに深く口づける。
「まだまだ、こんなものじゃ、足りないしな」
耳元でそう告げると、ユーリの頬が再び朱に染まると同時に、ジェイクの頬に、もう一筋切り傷が走った。
「この羽虫が……!」
『うるさい! この色ボケジジイ!』
「誰がジジイだ⁈」
ともあれ、ひとまずは目的地と道案内を手に入れることができた。この先、何が待っているかはまったくわからないが、それは彼のいつもの船旅も同様のこと。未知の旅への恐れというものは、生憎と彼は持ち合わせていなかった。ただ、この腕の中の存在を守り切れればいい。
そう決意してしまえば、存外迷うことなどないように思えたのだった。
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