6-2 扉一枚の距離


 ――そういえば、コイツもイケメンの類なんだったな。


 などと改めて思いつつ、紅い傘を差した朱華は、隣を歩く黒い傘の千真を横目でチラリと窺った。実際にはギロリと睨んだといった方が良いような眼光の鋭さだったので、視線の圧を感じたらしい当人がこちらを振り返り、眉を顰めた。


「何だよ」


 何か文句あんのかコラ。という文句が聞こえてきそうな目つきの悪さはお互い様だ。


「いや……お前と歩いてると、めちゃくちゃ人に見られるなと」


 先程から……いや、放課後になり、約束通り朱華が千真のクラスまで迎えに行った時から、やたらに周囲の視線が自分達に寄せられているのを感じていた。どうやら普段砂音以外を全く寄せ付けない彼が朱華の呼び出しに応じて共に帰路に就く様が、皆に衝撃を与えてしまったらしい。

 昼休みに食堂で二人で食事してるのを見た! という目撃情報も相俟って、何やら変な噂が立ちそうで困る。傘越しでも容赦なく突き刺さる視線の群れに辟易する朱華を余所に、千真の方などは「もう慣れた」だなんて全く平気な顔で言ってのけるものだから、改めて溜息が漏れた。


 ――やっぱり、イケメンってのも大変なんだな。


 砂音の時にも思った事を再認識する。コイツが砂音とセットで歩いている時なんて、更に倍の視線が集まるのではないか。そこまで考えて、思考は現在の目的へと移り変わった。


 ――音にぃ。


 勢いで見舞いに付いて行くと言ったはいいものの、実際に砂音と会ったら、どんな言葉を掛けるべきなのか。実の所は、全く無計画だった。正直、どう伝えたらいいのか分からない。どうしたら、彼の心を過去の闇から救い出す事が出来るのか。そして、現在の彼の自罰的な行動を止める事が出来るのか。

 分からない……けど、体当たりでぶつかっていくしかない。

 

 朱華が神妙な顔をしていたからだろう。横で見ていた千真が、ふと声を掛けてきた。


「……大丈夫か?」


 思い掛けない気遣いの言葉に、目を丸くして見詰めると、バツが悪かったのだろうか、スイと視線が逸らされる。そんな仕草に、やけに親近感を覚えた。――『千真は朱華ちゃんに似てる』と、砂音が言っていたのを思い出す。


「ああ、大丈夫だ」


 何だか励まされて、力強く一つ頷きを返して見せると、千真の方も小さく首肯を寄越して来た。

 ――大丈夫だ。何があっても、もう諦めないと決めたのだから。


 砂音の住むマンションは、学校から然程遠くない場所にあった。朱華の住むボロアパートとは違い、比較的新しめでなかなかに洗練されたデザインをしている。――家賃、それなりにするんじゃないか? などと朱華が余計な心配をする一方、千真は迷いのない足取りでずんずんと先に進んでいく。通い慣れているのだろう。

 遅れを取らないように彼の後に続いて朱華も勇み足になった。


 エレベーターを使って、四階で降りる。すぐ傍の四〇四号室が、どうやら砂音の部屋であるようだった。……験の悪い数字だが、その分多少安かったりとかするんだろうか、なんて相変わらず金額を気にしてしまう。


「インターホン、鳴らすぞ。隠れてろ」


 千真に促され、朱華は玄関扉の真横の壁に張り付いた。傘もひらひらしないようにちゃんと畳んで、ぴたりと付ける。ここなら、ドアスコープから見られる事もないだろう。カメラ式だとしてもこの場所なら映らない筈だし、砂音が扉を開いたら、すかさず横から入り込める。……発想が強盗じみているのは、この際気にしない。

