6-3 見えない救援信号


 ぽたり、と。落下した水滴がコンクリートに濃色の染みを作った。ぽたぽた、ぽたり。次第に速度と質量が増し、変色の範囲が広がっていく。

 背後から、軽い舌打ちが聞こえた。


「降ってきやがった」


 毒吐きながら、化学教師がそらを仰いだ。それと同時に離れていった手の感触に、砂音はそっと、詰めていた息を吐き出した。直後、煙の臭いが一層強まり――再び耳元に寄せられた相手の唇から、声の振動が伝わってくる。


「明日、来いよ。……待ってるからな」


 生温い吐息と共にそれだけ浴びせ掛けると、煙草の臭いが遠ざかる。背後の気配が完全に無くなるまで、振り向いて確認する事もなく、砂音はその場に凍り付いていた。

 ぽつり。頭頂から注がれた雨水が、額から頬へと流れていく。そのまま肌の上を伝い落ち、屋上のコンクリートに新たな染みを作る。俯いた顎から、いくつも、いくつも連なって。

 透明な雫が徐々に床の灰色をどす黒く浸蝕していく様を、砂音はただ、無言で見つめていた。



 ◆◇◆



「あ、降ってきちゃった」


 窓から外を眺めて、小林 マユが呟いた。斎藤 リサと吉田 サエも、釣られてそちらを見遣る。薄暗い灰色の空。カーテンの開かれた硝子窓には、透明な水の線がいくつも引かれ始めていた。


「げ~、ホントだ! 最近、雨ばっか!」

「雨季に入ったからね。仕方ない」


 顔を顰めて嘆いたリサに、サエが淡々と事実を述べる。


「シュカ、大丈夫かなぁ」


 未だ教室に戻らない友人の心配を零したのは、マユだ。それが届いた訳ではなかろうが、噂をすれば影。この時ジャストタイミングで教室の扉が開かれたかと思うと、当の朱華本人が姿を見せたのだった。


「シュカ!」


 三人共が反応を示し、席から立ち上がって彼女を迎えた。


「おかえり~! 雨平気だった?」

「昼休み、あと五分しかないよ。ご飯もう食べたの?」

「五分で掻っ込む」


 友人に短く答えると、朱華は早々に着席し。持ち歩いていた弁当箱を開いて、宣言通り急ぎ食事に取り掛かったのだった。


「……その様子だと、今日もダメだった?」


 続いて成された遠慮がちな質問に、朱華が「うん」と頷くのを待つまでもなく。砂音捜索の首尾に関しては、彼女の意気消沈した様を見れば一目瞭然だった。

 友人三人組が、思わず難しい顔を見合わせる。


「……シュカ、大丈夫?」


 気遣わしげに問うたのは、マユだ。ここ数日、朱華が砂音に会うべく奮闘しているのを、彼女達はずっと見守ってきた。最初、それは温かく、期待の眼差しで。今でも応援する気持ちは勿論変わりないが……。


「シュカの気持ちは分かるけど、無理、してない?」


 元々、自分を振った相手ともう一度話そうなどというのは、どだい無理があったのだ。話した所で、相手の気持ちが変わる訳ではないだろう。

 それなのに、こうして頑張って。空振りが続く度に沈んだ表情を浮かべる友人を見ているのは、彼女達にも辛いものがあった。


 ――辛いなら、やめてもいいんだよ。もう、諦めてしまっても、誰も朱華の事を責めたりなんかしない。

 言外に優しくそう説いてくる友人に、朱華は申し訳ないような気持ちになった。


「心配掛けて、ごめん。でも、あたしは大丈夫。確かに音にぃに避けられてるのは辛いけど。でも……諦めたくないんだ」

「なんで、そこまでして? シュカの事ちゃんと好きになってくれるいい男は、絶対他にも現れると思うけど」


 解せないといった顔で、サエが言う。それを受けて、朱華はどう説明したらいいのか、困ったように苦笑して見せた。


「……そういうんじゃないんだ。あたしは別に、音にぃに好かれたいとか、付き合いたいとか、そういう事は思っちゃいない。ただ……どうしても、伝えたい事がある。それだけだ」


 すると、ますます不思議そうな表情になる友人達。朱華が更に何か言葉を添えるべきか迷っていると、その時――突然天が唸りをあげたかと思いきや、幾許もせずに強烈な光の矢が地上へと降り注いだ。


「きゃっ!」


 凄まじい轟音に、教室内のあちこちから軽く生徒達の悲鳴が上がる。「雷だ」誰かが呟いた。直後に雨足が急激に強まった。


「ビックリしたぁ。近かったね」


 「ね」と、互いの無事を確かめ合うように言い交わす友人達だったが。朱華だけがこの輪に加わらず静寂が返ってきた為、不審に思って彼女らが振り向いてみると――そこには、昼食を摂っていた筈の朱華の姿は無く。弁当箱だけが机上に置き去りにされていた。


