3. 森と水の公国

 彼女の生国はもともと小さいが森と湖の豊かな公国だった。王はすでになく、かつて王に仕えた公爵が何とか自治を保ち、国を治めていた。そんな国は珍しくもなく、常に周囲では戦の火種が絶えなかった。ひとつその国が他国と異なっていたのは、その公爵の血筋にかつて精霊に愛された者がおり、時折、その声を聞く者が生まれることくらいだった。

 数百年がそうして過ぎて行ったが、やがて、戦は燎原の火のように広がり、彼らも避けようがないと悟ったとき、時の公爵は代々治めてきた地を捨てることを決意した。豊かな森と湖、その恵みを受けて黄金の小麦に輝く畑。それらは彼の民を養うに十分な富をもたらしてくれてはいたが、戦をすればいずれにしてもそれらは大きく損なわれる。民と家族の命には替え難い、そして何よりも公爵は森と湖を、そこに宿る精霊たちを守りたかったのだと、伝えられている。


 そんな彼の想いを知った精霊たちは、彼らを海へと導いた。当時、海際は崖と泥のみが広がる人の住まわぬ地だった。であればこそ、他国の侵略も受ける恐れもなかった。移住は困難を極めたが、それでも水と風は彼らを助け、根が陽気な公爵とその民たちの気質も幸いしてか、数年で街が出来上がり、人々の暮らしも落ち着いたという。

 ところがおよそ百年ほど経ったある年、かつて誰も経験したことのないような嵐がこの国を襲った。公爵は可能な限り民を城に呼び寄せ、海に沈みかけた街から救おうとしたが、日に日に嵐は強さを増し、やがて、城の備蓄も尽きようかというころ、稲光と共に大きな竜が現れた。


 その竜は嵐を鎮める代わりに公爵の娘を望んだ。


 苦悩する公爵の心中と民を思い、娘は自ら竜の元に赴き、やがて嵐は消えた。だがそれ以降、娘の姿を見たものはいないという。人々は悲しみに暮れたが、その悲劇は一度では終わらなかった。およそ百年ごとに嵐は街を襲い、その度に竜が現れ、娘を連れ去っていく。中には抵抗した公爵もいたというが、結局は娘は竜と共に去っていく。やがて、いつしか公爵の元に生まれた娘は百年を迎える前にどこへともなく去るようになった。

 それ以来、大きな嵐も、竜も国を襲うことは無くなったという。代わりに、娘が公国を去ると、やがてしばらくののち、一月の間、雨が続く。水と風の精霊が嘆いているせいだともいい、あるいは威力を失った嵐がせめてもの抵抗を示しているともいう。戻ってきた娘はひとりもいないゆえに、真実を知るものは誰もいない。



 衣服を整え、椅子に腰掛けて食事を摂りながら、ユーリは淡々と生国に伝わる伝説を語った。伝説、というにはあまりにも残酷で身近な物語だ。

「そして、この百年目の、その娘が、あんただと……?」

「どうもそういうことらしい」

 淡々と、天気でも告げるかのような声に、ジェイクの方が苛立ちを感じてしまう。

「民のために、百年ごとに娘が行方不明になってるだと? 何でそんなことがまかり通っているんだ?」

「一人の娘が行方知れずになるだけで、多くの命が救われるのであれば、仕方のないことだろう?」

「……あんたなあ……他人事みたいに……!」

 だが、少女はそれまで見せていた平静さが嘘のように勁い眼差しを返してきた。

「他人事だと思うか?」

 そして、伝説には民たちがすでに忘却してしまった悲劇があることを語り出した。

「初めて嵐に襲われた年、最初の嵐の高波で、多くの民が死んだ。およそ四分の一が波に呑まれたという。だからこそ当時の公爵は残り全ての民を可能な限り城に呼び寄せたんだ。やがて嵐が止んだ後、泥にまみれた海岸は死体で埋め尽くされたという」


 彼女の公国の人口がどれだけだったかは知らないが、四分の一、というのは尋常な数ではない。為政者として、当時の公爵の苦悩はいかばかりだったか。そしてその子孫である彼女がそれをどのように受け止めてきたかは想像に難くない。


「だが、何であんただとわかるんだ? 公爵の子孫なら他にもいるはずだ」

 歴史のある家系であればあるほど、その子孫の数は増えていく。たった一人を指し示すなど、本来ならありえないはずだ。だが、ユーリはそれこそ愚問だ、と答えてふわりと笑う。

「代々うちの公爵家は男子が多くてな。それも黒髪黒眼、奥方が金髪碧眼でもほとんどの子供たちは、濃い色の髪と眼を持って生まれてくる。それが百年に一度くらいごく淡い金髪と碧い眼をもった娘が生まれる」

