2. それから

 自慢ではないが、彼は女に不自由したことがない。幼い頃に両親を流行病はやりやまいで亡くし、行くあても特になくさまよっていたところを、小さな商船の船長に拾われた。船長と言えば聞こえはいいが、商船は常に海賊から狙われるご時世にあっては、荒くれどもの頭領と言った方がふさわしい。襲われれば反撃するし、時にはそのまま慰謝料とばかりに戦利品をいただくこともある。どちらが海賊かわからないと言われればそれまでだ。


 そんな頭領の元で、もともと頭の回転は悪くなかった彼は鍛え上げられ、いつしか片腕とまで呼ばれるようになった。ひょろひょろだった腕っ節も太くなり、行く港行く港で馴染みの女もできた。所帯を持たないのか、と声をかけられたことも何度もあるが、流石にまだそんな気にはなれなかった。何より船で過ごす生活が彼は気に入っていたのだ。拾われてから十余年、そろそろ独立しろとまとまった金を渡されて船を手に入れたのが半年前、あちこちの物産品を売り捌いて港に戻ってきたのが今朝のこと。世話になった連中に挨拶回りをして、ようやく馴染みの女たちとしけ込むかといつもの酒場に入ったはずだったのに。


 どうしてこうなった。


 寝台の上で死んだように眠る少女の顔を眺めながら、棚から取り出した酒を自棄気味に呷る。初めて、と言っていたのは嘘ではないようで、あちらこちらに触れるたびに強張る体をそれでもなるべく悦ばせようと気を使いながら、そっとつながった。こんなにも気を使うのは初めてのことだったし、楽しいかと言われれば浮かれ女と遊ぶ方が絶対に楽だ。それでも途中で止める気にもなれなかったのは、彼女の必死さと、そしてそこに惹きつけられている自分を確かに自覚したせいもあった。


「本当に、何やってんだ、俺は……」


 彼女は自分を買って欲しい、と言った。ならばことが済んだ今、金を置いて部屋を出ればよいだけだ。あとは他の女たちと遊ぶなりなんなりすれば良い。頭ではわかっていても、硬い椅子に下ろした腰を上げる気にはなれなかった。とはいえ深酒をする気分にもなれない。そんなわけで、ちびちびと酒を呷っているというわけだ。そのときだった、軽く戸を叩く音がする。寝台の上の少女に目を向けたが、目を覚ます気配はなかった。一応、立てかけた剣を取り、戸の前に立つ。

「誰だ?」

「俺だよ、ジェイク。結局お前、頼んだ料理も食ってねえだろう。わざわざ温めて持ってきてやったから冷めないうちに食っちまいな」

 店の親父の声だった。何か裏はないかと警戒しつつも戸を開くと、湯気の立つ皿を持った店主がひとりで立っていた。店主はそのままずかずかと入り込むとテーブルの上に皿を並べていった。それからちらりと寝台に目をやって、彼の方を向くと小さく肩を竦めた。

 言いたいことはわかる。状況は火を見るより明らかだ。

「お前さんがねえ……」

「言うな……」

「まあ、うるさそうなのは追い払っておいたから今夜は安心して泊まっていきな。お嬢ちゃんも訳ありのようだしな」

 含みのある言葉だ。

「……何か知っているのか?」

「まあ、な。淡い金髪と深い海の瞳の絶世の美少女、なんてものはそうゴロゴロ転がってるもんじゃねえ。こんなものもな」

 そう言って店主がポケットから取り出したのは、細かな金細工が施され中心にはそれこそ彼女の瞳と同じ色の宝石が嵌め込まれたアミュレットだった。

「今朝、港でフードを被った訳ありそうなお嬢さんに行き会ってな。腕の良い船乗りを探しているってんで、俺の店を紹介してやったってわけだ」

「その代金が、それか?」

「流しの女が使えるほど俺の宿は安くないと、まあ、冗談のつもりだったんだがな」

 まともにとって豪華な宝飾品を渡してきたということか。断らずに受け取ったのだから、この親父も曲者だがそれ以上カモにしようともしなかった分、まあこの界隈では善人に入る方だ。

