6-4 一筋、射し込む。
暗闇が苦手だった。
暗くて狭い場所が、怖かった。
幼い頃に一度、押し入れから出られなくなった事が、あったから。
それ以来、どうにもそうした場所に置かれると、もう二度とそこから出られなくなるのではないかという、閉塞感と焦燥感に襲われるようになった。
純粋な恐怖……けれど。ある時、気が付いた。
暗闇は、怖くない。――そこに、あの
もう二度と、出られなくて構わない。胸を抉る痛みも、癒えなくていい。ずっと、その場に停滞していたかった。
そうして今日も、閉ざした扉に背を向けて、隙間から差し込む細い光から、目を逸らす――。
◆◇◆
雷が連れて来た豪雨は長引く事はなく、五限の終わる頃には
静けさを取り戻した薄曇りの
――良かった。これでもう、
雷鳴の轟く間中、かつての懐かしい記憶が脳裏を巡っては、彼の心に暖を灯していた。それは同時に、目が眩むような強い憧憬をも伴った。
――もう、あの頃には戻れない。
あの頃の自分とは、決定的に何かが違ってしまった。様々なものを、失った。そして、きっとまた――。
不意に、煙草の臭いが鼻先を掠めた気がした。耳朶に纏わり付くような、粘ついた声と共に。
――『明日、来いよ。……待ってるからな』
途端に寒気を覚え、震える己が身を抱く。するとそこに、千真の声が掛かった。
「砂音、お前今日はもう帰れ」
後ろの席の友人は、振り向くとすぐ傍に来ていた。物想いに耽ける内にいつの間にか五限の授業を終えていたらしい。何故? と問うように見つめると、彼は真面目な顔をして言った。
「顔色が悪い。さっき、身体濡らしてただろ。まだ病み上がりなのに、冷やしちまったんじゃねえか?」
相変わらずこの友は心配性だ。温情を嬉しく思う反面、その優しさが痛い。これ以上、誰にも甘える訳にはいかないのだ。口元に苦笑を刷いて、砂音は答えた。
「大丈夫だよ。あと一限だけだし。えーっと、次の授業、何だっけ」
物言いたげな友人を遮るように、教室の壁に貼られた時間割表を確認がてら、目を逸らす。直後、飛び込んできた視覚情報に、砂音は思わず息を呑んだ。六時限目を示す欄には、〝化学〟と書かれていた。――また耳元で囁くあの声が、脳裏に
突如動きを止めて、更に青ざめた砂音に、千真は一層気を揉んだ。やはり昼休みの後から、どうも様子がおかしい。
「おい……砂音、やっぱりお前帰れ。真っ青だぞ」
友人の声に意識を引き戻され、喘ぐように息をして知らず止めていた呼吸を再開させると、砂音は改めて色の失せた唇から、か細い声を漏らした。
「……そうだね。それじゃあ、今日は……早退しようかな」
今度は肯定してみせると、千真は明らかにホッとしたようだった。安堵の表情を浮かべる友の顔を見ながら、砂音の胸中は良心の呵責やらで
自分は今、逃げようとしている――。
「明日……明日は、必ずちゃんと、来るから……」
言い訳のように告げたその言葉の真の意味を、友は知らない。「頑張りすぎんなよ。無理せず寝とけ」と労わられてしまい、罪悪感はいや増した。
「送ってく」
「一人で帰れるよ。千真は授業に出なきゃ。……そろそろ移動しないと、遅れるよ?」
そうして優しい友からも逃げるように、砂音は手早く荷物を纏め始めた。
――そうだ。報いはちゃんと、明日受けよう。
だから今日は、一度帰って、覚悟を固めよう。
逃げるのではない。己にそう言い聞かせて、砂音は揺らぐ心を落ち着けるように、深く息を吐いた。
◆◇◆
「はぁー……」
五限終了の合図を受け、朱華は盛大な溜息と共に机に突っ伏した。どうやら雷が遠ざかるまでの間に、ごっそりと精神力を削られた様子だった。
「シュカ~、大丈夫?」
「ほら、もう雷どころか、雨も大分止んでるよ!」
「よしよし、頑張った」
周りに友人三人組が集まってきて、そんな彼女を気遣ってくれる。
「ん、大丈夫。……アリガト」
こんな事、少し前までの学園生活では到底考えられなかった。自分はなんて果報者なのだろう。弱った心に、優しさがじんわりと染み入る。
もう、一人で隠れて蹲らなくていいのだ。
――それもこれも、全ては音にぃのお陰だ。
「次の授業、音楽だっけ? 音楽室移動しないと」