「それがしるし、というわけか……」

「というよりは、もはや呪いかな。そう考えて生まれてすぐに殺してしまえ、と言う声もあったらしい」

「何……⁈」

 特徴を持つ娘が生まれてくるから嵐が起きるのか、嵐が起きるから鎮めるために、生まれてくるのか。どちらかは定かではない。

「結局は、殺してしまった後に嵐が起きた場合に鎮める術を失う方が危険だと言うことで、見送られたらしいがな。いずれにしても、特徴を持った娘たちが自主的に姿を消すようになるまで、嵐がくるたびに多くの民の命が失われた。どれほどに備えても、嵐は街を破壊し、容赦なく民の命を奪っていく」

「なぜ、公爵は街を捨てないんだ?」

 かつて森の奥の公国を捨てた公爵家であれば、同じことを考える者が必ずいたはずだ。だが、彼女は首を振る。

「森と湖を離れ、公爵家はほとんどの精霊の加護を失ったらしい。それでもなお、もう一度、民に当てもなく流離えと言える為政者はなかなかいないだろう」


 たった一人の娘の命でそれが贖えてしまうのであれば尚更に。


 つまり、彼女は生まれた時からいつか国を離れ、どことも知れぬ場所へ行き、二度と帰らぬことを生まれながらに定められているというのだ。

「あんたは時がないと言ったな? 嵐が起きるのがいつ頃か、わかっているということか?」

「歴史を紐解くまでもなく、伝えられた話によれば、おおよそ娘が二十歳を迎える月に、嵐は起こるそうだ。多少前後することはあるようだが」

「あんたの場合はあと二年……か」

 あれほど彼女が必死だったのは、あと二年もすれば彼女は誰もその先を知らぬ旅に身をまかせなければならないためだったのか。

「だが、何で俺だったんだ?」

 彼からしてみればほぼ初対面の少女である。確かに女性から好意を向けられることは多いが、そんな重い運命を負った相手から全幅の信頼と好意を寄せられるほど自惚れられはしない。だが、彼女はきょとんと眼を見開いた。意外なことを聞かれた、というように。

「……何だ?」

「本当に気づいていなかったのか」

「何をだ?」

「……なら、いい」

 ふわりと微笑んで、そのまま口をつぐんでしまう。そうした表情を見れば、年相応の少女に見える——あまりに美しいことに目をつぶれば、だが。そう、改めて見れば細い肩も首もあまりにも頼りなげだ。点在する赤い痕が、自分の衝動を思い出させてまた自己嫌悪が蘇ってくる。ため息をついた彼に、ユーリは再び首を傾げた。

「やはり……迷惑だっただろうか?」

 冷静な声の奥に、心細げな響きを感じたのは気のせいだろうか。どちらでもいいか、と彼は立ち上がり、その細い身体を横抱きに抱き上げた。

「……理由は知らんが、あんたは俺を選んだ。そう言うことなんだな?」

 真っ直ぐに目線を合わせてそう問うと、少女は驚いたように息を飲んでいたが、やがて彼の首に腕を回し、しがみつくようにして頷いた。その腕は温かいが柔らかく、あまりに細く頼りない。


 それで十分だと思ってしまうほどに、自分はお人好しだったろうか。


 これが運命というものだろうか。後になって振り返ってみても、彼は自分がどうしてそれで納得してしまったのかはわからなかった。ただ、微かに震える身体を抱きしめているうちに些細なことはどうでも良いかと思えてしまったのだ。

「やれやれ……」

 ため息をつきながら、寝台へと歩み寄り、そっとその身体を下ろす。その隣に滑り込むと、少女の体がびくりと震えた。

「あの……」

「そう怯えなくたって、もう今夜は襲いやしねえよ。少し眠れ。俺も寝る」

 狭い寝台だが、長椅子よりはましだろう。背を向けると、しばらくしてふっと気の緩む気配と共に、背中に何かが当たるのを感じた。

「……ありがとう」

 ぎゅっとすがりつくように背後から抱きつかれ、吐息が首にかかる。ぞくり、と思わず背筋が震えたが、何とか衝動を抑え込んでしばらく耐えていると、やがて安らかな寝息が聞こえてきた。そっと向きを変えると、先ほどの死んだような眠りとは異なり、穏やかに目を閉じている姿が目に入る。無防備に眠るその姿に、男の部分が疼かないではなかったが、とりあえずそっと起こさぬように抱き寄せ、額に口づけるだけに留めた。

「本当……何やってんだか、俺は……」

 ぼやきながらも、長い夜に疲れ、穏やかな寝息に引き込まれるように、やがて彼も眠りに落ちていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る