4. 海の都にて
最初の記憶、というのは誰しも持っているものではないらしい。彼女がそれに気づいたのは、それなりに大きくなってからのことだった。彼女が生まれたのは海に囲まれた公国で、いつも清々しい風が吹いている。住う人々は基本的に陽気で、それはその地を治める公爵家の人々も例外ではなかった。基本的に農業に適した地ではないが、それでも何とか育つ木々や穀物を栽培する他は、他国との貿易で成り立っていた。つまりは商人の国である。
その性質ゆえに他者との駆け引きに長け、あらゆることについて合理的な考え方をする者が多かった。であればこそか、小国ながらも民はそこそこ豊かに幸せに暮らしていた。元々は森の中に住む人々であった記憶はもはや忘れられかけていたが、それでも公爵家は精霊たちと共に暮らした日々と、その後訪れた悲劇を忘れることはなかった。
ユーリにとって、最初のはっきりとした記憶は、生まれたばかりの彼女の周りで嘆く声だった。それが本当の記憶なのかは定かではない。だが産声を上げなから、それと同じくらい苦悩する声を聞いたことは長じてからもずっと心に刺のように残り、やがて、十四の年に彼女はその理由を知ることとなった。
「お前は二十歳になる前に、この国を去らねばならない」
公爵はかつて森と湖の地を捨てたのち、精霊に導かれてたどり着いた海での再建国の歴史と、その後訪れた嵐の悲劇について、ひとつひとつゆっくりと語った。合理的な実業家である彼女の父は、いかなる合理的な解決策も見出せない現状に、どれほど苦悩したことだろうか。彼女は十分に愛されて育ってきた自覚がある。であればこそ、今、それを告げなければならない父の内実は、平静に見える表情とは程遠いことを理解していた——せざるを得なかったのである。
「いつ、去ればよいでしょうか?」
ただ、それだけを問うた彼女に、公爵は拳を硬く握りしめて、絞り出すように答える。
「……遅くとも、十九となる花の月に」
他に選択肢がないのであれば、それ以上彼女は言うべき言葉を持たなかった。
それから三年の月日が流れた。彼女にとっては、来るべき離別の時を数える日々に他ならなかったが、それでも家族を含め人々は変わらず暖かく、公国もますます富み栄えていた。そんな折だった、彼に出会ったのは。
いつものように朝早く港町を散策し、それから高台の港が一望できる丘へ上った。そこからは公国が一望できる。やがて夕暮れには赤い夕日が沈み時折緑の光を放つ。その光は死者の国から届くのだと言う者もいれば、最果ての幸福な島の魔術師が放っているのだとも言う。その光を目にするたびに、いつかの記憶が蘇る。たった一度の出会いではあったが、彼女にとっては鮮烈な。いつか、また出会うことがあるだろうか。彼と出会ったのは海の上、こんなところにいたところで出会えるはずはないとわかったはいたのだけれど。
「おや、美しいお嬢さんが一人でこんなところにいるなんて感心しないね」
物思いにふけっていると、急に頭上から声が降ってきた。振り向けば、馬上から男がひとり、彼女を見下ろしていた。足音に気づかなかったのは不覚だった。身なりの良い男だ、ととっさに見極める。この辺りはまだ公爵領で、自国の兵と傭兵たちの防備のおかげで、荒くれ者たちの侵入もほとんどない。とはいえ、確かに夕暮れ時に少女が一人でいるのは迂闊ではあった。
長めの薄茶の髪を後ろで束ねている。目は先ほどの閃光と同じ、鮮やかな緑。見たことのない顔だったが、品の良さそうな言葉遣いからすると、どこぞの国の貴族の若様といったところだろうか。
「貴方こそ、お一人で出歩かれるような身分の方には見受けられませんが」
「ふむ、声も良いね」
にこり、と笑うと存外親しみやすい雰囲気になる。馬から下りると、ごく自然な動きで彼女の手を取り、その甲に口づけた。
「お初にお目にかかります。ジュリアーナ姫とお見受けしますが、間違いないかな?」
「……私は姫ではないし、皆はユーリと呼びます」