「シュカ⁉」


 よく見ると、いつの間に移動したのか、机の下で丸くなって膝を抱えた状態の彼女が発見された。友人達が揃って目を丸くする。


「え、どしたの? シュカ」

「もしかして……雷、苦手?」


 核心を突いたのは、サエだった。ずばり図星だったらしい。びくりと大袈裟に身体を揺らして真っ青な顔を振り上げると、朱華はぶんぶんと首を左右に振って見せた。


「な、な訳ねーだろ! 雷なんて、別に⁉ 何とも⁉」

「いや、バレバレだから。机ガタガタ鳴ってるから」

「えーっ! シュカ、雷怖いの⁉ 可愛い~っ‼」

「ち、ちげーし! 驚いただけだし⁉」


 黄色い声を張り上げるリサに、朱華が慌てて抗議するが。ここで今度は昼休み終了の鐘の音が鳴り響いたのだった。


「あ、やばっ! 授業始まっちゃう!」

「シュカ、お弁当!」

「雷もう大丈夫だから、出といで」


 友人達に促され、慌てて机の下から飛び出すと、結局食べ終わらなかった弁当箱を急いで仕舞う羽目になった朱華だった。

 天はまだ唸りを上げており、いつまた雷鳴が轟くか分からない状態ではあるが、来ると分かっていれば心構えも違う。もう幼い頃の自分ではないのだから、雷なんて、へいちゃらだ。――そう息んでみせた所で、ふと昔の記憶が蘇った。


 あれは、小学生の頃。在学中に不慮の雷に見舞われて、咄嗟に逃げ込んだ階段下倉庫から身動きが取れなくなってしまった事があった。

 休憩時間に一人御手洗に席を立った時だったので、誰にも気付かれてはいなかった。教室に戻らなければ。そうは思ったものの、雷は怖いし、怯える情けない姿をクラスメイトに見せる事も恥ずかしくて……。五時間目の授業が始まる頃合いになっても、そこから動く事が出来なくなってしまったのだ。


 幼い頃から、雷が苦手だった。父に癇癪を起した時の、母の怒鳴り声を想起させたから――。

 あの大きな音が心臓を揺さぶる度に、朱華の身は縮こまり、息が止まってしまうような気がした。

 誰も居ない階段下倉庫。パイプ椅子だの備品だのが置いてあるそこは、鍵が壊れていて密かに入り込める事を彼女は知っていた。窓も無い狭い空間は、何だかシェルターのようで。そこに居ると少しだけ安心感を得られたのだ。


 薄暗い屋内に独りぼっち。膝を抱えて蹲る朱華は、そのまま雷が過ぎ去るのを、ただ震えて待つ事しか出来なかった。

 怖くて。心細くて。どうにかなってしまいそうな時――不意に、聞き慣れた優しい声が、彼女の名を呼んだのだ。


「朱華ちゃん」


 驚いて顔を上げると、そこには思った通りの声の持ち主……砂音が居た。


 ――何で? どうしてここに、音にぃが?


 疑問が表情カオに出ていたのだろう。砂音は心得たように説明してくれた。


「一緒に帰る約束、してたでしょ。でも、朱華ちゃんなかなか来ないし……雷鳴ってたから、もしかしたら、ここじゃないかなって」


 確かに朱華は、砂音とそんな約束をしていたが。いつの間にか放課後が来ていたらしい。五時間目を丸々サボってしまった。


「……なんで?」


 今度は、声に出して訊ねた。


「だって、朱華ちゃん、何か嫌な事とかあると、よくここに来てたでしょ」

「そうじゃなくて、雷……」


 雷が苦手な事は、砂音には愚か、朱華は誰にも告げていなかった。それなのに、何故知っているのか。問われて合点がいったらしい砂音は、「ああ」と手を打って見せた。


「見てれば、わかるよ。俺んちで食事してる時も、雷来たら朱華ちゃん「トイレ」って言ってしばらく戻って来なくなっちゃったし。その後も、顔真っ青だったし。どうしたの? って聞いても、教えてくれなかったけど……」


 他にも、公園で急な雨に降られてトンネルの遊具の中で、共に雨宿りをした際。遠くで雷が鳴ったら、今のように膝を抱えて震え出した朱華の様子を、砂音は見ていたのだ。


「だからきっと、朱華ちゃんは雷が苦手なのかなって」


 「寒くて、震えているだけ」当時の彼女のそんな強がりな嘘は、彼にはお見通しだったのだ。

 それから彼は、蹲る朱華の元に屈み込んで目線を合わせると、宥めるように優しく笑み掛けて――彼女の頭を、そっと撫でた。


「一人で、怖かったでしょ。もう大丈夫だよ」


 途端に、じわりと。胸の奥と目頭が熱を帯びる。危うく泣きそうになって、朱華は慌てて顔を逸らした。


 ――何で、音にぃは。


 朱華が苦しい時、辛い時……分かってしまうのだろう。自分から助けを求める事も出来ない、素直じゃない彼女の声無きSOSを、彼はいつも感知してくれる。


 ――そうやって、いつも、あたしを見つけてくれた。


 急かすでもなく、怯える朱華の手を握り、「自分はここに居るよ」と。「一人じゃないよ」と励ますように。彼女がもう大丈夫になるまで、砂音はずっと傍で寄り添っていてくれた。