「この宝石はアトランティリウムと言ってな、昼と夜の光の加減で色が変わるそりゃあ希少な石だ。下手すりゃ一生遊んで暮らせる。そんなものをぽんと渡せるんだ。ただものじゃないだろうな」

「心当たりは?」

「タダで教えると思うか?」

「十分ふんだくったろう」

「お前さんからはビタ一文もらっちゃいないがな。まああのお嬢ちゃんの勇気に免じて教えておいてやる」


 なるべく彼女を起こさぬようにとの配慮か。部屋の隅にテーブルを移し、ついでに酒と料理をつまみながら店主が語ったことに、ますます彼は頭を抱えることになった。

「公爵令嬢、だと⁉︎」

「まあ、小国だがな。さっき見せた石をはじめとして、良質な宝石を産出することで有名な国がある。金はあるってんで武力もそこそこ、だがここ数年、王位継承を巡って争いが絶えなかったってんだが、その国がようやく先日落ち着いたって話だ。で、ようよう王位についたのが権力闘争に長けたアレクシス何世だかってやつなんだが、その王が隣国の公爵の娘を王妃にと望んでいるそうだ」

「それがあいつだと……?」

「さてな。どういう理由でこんなところに流れ着いたのか、それとも単なる人違いなのかそれは俺にもわからん。だが、このまま関わるなら厄介なことになることも覚悟しておけ」

 どこまで本気なのかはわからないが、そう言って店主はニヤリと笑うと部屋から出て行った。彼は再び扉の鍵をかけると、やれやれと深いため息をつく。思ったよりことは厄介なようだ。一国の王と公爵家のいさかいなど、一介の船乗りの手に負えるものではない。さっさと船に乗って、海に繰り出して忘れてしまうのが一番だ。


 そうわかっていても、どうしても寝台に目を向けずにはいられない。彼らが話し込む間にも一向に目を覚ます様子がないことを見ればよほどに負担だったのだろうか。まあ、自覚はある。余裕があったのははじめだけだ。あとはもうただひたすらに惹きこまれ、貪った。あの瞳に囚われたのだと思う。今落ち着いていられるのは、彼女が目を閉じているせいだ。もし開かれれば、冷静でいられる自信がない。


 今、立ち去るべきだ。彼女が目を覚ます前に。


「う……ん」

 そんな彼の内心を見透かすように、彼女が身じろぎした。吸い込まれるように、寝台に歩み寄る。彼が寝台の端に腰を下ろすのと、ほぼ同時に海の色の瞳が開いた。茫洋としていたその瞳が彼を捉えると、驚いたように見開かれる。

「……まだいたのか」

「ああ⁈」

 思わず声を荒らげた彼に、少女は少しきまりが悪そうに身を竦めた。

「俺が金も払わずにヤるだけヤって逃げると思ってたのか?」

「いや……そういうわけではない……が……」

 身を起こしながら、もごもごとらしくなく口籠る様子に、ようやく彼も気づいた。どうやら恥じらっているらしい。ことの後そのまま眠ってしまったが故に、毛布の下は一糸纏わぬ姿だ。ほのかに見え隠れする首筋や肩には彼がつけたあとがこれでもかと点在している。本人は気づいていないだろうが、艶かしいその姿に、どくんと彼の心臓がはねた。頬に手を伸ばすと、肌は吸い付くようだ。日に焼け、ひび割れた彼の手とは対照的に白く滑らかで美しい。だが、彼を本当に惹きつけるのはそんなものではない。