 千真がインターホンに指を伸ばす。走る緊張に、朱華は喉元のものを嚥下した。数秒後、ポーン、とよく聞く高い電子音が響き、その後暫しの静寂が訪れた。


 ……なかなか出ない。まさか、中で倒れていたりするんじゃないのか? そんな不安が過った時、インターホンからカチリと回線の繋がる音がした。


『……はい』


 横になっていたのだろうか、少しくぐもった応答。でも間違いなく、砂音の声だ。思わず安堵に頬が緩む。それは千真も同じだったようで、ホッと息を吐いてから、改めて告げた。


「俺だ。プリント届けに来た」


 曖昧な名乗りにも関わらず、砂音は『千真』と名を当てたので、やはりカメラ式なのかもしれない。それとも、声で分かったのか。気にせず千真が問う。


「身体の具合はどうだ?」

『まだ熱が下がらないんだ。伝染うつすと悪いから、プリントは郵便受けに入れておいてくれるかな』


 おっと。それでは困る。焦る朱華の心境を察して、千真が食い下がった。


「ちゃんと食ってんのか? お前の事だから、食を抜いたりしてんじゃねーのか。そんなんだと治るもんも治んねーぞ。簡単なものなら、用意してやれるが」


 ナイス千真! 朱華が心中で喝采を送るが、それもすぐに敢え無く却下されてしまう。


『大丈夫だよ。母さんが送って来てくれたものが、まだあるから』


 ぐぬぬ。ついつい歯噛みした。


「少しだけ顔を見せるのも無理か?」

『……ごめん。伝染したくないから』


 取り付く島がない。千真も頑張ってくれたと思うが、万策尽きたようで。


「……そうか」


 遂に折れてしまった。その後、千真への労いの言葉や、明日も休む旨などの連絡を二言三言交わした後、インターホンの回線は無情にもぷつりと切れた。

 再び訪れた沈黙。ややあって、千真が苦り切った表情で朱華の方を見た。


「悪い。……俺も駄目だった」


 今の砂音は、朱華だけでなく親友にも会いたくないらしい。朱華は閉ざされた扉を無言で睨め付け、何かを決意したように、すう、と深く息を吸い込むと――。


「音にぃい~‼」


 扉に向かって、突如大声を張り上げた。これには千真も吃驚仰天で、目を剥いて朱華を諫める。


「お、おい!」


 自ら存在をバラしてどうする! そう言外に突っ込んでくるのが分かったが、朱華はもう構いやしない。このままだと、どうせ会えないのだから。


「また学校で! 待ってるから‼ 早く風邪治せよな‼」


 千真同様、扉の内側では砂音も驚愕に固まっていた。


 ――朱華ちゃん。

 朱華ちゃんだ。


 何故、朱華が此処に? もう会わないようにしようとったのに。――自分は殺人者だと、教えたのに。

 動揺する気持ちとは別に、胸が熱くなるような感覚を覚えた。


 ――それでも……来てくれたのか。


 思わず玄関扉の方を見遣る。あの板を一枚隔てた先、すぐ近くに、朱華が来ている。


「音にぃ!」


 呼び掛けられ、ハッと息を呑んだ。扉を見つめたまま動けずにいる砂音に、朱華ははっきりとした宣言を投げた。


「あたしは! 諦めないから‼」


 ――音にぃの事。


「絶対ッ‼」


 すると、そこで朱華の大声を聞きつけた近隣の住人が玄関から不機嫌な顔を覗かせた。何か文句の一つでも吐いてやろうとしたようだが、そこに居るのが見るからに柄の悪いヤンキー然としたJKだと知ると、中途半端に口を開いた状態で、声を呑み込んでしまった。


「あっ…! サーセン‼」


 朱華が気が付いて謝りを入れると、何も言わずにそのまますごすごと扉の向こうに引っ込んでいった。


「何してんだよ、アンタは」


 呆れたように千真が片手で頭を抱えた。しかし、朱華には後悔は無い。今日伝えたい最低限の事は、これできっと伝えられた。後は、ちゃんと顔を合わせてから、改めて全部、伝えよう。