 だけど、朱華は知っていた。そんな彼だって、本当は、暗くて狭い場所が苦手な筈なのに――。


 ――音にぃは、弱音を吐かない。


 いつも他者ヒトの事ばかりで。自分の事は、後回しだ。

 昔、かくれんぼをしていて、外で物が倒れて入り口につっかえた所為で、押し入れから出られなくなった事があると。それ以来、暗くて狭い場所がどうにも駄目なのだと、彼から聞いた事があった。

 階段下倉庫は、朱華にとっては安心出来るシェルターであっても、砂音にはきっと、彼の苦手な〝暗くて狭い場所〟だったろうに。


 ――決して、助けを求めて来ない。


 素直じゃない朱華よりも、素直に見える分。他者を優先して我慢してしまう彼の方が、きっと、誰にも気付いて貰えない。

 本当に辛く苦しい時でも。誰も、彼の声無きSOSを受け取る事はないのだ。


 ――あたしは別に、音にぃに好かれたいとか、付き合いたいとか、そういう事は思っちゃいない。ただ……。


 彼はきっと今、開かない扉の前で、暗闇の中――たった一人で、辛く苦しい想いをしている。


 ――見つけてやりたい。


 彼がいつも、そうしてくれていたように。今度は、こちらが。



 ◆◇◆



「……何があった」


 制服も髪も、しとどに濡れた親友の様相に、千真が目を剥いて質した。

 いつもの如く昼休みに突如姿を消した砂音が、授業開始五分前にようやく教室に戻ってきたかと思いきや、これだ。


「……何も。外で昼寝してたら、雨に降られちゃって」


 それだけだよ。と、相変わらず親友は曖昧に言葉を濁した。溜息を一つ。千真は自分の鞄からスポーツタオルを取り出すと、濡れた友を拭ってやるべく、手を伸ばした。

 すると、砂音は思いがけない反応を示した。ハッと息を呑んで目を見開き、触れる前に千真の手を払い除けたのだ。


「あっ……」


 それから、改めて己の行動の如何に思い至ったようで。〝しまった〟……そんな顔をした。


「ごめん。驚いて……」


 すぐにそう言い訳を重ねた砂音だったが、千真はこの一連の彼に違和感を覚えた。様子がおかしいのは今に始まった事ではないが、それも何だか、いつもとも違う。こんな風に彼から拒絶を示された事は、これまでには無かった。

 それに、先程見せた表情――何処か、怯えたような。


 直感した。何かあった。何かあったんだ。親友の心を強く動揺させるような……それも、彼を恐怖させるような、良くない事が。

 胸の奥が凝っていく。今一度。今度は瞬きすらも見逃さないよう、しっかりと向き直り、正面から相手を見据える。


「何が、あったんだ?」


 問い掛けると、重たい沈黙が訪れた。二度目の詰問は、思いの外深く刺さったらしい。それでも、何某か答えようと、砂音が口を開きかけた所で――天に、一瞬の閃光が走った。直後、周囲を震わせる稲妻の炸裂音が鳴り響く。


 教室の面々同様、千真と砂音の二人も、瞬時にそちらに意識を持っていかれてしまった。今しがた光が空を覆った方角に顔を振り向けて、一様に憮然とした表情を浮かべる。


「雷……」


 思わずといったように、呟いたのは砂音だった。

 雷鳴の轟音は、彼の内の遠い昔の記憶を呼び起こしていた。


 ――雷の苦手なあの子は、大丈夫だろうか。


 また一人で膝を抱えて、怯えていやしないか。

 などと考えて、内心で小さくかぶりを振った。自分に、彼女を心配する資格はないだろう。自分から遠ざけておいて、虫のいい話だ。


 震えるあの子の手を、自分はもう、傍で握ってやる事も敵わない。ならばせめて、彼女が現在いまは一人ではない事を。寄り添っていてくれる誰かが近くに居る事を、願おう。


 彼女の幸せだけが、唯一の希望。――例えそこに、己は居なくても。構わないから……どうか。


「……授業、始まるよ。千真。席に着かなきゃ」

「おい、砂音っ」


 話はまだ終わっていないぞ、と。引き戻そうとする友の追及を躱すように、砂音は先刻の質問の答えを投げて寄越した。


「何も。……何も無いよ」

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