第21話 【リルダ】赤子と結界

 あれは五年前、季節は初夏の頃。

 朝、老賢者が小屋から出ると、戸口の前に籠に入った赤子が置かれていた。見たところ、まだ零歳としなし

 この世界の殆どの国は数え年だが、産まれた年が終わるまでは「歳無し」とされる。乳幼児の大半が最初の年を越せずに死ぬためだ。


「それにしても……」


 ほとんど銀色に見える短い髪の毛はぼさぼさで、頬にも赤子らしい張りと艶がない。栄養状態は良くなさそうだ。


「……やれやれ。危険感知の結界では、この手は防げんのぅ」


 敵意や殺気に反応する結界は、赤子を抱えて慈悲を求める母親には反応しなかったようだ。

 老賢者は周囲を見回す。

 昇る朝日に輝く、新緑の桑畑。盟友ダイゴと魔の森を踏破して到着したこの地に、持ち込んだ蚕を元に築き上げた養蚕の里。


「絹で国全体が潤っていても、零れ落ちる者は絶えないんじゃな……」


 おそらく、この子の母親も。夫と死別したか、自身の病気か何かで。


(あの疫病が、再び蔓延するのでなければよいのじゃが……)


 自分たちがこちらの国々に持ち込んだ……持ち込んでしまったもう一つのモノ、黒死病ペスト


(迂闊じゃった。旅の間、仲間にずっとかけ続けていた回復魔法が、仇となっってしもうた)


 仲間の一人である狼系の獣人戦士に、感染源だったダニがついていたらしい。しかし、回復魔法のために発症せずにいた。

 そして、この地に到着してしばらくたち、魔法の効果が切れた途端に猛威を振るいだした。まずは獣人戦士が、次にその周囲の者たちが……。

 それはもう、建国して間もないこの国を滅ぼしかねないほどの勢いだった。デンペルトンは仲間と共に国中を駆け巡り、感染の拡大を防いだ。

 病魔の媒介をダニやシラミが、それらの媒介をネズミなどが担っていることは分っていた。そこでまず国中のネズミを駆除し、洗濯の奨励と公衆浴場を増やしていった。

 その上での治癒魔法だが、こちらは難儀を極めた。


(病魔のイメージが曖昧すぎるからじゃ。何しろ、目に見えんからのぅ)


 あれから数十年。その後も自分なりに研究してきたが、その方面での成果ははかばかしくない。


「とりあえず、目の前で赤子に死なれたら堪らんからな」


 物思いを振り捨て、現実に気持ちを引き戻す。

 指で五芒星の印を切り、回復魔法を赤子にかける。青白かった頬に、やや赤みが戻った。

 その時、山の少し上の方がにぎやかになって来た。


「ん? 工房の方も起き出したか。どれどれ」


 赤子の入った籠を抱え、デンペルトンは坂を上って行った。

 養蚕工房の経営者は、若夫婦と言うには少しが立ったワドーハとヘザーだ。夏場、周囲の住人を働き手に雇うので、割と名が通ってる。そして、子宝に恵まれていないことも。

 子供のいない夫婦なら、捨て子でも大事に育ててくれる。そう、この子の母親は期待したのだろう。ただ、その手前の老賢者が住む小屋で力尽き、そこにこの子を置いて去ってしまったと見える。


「あ、おはようございます、大賢者さま!」


 威勢よく挨拶してくるワドーハ。


「朝食、いかがですか? 今、みんなの分が――」


 にこやかなヘザーだが、途中で老賢者の抱える籠に気づく。


「まぁ、赤ちゃん!」


 その声に、工房で働く他の労働者たちが色めき立った。


「え、どうして? どこから?」

「もしかして、魔法でこさえた?」


 あれこれ問い詰められて、デンペルトンは籠をテーブルに置くと、腰掛を引いてドカリと座った。


「ンなわけ、あるかい! 家の前で拾ったんじゃ」


 いらだち紛れの声に驚いたのか、籠の中の赤子が泣き始めた。すると、労働者のうち育児経験のある女性たちが吸い寄せられるようにあつまり、赤子を抱き上げた。


「あらあら、オムツかしら……これは、お腹がすいたのね」

「困ったわね、ここにはお乳が出る人はいないし」

「とりあえず重湯ね。あとで村に降りて山羊の乳をもらってくるわ」


 養蚕は重労働だが、細かい気遣いも多いので女手も多い。蚕も赤子も、育てるという意味では同じだった。


(やれやれ、助かったわい)