「あんたのことを話してくれ」

 厄介事に巻き込まれるつもりか、と店主のせせら笑う声が聞こえる気がした。

「私は……」

「名前は?」

「ユーリ」

「ただのユーリ、か?」

「今のところは」

「……齢は?」

「十八」

 思わず怪訝そうな目を向けた彼に、ユーリと名乗った少女は不本意そうに鼻を鳴らした。

「幼く見えるのはわかっている。だが、この花の月で十八になったのは嘘じゃない」

「……それで求婚されたのか?」

 どうしてそれを、と今度こそ大きく見開かれた目を見て、確信するよりなかった。

「どうしてこんなところにいる? 船乗りを探しているそうだが、なんで俺に抱かれる必要があった?」

 この島は基本的に商船が長い航海の途中で寄る寄港地だ。さらには大っぴらには言えないが、海賊たちの根城でもある。真っ当な人間なら普通は近づくことさえも稀な海域だ。

「それは……」

 言い淀み、目を逸らそうとするのを許さず、両肩を握って引き寄せた。海の碧の双眸は揺れ動いていたが、やがて諦めたようにため息をつくと、彼の方に頭を寄せてきた。

「私にはやらなければならないことがある。求婚に応じている暇はないんだ。いくら言っても彼は理解しようとしなかった。というよりは……」

 あなたのためならなんでもすると、王はそう申し出たという。わざわざ公爵邸に足を運び、熱心にそう説いたと。それほどに求められながら、何故応えられないのか。

「私には行かなければならない場所があり、そこで果たさなければならない役割がある。王妃になどなれはしない」

「その役割ってのは?」

 ユーリは、ただ横に首を振った。話せない、ということなのだろう。

「それが終わってから求婚を受けるってのではダメなのか?」

 何の気なしに尋ねたのだが、ユーリは驚いたように身を起こしてまっすぐに彼の方を見つめた。

「終わった後……か」

「なんだ、考えたこともなかったのか?」

「そう……だな……」

 頷きながら、微笑むその姿にどこか心臓がざわめくのを感じた。十八歳の少女が浮かべるにはあまりに陰のある微笑みだったからだ。

「まあ、だが、私だって相手は選びたいのだ」

 今度は真っ直ぐにこちらに向けられた眼差しを見れば、それがどう言う意味を持つものかは彼にも伝わった。

「何で俺だったんだ?」

「さあ」

「おい……」

 はぐらかすのかと問い詰めようとしたが、ユーリはただ首を横に振り、彼の胸に頭を預けてきた。

「いつか、行かなければならないことはわかっていた。どこに行けばいいかは風と水が教えてくれる。ようやくこの島にたどり着いて、そしてあなたを見つけた」

 今朝だ、という。風と水に導かれるままに(要は気の向くままに)、この島の港に到着し、彼を見かけて確信したのだという。

「あなたが私をあそこへ連れて行ってくれるのだと」

「どこへだ?」

「竜の島」

 船乗りの間では有名な伝説だ。どこかに竜の棲む島があるという。金銀財宝、それ以上のお宝が眠るという島が、まだ誰も知らない海域に存在していると。だが、その島の秘密を知るのは——。

「あんたまさか……魔法使いか?」

「……精霊を友とする者をそう呼ぶのなら」


 彼女を包んでいた不可思議な雰囲気の正体はそれだったのか、とようやく合点がいった。この世界には魔法と呼ばれる力が確かに存在する。暖炉に火を点けるという小さなものから、強力なものになれば天候さえも操ることができるという。生憎と彼は実際に目にしたことがないが、それらは精霊の力を借りて行われるものだという。

 船に乗ることを生業としている者であれば、誰でも自然の脅威を知っている。怪しげな露店商の売る航海の安全を祈るお守りの一つや二つを持たないものは少ない。彼もその例外ではなく、かつて大荒れの嵐の中を乗り越えたという先達から譲り受けた古びた黒曜石のお守りを肌身離さず持っているのだ。


「あんたはその……精霊が見えるのか?」

 その問いに、ユーリはわずかに首を傾げた。

「視えるか……と言われると、わからない。ただ、確かにそこにいることを感じることはあるし、時に彼らは力を貸してくれる」

 それで十分なのだと。ふるりと肩が震えたのを感じ、ようやく彼女の肩が随分と冷えていることに気づいた。それはそうだ。乱雑に脱がした衣類はそれでも一応無事であったので、拾い上げると寝台から離れ、椅子に腰を下ろして背を向ける。

「とりあえず着ておけ、まだ夜明けまでは時間がある。話の続きはその後だ」

「……わかった」

 離れた体温にわずかに名残惜しい響きを感じたのは気のせいではないかもしれない。

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