「ふむ、確かにその方があなたにぴったりだ。ではユーリ嬢、私はアンティリカのアレクシスという。あなたを花嫁に迎えたいのだが、いかがだろうか?」
一瞬何を言われているのか、全く理解できずぽかんとしている彼女をよそに、アレクシスは片膝をつく。
「私と結婚してくれるかな?」
あまつさえ、その手には大きな宝石が輝く指輪が握られている。冗談にしては性質が悪いが、どうにも相手の眼を見る限り、単にからかっているようにも見えなかった。
「……父は知っているのですか?」
「もちろん」
「……父はなんと?」
「一昨日きやがれ、とおっしゃっていたね。もう少し遠回しな言い方ではあったけれど」
「……であれば、私から申し上げることは何もありません。お引き取りください」
「なぜ、と理由を聞いても?」
「むしろ了承する理由が見つかりません」
淡々とそう答えると、アレクシスはつれないなあと片眉を下げて笑った。それでも品の良さを保っているのは余程の家格の人間だろうか。
ふと、アンティリカという国名とアレクシスという名が繋がって、愕然とする。むしろどうして気づかなかったのか。
アンティリカといえば、大きくはないが、良質な宝石を産出することで有名な国だ。彼女の公国はそれらの宝石を買い取り細密な加工を施して売る職人が多い。ゆえに歴史的に交わりは深い方ではあるが、鉱山の利権を巡って他国との諍いが絶えないだけでなく、ここ数年は内乱で国が荒れていたと聞く。その内乱を治めたという若き王の名が——。
「アンティリカのアレクシス四世?」
「ありがちな名前だと、ナンバリングされてしまうのがいまいちだよねえ。アレク、と呼んでくれて構わないよ」
「一国の王が、一体なぜこんなところに……」
「それはもちろん美しい公爵令嬢の噂を聞いて、一目会いたいと思ってね。会ってみたら想像以上に美しい人だったので、こうして求婚していると言うわけだよ」
「申し訳ありませんが、理解しかねます」
「まあ、君は覚えていないだろうけれど」
にこり、と微笑んで、立ち上がると間近に見下ろしてくる。随分背が高い。
「以前会った時は、もっと可憐に笑いかけてくれたのに」
それからおもむろに、ポケットから金細工のアミュレットを取り出すと、彼女の首にかけた。中心には彼女の瞳と同じ色の石が嵌め込まれている。
「あなたの国が、あなたをいらないというのなら、私が貰い受けたい」
「……父がそう申し上げたのですか? 私を不要だと」
「いや、だが同じことだろう?」
「貴方なら私と、この国を救えるとでも?」
「やってみなければわからないだろう? 少なくとも、私は愛する人をむざむざと生贄にするようなことはしない」
「歴代の公爵たちが、喜んでそうしていたとでも?」
自分でも声が冷え冷えとしてくることがわかった。いかに備えても、嵐は容赦無く民の命を奪った。守ろうとして命を落とした公爵さえもいる。そうした悲劇を身を以て理解しているからこそ、彼女自身も、そして同じ運命を背負った彼女の同胞たちも、それを受け入れざるを得なかったのだ。他国の王が、戯れに横槍を入れられるような単純な話では決して無い。
「お引き取りください。無策であるならば、貴方の求婚は、ただこの国に破壊と死をもたらすだけです」
そう言って首にかけられたアミュレットを外し、彼の手に押し付けた。存外に強く冷ややかな口調に、初めてアレクシスは怯んだような表情を見せる。しばらく言葉を探すように海を見つめていたが、やがてため息をつくともう一度彼女の手をとって口づけた。
「気分を害してしまったようで申し訳ない。ただ、私はあなたを救うためなら何でもするつもりだ。それは、覚えていて欲しい」
「……なぜ?」
「あなたは覚えていないだろうが、私はかつてあなたに救われたのだ」
それだけ言うと、不意に頬にかすめるように口づけて、そのまま馬に飛び乗った。
「私は往生際が悪いことで有名でね。また会いにくるよ、ユーリ」