「悪りぃ。行こう」

「……いいのか」

「ああ。考えてみれば、音にぃ風邪で具合悪いのに、話どころじゃなかったよな。付き合わせて悪かった」


 「ありがとな」と少し決まり悪げに告げると、千真はそんな朱華を見つめ、少し考えるような間を置いてから――。


「アンタは、強いな」


 そう言った。朱華はキョトンと見つめ返してから、次に、ふっと軽く笑みを零した。


「……お前もな。音にぃの事、ずっと見守っててくれただろ。面倒臭がらずに、ひたむきに」


 いくら友人とはいえ、付き合いを辞める選択肢だって、あった筈だ。それでも、千真はそれだけはしなかった。


「お前がそうやって見守って、待っててくれたから……音にぃは、また学校に戻って来られたんだ。お前のお蔭だよ」


 だから、ありがとう。今一度そう伝えると、千真はまたぞろ居心地悪そうにフイと顔を背けて。


「……別に」


 と、答えになっていないような応えを寄越したものだから、朱華はやはり己を見ているような気がして、何だか笑ってしまったのだった。



 ◆◇◆



 朱華の声が聞こえなくなった後も、砂音は暫し玄関扉から視線を外せずにいた。


 ――今、ここを開ければ、きっとまだ会える。


 扉に手を伸ばしたくなる衝動が心の奥底に燻ぶった。しかし、途端にそれを咎める己が居る。


 ――何を考えている。自分にその資格は無い。


 唇をきゅっと噛み締めると、砂音は努めて扉から目を逸らした。振り向いた室内、暗がりのわだかまりには、悲し気な表情カオをした紫穂が佇んでいるような気がした。



 ◆◇◆



 それから、砂音は二日後に無事学校に復帰を果たした。その事をリサ達から聞いた朱華は、安堵すると共に、早速彼に会うべく動き始めたのだったが――これが思いの外困難である事は、すぐに判明した。

 

 ――音にぃ、捕まらねえっ‼


 あちこち探し回っても見つからない彼の姿に、校舎中駆け回った朱華は、息を切らせて立ち止まった。

 周囲を見渡してみると、同じように彼を探しているらしい女生徒達の集団がすぐに目に入った。いつかの昼休み、窓を乗り越えてパルクールしていた彼の姿を思い出し、改めて納得する。やはりあの時も彼は女生徒達から逃げていたらしい。

 

 ――イケメンって、マジで大変なんだな……。


 げっそりと疲労困憊した身で、またぞろそんな事を思う。――音にぃ、病み上がりだろうに、ハードな逃亡生活とか、大丈夫なのか。


 最初の昼休み、朱華は一縷の望みを賭けて例の裏庭へと足を運んだ。しかし、そこに彼が姿を現す事は無かった。……というか、あれでは現わせなかっただろう。以前に砂音はそこで下級生の女子に見つかっていたのだが、その事を何処からどう知ったのか。〝ここは時任君が出没する場所〟として、彼のファンの間には、すっかり伝播してしまったようで。今や休み時間の度、複数の女子グループが裏庭の付近を徘徊して探し回っているのだった。

 朱華もその内の一人とはいえ、まるでハイエナの群れが獲物を求めてうろついているような光景には、ゾッとしたものだった。


 そんな調子で、昼休みには、砂音の姿を見る事すら敵わない。開始と同時に、彼は何処かへ素早く身を隠してしまう。早く授業の終わった他クラスの子達が教室外で出待ちしている事もあるようだが、気が付いたら、一瞬の隙で見逃してしまうのだとか。

 千真に聞いても、彼も砂音の行く先は知らないらしく、途方に暮れる一方だった。

 

 ――校舎って、そんなに隠れられそうな場所、無いよな? 一体、何処に居るんだ?