 赤子は無事、ヘザーとワドーハに引き取られ、リルダと名付けられた。なので、本来ならこの夫婦の子供として育ったはずなのだが。


「だぁ! だぁ!」

「痛たたた! これ、放すのじゃ!」


 なぜか赤子は老賢者に懐き、ハイハイが出来るようになると膝によじ登っては、自慢の髭を玩具にする毎日。やがて歩くようになると、一日中付いて回る始末。

 仕方なく、三歳のころからは老賢者が弟子と言う名目で引き取る形になった。

 その挙句、息子のあまりに早い巣立ちに落ち込むヘザーのため、デンペルトンは彼女の不妊症の治療も始めた。その成果が、昨年実ったわけだ。


(不思議なものよのう、人の縁は)


* * *


 リルダにとっては味気ない昼食が終ると、デンペルトンは弟子に声をかけた。


「では、上に参ろうかのぅ」

「はい、先生」


 二人は工房を出ると、さらに坂道を上る。やがて周囲の桑畑は唐突に終わり、赤茶けた尾根が左右に伸びる。そして、そこから天に向かってそびえたつ、虹色の光の壁。

 この国を、さらには西ユグドラシア全体を、魔の森から隔離する魔法の結界、大障壁グレート・ウォールだ。


「ふむ。三日ぶりじゃが、さほど劣化してはおらんな。しかし、念には念を入れよ、じゃ」


 老師は岩を削って平らにした二メートル四方ほどの台に上った。その平面には複雑な魔法陣が刻まれている。


「五つのエレメンタルよ、わが魔力に応じ世に満ちる魔力をここへ……集約と注入!」


 魔法陣が輝き、そこへ天から無数の光の粒が降り注ぐ。

 それらが全て吸い込まれ、魔法陣の光が消えると、結界の光が少しばかり増したように見えた。

 師匠に並んでその透明な壁のそばに立って、リルダは向こう側を見下ろした。

 山の麓から始まり、地平線の彼方まで続く深い森。恐ろしい魔物が徘徊する、魔の森だ。そこから魔物が湧き上がってくるのを防ぐのが、このグレート・ウォールの役割。


「何度見ても、すごいですね……」

「魔の森が? 結界が? それとも、ワシが?」


 リルダが振り返ると、師匠はニヤっと笑った。


(大賢者って言いながら、変なところで俗っぽいんだよな)


 蛹をよく食うし大酒飲みだし、などと脳内で八つ当たりしながら。


「もちろん、先生です」

「当然じゃ。なので何もでんぞ」


 カラカラと笑いながら、老師は山を下り始めた。リルダも後に従う。


「そろそろ晩酌の酒が切れるな。麓へ買いに行くかの」

「お歳なのですから、少し控えたらどうですか?」


 大人びた弟子の気遣いに、老師はクックッと笑った。


「命を縮める酒なんてのはな、ダイゴのような飲みかたを言うんじゃ。鯨飲つうてな、毎晩、店の酒を飲み尽くしておった」


 この王国を築いた初代国王ダイゴ・メクレンスは、壮年の盛りに急死した。まだ若年い息子が後を継いだが、順調に発展した絹産業と、デンペルトンの薫陶を受けた側近たちがこの国を支えてくれた。

 そこで老賢者は引退し、この大障壁を維持する役目だけを引き受け、ここへ来たのだった。

 建国の英雄とされる亡き盟友ダイゴの、色々残念なエピソードを愚痴りながら、大賢者デンペルトンは弟子と共に山を下りていく。

 リルダは立ち止まって振り返ると、山頂からそそり立つ虹色の大障壁を見上げた。


(あの結界で、この世界は守られている)


「どうしたリルダ? 早く来るのじゃ」


 師匠の声に従い、そばまで駆け寄る。


(なのに誰も、その事とお師匠様を結び付けて考えない)


 老賢者には今、自分しか弟子がいない。会ったこともない兄弟子たちは、国の重鎮として働いている。彼らは魔術師と言うよりも、官僚として育てられたと言う。


(五つのエレメンタルすべてを同時に扱い、この世に満ちる魔力を直接駆使する、あの大魔法。僕が習得できるのはいつになる?)


 治癒魔法を学びつくし、自分にとって大切な人の命を救う。

 それだけを願って転生クーポンを使った。しかし、その先の不安が忍び寄って来る。

 手元にクーポンを出す。既に四枚が減っている。しかし、五十年後の世界の破滅を防ぐ方法は、未だ見えてこない。


(コニル……僕は……僕たちは、果たして前に進んでいるんだろうか)


 山を下りて村の喧騒に包まれるのとは逆に、リルダの胸には不安が渦巻くのだった。


 ……一方、コニルはその年の年末に、人生最大の危機に瀕していた。

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