そう言って駆け去っていったのだが、その言葉通り、その後も何度も顔を合わせることになったのだった。
ふと目を開けると、目の前に浅黒い精悍な顔が目に入った。一瞬何か起きたのかわからず、身を起こそうと身体を捩ると下半身に鈍い痛みを感じ、それで全てを思い出した。
「……私は、見つけられたのか」
アレクシスが初めて彼女の元を訪れてから、ことあるごとに彼は公国に足を運び、嵐への対処方法をあれやこれやと古文書を紐解きながら提案し続けた。ほとんどが意味を為さなかったが、唯一彼女の興味を引いたのは「竜の島」についての伝説だった。この世界のどこかに竜が棲む島があるという。すでに伝説にしか棲まないと思われるが、ほんの数百年前には彼女の公国には多くの目撃談がある。本当に竜の棲み処を見つけることができれば、彼女の運命について、知ることができるのかもしれない。
彼女は隣国の王に、可能な限り竜の島についての情報を集めるよう依頼した。だが、船乗りの間で伝説として語られる以上の収穫はなく、無為に一年が過ぎた年、彼女は旅立つ決意を固めた。どうせあと一年もすれば嫌でも国を離れねばならないのなら、せめてその残り時間をもっと有効に使うべきだと考えたのだ。
当てがあったわけでは無い。それでも風と水の精霊たちは彼女を見守ってくれているようで、特に大きな危険に遭うこともなく、彼女はこの島にたどり着いた。そしてついに彼を見つけたのだ。
無造作に伸びた長い黒い髪に灰色の瞳。記憶にあるより遥かに精悍になっていたが、知り合いらしい船乗りに向ける屈託のない笑顔はかつて間近に見たその面影をはっきり残していて、間違いなかった。雑踏に紛れてすぐに見失ってしまったが、狭い港町であれば、名のある船乗りを見つけることはさほど難しいことではなかった。
敢えて酒場で注目を浴び、彼が後に引けないように巻き込んだ。自分でも無茶苦茶だと思う誘惑に対して、予想外にすんなりと応えた彼は、さらに驚くほど、終始優しかった。
頬にそっと触れると、ざらざらと生えかけた髭が手に触れる。いつの間にか腕枕をされる形になっていたことに気付いて、その無骨な手が彼女の身体中に触れたことを改めて思い出して赤面する。
やや早まったかな、と思わないでもなかったが、どうせあと二年しかないのであれば、恋した相手に全てを捧げてみたくなったのだ。そこまで思って、そういえば自分とアレクシスはよく似ているのかもしれないと思った。たった一度、自分の命を救ってくれたその相手に恋をした。アレクシスは彼女のことを諦めてはいないようだったが、旅立ちの決意を告げると、止めようとはせず、以前彼女に見せたアミュレットを改めて彼女に贈ってくれた。いざとなれば路銀の足しにでもするようにと。その甲斐あってか、今彼女はこうしてここにいる。
それでも、もう立ち去るべきかもしれない。彼は、彼女の運命に付き合ってくれるのに十分なほど優しいともう確信している。
であればこそ、彼女の運命に、目的地のはっきりしない危険な船旅に彼を巻き込むことはできない。
彼女を包む温もりがそれを阻もうとしたが、彼は目覚める気配がない。やがて、夜明けが近づく気配を感じ、彼女はそっと寝台を抜け出した。髪をひとつに編んで整え、外套を身に纏う。あとはまた精霊が導いてくれるだろう。彼に出会えたように、運が良ければ竜に出会い、またいつか、ここに戻ってくることさえもできるかもしれない。いつかまたその日がくるまで。
そっと寝台に近づき、その頬に口づける。そのまま身を起こして踵を返したところで、背後から腕を掴まれた。
「どこへ行くつもりだ?」
地の底から響くような低い声に、心臓を掴まれた気がした。
振り向く間もなく抱き寄せられた。寝台に押し倒され、間近にある灰色の瞳が、今は燃え上がるような光を宿しているのに気づいて体が震えた。
——怒っている。それも非常に。だが何に?
答えはわかりきっていた。
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