 昼休みが駄目なら、授業の合間の短い休み時間に、少しでも……と思ったが、それも駄目だった。教室内に居る時は到底中には入れない(追い出される)し、移動授業の際などには、幾人もの女生徒の群れが彼を取り巻いて、とても近付けるような状況ではなかった。また、そうした時に目が合っても、砂音は困ったような顔をして、慌てて視線を逸らしてしまうのだった。――明らかに避けられている。


 だもんだから、登校前や放課後なども当然、論外で。いっそ、自分でも気持ち悪いと思うが砂音のマンションまで突撃しようかとすら思ったが、そこはファン達の間で不可侵条約が為されているらしく、近付こうとすると抜け駆けは許さないとばかりに排除された。何なら、「あなた一色君と噂になってる子でしょ⁉ 一色君も時任君も狙うだなんて、信じられない‼」と恐ろしい噂の情報を聞かされた上に、最優先排除対象としてマークされてしまったくらいだ。


 ことごとく、道は潰されている。なんなのだ、これは。そうこうしている内に、もう数日も何の手も打てずに無為に時を過ごしてしまっていた。やはり休日も駄目だったし、今週こそは――そう思って挑んでも、今日も空足を踏んでしまっている朱華だった。


 ちょっと前までは、毎日逢えていたのに――。

 近くに居る筈なのに、逢えない。ほんの少しの距離が、恐ろしく遠かった。


 ――音にぃ。

 そんなにあたしに、逢いたくないのか?


 不意にネガティブが胸を衝くと、朱華はそんな己を諫めるように頬を両手でぱんぱんと叩いて気合を入れ直した。再びキッと前を向いて、捜索を再開する――その様を。

 窓の向こう、高い視点から、砂音は眺めていた。


「…………」


 現在彼の居るのは、隣の棟。本来立ち入り禁止区域となっている筈の、屋上だった。内側から鍵が掛けられるので、万が一にも見つかる事はないだろう。

 自分を探す朱華の姿をそうして遠目で見つめながら、複雑な心境でいる彼に――後ろから声を掛ける者があった。


「あんまり身を乗り出すと、見られるぞ」


 振り向いた先には、ここの先客である白衣の若い男性教師が居た。手挟んだ煙草から、紫煙を細くくゆらせている。ルックスが良いと女生徒達の間で密かに評判の化学教師だった。


「……先生の煙の方が見られそうですけど」


 冗談交じりに口を添えると、短い笑い声が上がった。


「違いない。……俺が此処で一服してる事は、誰にも言うなよ。ただでさえ、どこも禁煙で吸う場所がないんだからな」


 全く、息が詰まる。そう零すと、煙草に口を付けた。それから、一頻り煙を飲むと、短くなったそれを携帯灰皿の中に押し込み、砂音の横に並ぶ。彼の視線の先を辿り、校舎内外あちこち彼の姿を探し回る女生徒達の姿を見つけるや、大仰に溜め息を吐いてみせた。


「モテる奴も大変だな」


 砂音はそれには何も返さなかったが、構わず、化学教師は続ける。


「まぁ、また逃げたくなったらいつでも此処に来いよ。俺が鍵当番の間は、匿ってやれるから」

「……ありがとうございます」


 その言葉は、砂音の痛む胸にじんわりと染み入るものだった。――良かった。これで暫くは、大丈夫だ。

 罪悪感から目を逸らして、少しの安堵感に、息を吐く。知らず入っていた肩の力を抜いた。……その時。


「何なら、化学準備室の方でもいい。……あっちも、鍵が掛かるし、色々置いてあるからな」


 耳朶に掛かる程の近くで、教師の声がした。不意に距離を詰められ困惑する間も無く、相手の手が腰に触れる感覚に、びくりと竦んだ。

 身を硬くする砂音に、教師は嗜虐的な笑みを口元に刷くと、そのまま下方へと――布越しに臀部を撫ぜるように、ゆっくり手を滑らせる。


「優等生の時任が、〝頼めば何でもしてくれる〟だなんて……。変な噂が立ってて、大変だろう? ……俺は、時任の味方だからな」


 いつでも、頼るといい。――耳元で囁かれた吐息混じりの低い声に、砂音は呪縛に掛けられたように、身動きを取る事が出来なかった。

 煙草の臭いが纏わり付いてくる。何処かで、『これは報いだ』――そう宣告する誰かの声が聞こえた気がした。

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