「シュカ、立てる?」
「流石に平気だって!」
促され、慌てて立ち上がる。照れ隠しに思わずぶすくれた
「歌のテストとか、最悪。サボりたい」
「そんな事言って、サエ歌上手いじゃーん」
「カラオケと合唱曲は違うじゃん。コーラスならマユのが上手い」
「えっ、そうかな。照れる……」
「あたしは? あたしはっ?」
「リサは音痴」
「バッサリ!」
音楽室は、北校舎の三階にある。朱華達の教室棟のある南校舎からは、二階にある渡り廊下を使って行き来が可能だ。そこへ向かう道すがら、友人達の楽しげな会話が繰り広げられていた。朱華が穏やかな気分で聞いていると、不意にリサから話を振られた。
「てか、シュカとカラオケって、まだ行った事なかったよね! 今度行こーよ!」
思わぬ不意打ちに、ついキョトンとしてしまった。
「カラオケ……あたし、そういや一回も行った事ない」
「え⁉ 人生において⁉ 一度も⁉」
「ん。縁がなかったし」
「マジかぁ。じゃあ、絶対行かなきゃ! シュカの初カラオケの相手、ウチらがゲットだね!」
そう言って、三人は嬉しそうに笑い交わして見せた。釣られて、こちらも頬が緩む。――人生初めてのカラオケの約束。何だかこそばゆい。
彼女達とこうして友人同士になれたのも、砂音の言葉があったからだ。
――『喧嘩してもいいから、ちゃんと話そう』
会話をする事の大切さ。彼が教えてくれた。あの言葉があったから。素直に気持ちを伝えられる事が出来たから。……今の自分が居る。
なのに、その言葉をくれた当人と、まだちゃんと話せていない。
――話そうって言ったのは、音にぃの方じゃんか。
内心で、ちょっとむくれてみせる。まぁ、絶対に対話を諦める気は無いのだけれど。
しかし、何かしら方法を考えないと。このまま手をこまねいていては、ずっと平行線のままだ。
――いっそ、授業中に音にぃの教室に乱入して連れ去るか?
不法侵入計画の次は、誘拐計画だ。発想が物騒になりがちなのは、ヤンキー時代の考え方の所為という事にしておこう。
他に手がなかったら本気でそれを敢行しようと密かに心に決めつつ、渡り廊下に差し掛かった時――何気なく見下ろした眼下の光景に、朱華は足を止めた。
「シュカ? どしたの?」
急に立ち止まった彼女に、友人達が不思議そうに声を掛ける。しかし、朱華は答えず。その視線は、一点に釘付けになっていた。
屋根と床と低い柵に分断された限定的な空間から見える外の景色。遠目に見下ろした、そこには。校舎外を一人歩く――たった今考えていた人物の後ろ姿が、あった。
「音にぃ!」
◆◇◆
「じゃあ、気を付けて帰れよ」
「うん。……ありがとう」
千真の見送りを受けて、砂音は下駄箱から外へ出た。
千真はやっぱり、心配症だ。
付き添いは大丈夫だと断ったのに、それならせめて校門までは一緒に行くと言い出した。わざわざ靴に履き替えて貰うのも申し訳ないし、結構だと主張しても、聞かず。最終的に折衷案を取って、下駄箱まで見送って貰う事になったのだった。
――そんな事をしていたら、自分が授業に遅れるかもしれないというのに。本当に面倒見がいいというか。お節介というか。
献身的な友の心遣いに、砂音は内心小さく苦笑した。
迷惑を掛けてしまってばかりで、心苦しい。しかし、今回はここまで付き添って貰って、正解だったかもしれない。
他にも心配して付いてこようとした一定数の女生徒達が居たのだが、全て千真が睨みを利かせて追い払ってくれたのだった。思えばこれまでも、自分の知らない所で、彼にはこうして護られていた気がする。
――千真にはもう、自由になって欲しい。
これからは、朱華だけでなく
深刻に考え込みながら、校門に向かって歩を進めていた時。
「音にぃ!」
不意に、何処かからその声が降ってきた。
〝音にぃ〟……自分の事をそう呼ぶのは、
目が合った。少し距離が有るのに、それがハッキリと認識出来た。数秒間の思考停止。硬直の末に、ハッとして慌てて視線を逸らす。
何故。彼女がそこに。
いや、問題はそこではない。自分はもう、彼女との関わりを絶つと決めたのだ。
――ごめん。朱華ちゃん。
何処か後ろ髪を引かれる気持ちと、彼女の視線を振り払うように。砂音は努めて前を向いた。
◆◇◆
思わず、呼んでいた。遮るもののない声は、風に乗ってしっかりと相手の耳にも届いたようで。眼下の彼が驚いて振り返る様が窺えた。見上げるその瞳と、瞳が合う。
距離を隔てて尚、ここに居るのが朱華だとちゃんと認識したらしい。交わった視線を慌てて逸らされてしまう。――ずきん。胸が、小さく疼く。
砂音はそのまま前に向き直ると、バツが悪そうな様子でそそくさと歩き出した。
朱華の脳内は、混乱を極めた。
何故、彼が外に居るのか。これから六限の授業があるのではないか。移動授業? それにしては、何故一人なのか。それに、向かう先に校舎はない。校門に向かっているように見える。鞄も手にしているようだ。もしかして、帰るのだろうか。もしかして、体調が悪いのではないか。風邪がぶり返したのだろうか。
そんな事を考えている間にも、彼の背中はどんどん遠ざかっていってしまう。
行ってしまう。行ってしまう。今を逃せば、もう二度と会えないのではないか。――ふと、そんな不安が過ぎった。
次の瞬間、朱華はほぼ思考を放棄して、柵の手すりを掴んでいた。
「シュカっ⁉」
唐突な彼女の行動に、友人達がギョッとして制止の声を投げる。しかし、それらを振り切り、彼女はよじ登った柵から外に身を乗り出していた。
――飛べ‼
宙空へと踊り出す身体。直後、見舞われる浮遊感。――なんだって出来る気がした。
◆◇◆
歩き出した背中に、程なくして悲鳴が突き刺さった。
逼迫した音色に、叩かれたように振り返る。見ると、朱華が渡り廊下の柵に足を乗り上げている光景が、目に飛び込んで来た。
「朱華ちゃん……⁉」
何をしているんだ。危ない。まさか――。
止める間もなく、次の瞬間。朱華が、その場から飛んだ。
「……ッ‼」
あまりにも想定外な出来事に、乾いた喉から声にならない声を上げ――砂音は、無意識に駆け出していた。絶対に間に合わない距離。それでも、落下する彼女の元へと、彼は必死に手を伸ばした。
◆◇◆
世界がスローモーションに見えた。
急速に広がる視界。眼下には、こちらに向かって来ようとする砂音の姿。……振り向いてくれたのか。嬉しい。
――音にぃ、今行くからな。
そんなに慌てた顔しなくても、大丈夫だ。二階の高さなんて、なんて事ない。
だから、こんなものは、障害でもなんでもない。
駆け寄る彼の到着を待たずに、朱華の足は地面を捉えていた。猫のようにしなやかな動きで、着地の衝撃を最大限に抑え込む。――よし、成功だ。
未だ余裕のない表情の彼を安心させてやるべく、朱華は微笑んだ。
◆◇◆
目を奪われた。二階の高さから飛び降りた彼女は、何でもない事のように華麗に着地して見せると、笑みを浮かべた。
それは、いつもの不器用なはにかみではなく――地上に舞い降りた女神のように、堂々とした清々しい笑顔だった。
曇天の灰色に囲まれた薄暗い世界に、ただ一筋。雲の向こうの見えない夕焼けの、鮮やかな朱色の光が差し込むように……彼女の居るそこだけが、眩く輝いて見えた。
息を呑んで、瞬間見蕩れた。思わず立ち止まりかけた所に、彼女が呼ぶ。
「音にぃ!」
そうして、彼女はこちらに向かって、地を蹴った。
◆◇◆
――会いたかった。
会いたかった。会いたかった。ようやく、会える。
伝えたい事が、いっぱいあるんだ。
呼び掛けると、彼の元へと。飛び込んでしがみついてもう離さないくらいの心持ちと勢いで、朱華は駆け出した。……つもりだった。
――あれ?
踏み出した一歩は、雨でぬかるんだ泥に取られて、空回っていた。踵が浮く感覚の後、急激に後方に重心が傾く。
待って、待って。それは予想外だ。
油断。無事に着地を決めて弛緩した心と身体が
気が付いた時には、朱華は灰色の空を仰いでいた。直後、背中と頭を強かに打ち付けて、瞼の裏に一斉に星が瞬いた。
「――朱華ちゃんっ‼」
緊迫した砂音の声が頭上から降り注ぐのを聞いたのを最後に、彼女の意識はそのまま真っ白な靄に包まれていった――。
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