最終章 砂時計は、もう落ちた。

6-1 君の影


 雨は降り止まない。先刻よりも幾分か弱まった気配のする水音は、しかし今も尚しめやかに聞こえていた。確かめるようにカーテンの端を摘んで捲ると、外はまだ昼日中の筈なのに薄暗く。窓ガラスには表情のない己の顔が映り込んだ。

 少しやつれた面差しには疲労の色が浮かび、目元には隈が出来ていたが。砂音の目を引いたのは、そんなものではない。

 左の耳朶に、今もまだそこにある――紫水晶アメジストのピアス。紫穂のお気に入りの、大切なもの。それは彼にとって、形に残る思い出を嫌った彼女を、唯一偲ぶ事の出来るアイテムだった。


 伸ばした指先が向かったのは、己の実体ではなく、硝子に映る虚像の方。こつりと冷たい透明な板の感触と共に、接地面が僅かに湿る。そのまま虚像のピアスに指先を滑らせると、不意に目前の自分に彼女の姿が重なって見えた。

 それはきっと、己の心が見せている幻影だろう。しかし砂音には、本当にそこに彼女が居るように思えた。


「紫穂」


 幻影の彼女も、記憶の中にある通りの悲しげな顔をしている。思い出すのはいつも、そんな表情の彼女ばかりだった。

 幸せにしたいと。笑っていて欲しいと。ずっと願っていたのに――。


「君はまだ、笑ってくれないんだね」


 幻に声を掛けても、返事がある訳も無く。硝子に映る彼女は、責めるでもなくただ無言でこちらを見詰めていた。

 ――雨は降り止まない。



 ◆◇◆



「――俺がその事を知ったのは、警察から電話が来た時だ」


 食堂の外にはいつの間にか小雨が降り始めていた。陰鬱な空気を演出するような水音を纏い、千真の語りはまだ続いている。

 その衝撃的な内容に、朱華の耳は音を拾いながらも、脳は与えられた情報を処理するのに手間取り、何処か上の空のようにも見えた。


「事件性も無く、被疑者の取り調べでもない、ただの事情聴取だ。本来、身元引受人なんて必要無い案件なんだが……砂音があまりにも憔悴してる様子なのが、心配だったんだろう。一人で帰らせるのは悪手と踏んで、敢えて身元引受人が必要だと砂音にうそぶいたらしい」


 警察は、一人にさせたら砂音が〝恋人〟の後を追うのではないかと、そう考えたのだろう。だから、親しい存在に迎えに来させる事にしたのだ。


「一人暮らしで両親は近場に居ないし、ある程度〝恋人〟との事情を知っている俺の方が適任だってんで俺が指名されたらしいが。……まぁ、砂音は親に心配掛けたくなかったんだろうな。本当なら、俺にも知られたくなかったんだろうが」


 本来の身元引受人だと、友人はあまり望ましくないとされている。被疑者の管理監視の役割が求められるからだ。しかし、砂音の場合は事情が違ったので、千真であっさり話が通った。


 ――『迷惑掛けて、ごめん。千真しか思い浮かばなかった』


 警察署に迎えに行った彼に、友はそう告げた。

 一目で眠れていない事が分かった。目の下には色濃い隈と疲労が深く刻み込まれ、全ての感情が削げ落ちてしまったかのように、虚ろな表情で。焦点の合わない瞳で、何処か遠くを見ていた。痛々しく腫れ上がった左の耳朶には、見覚えのないピアス。

 ヘーゼルの瞳を覗き込むと、そこに焼き付いた惨劇の記録が見えるような気がして……引きずり込まれそうな感覚に陥った。


「……なんて声を掛けてやったらいいのか、分からなかった」


 悲愴な表情よりも、いっそ壮絶な絶望の伝わってくる、友の様子に――掛けられる言葉など、到底思い浮かばなかった。

 事情は警察側から大体聞かされていたので、千真は砂音に深く訊ねる事はしなかった。砂音の方も、己の口からは千真に詳細は何も語らなかった。


「その日は、俺の家に連れて帰った。……マンションには、戻らせない方がいいだろうと」


 なにせ砂音の住むのは、部屋違いといえど〝現場〟のマンションだ。まだ鮮烈に残る記憶を、嫌でも刺激する事になる。


「……夜、アイツはうなされて、飛び起きた。夢に、見たんだろうな……」


 なのに、翌朝にはもう平気だと。マンションに戻ると言い出した。

 止めるべきだった。しかし、実家住みの千真の元では、宿泊が長期に渡る場合、同居人である千真の家族への何らかの説明が必要不可欠になるのは確かで。ありのままを話す事は砂音が望まないし、また何か適当な理由を付けたとしても、肩身の狭い想いをさせてしまう事も分かっていたので、強く引き止める事は出来なかった。


「それから、暫く……アイツは学校に来なくなった」


 度々様子を見には行ったが、会える時と会えない時とあった。顔を合わせても、まるで抜け殻のようで。こちらの声掛けに緩慢に反応を示すものの、心はいつも何処か遠くに向かっているようだった。

 マンションからの引越しを勧めると、「考えておく」と曖昧に濁されて終わったが……おそらく砂音には、その気はなかったのだろう。彼にとってそこは、辛い思い出だけの場所ではなかった筈なのだから。


「あのまま、アイツは駄目になっちまうのかと気を揉んだが……三学期になる頃には、また学校に戻ってきた」


 ――『心配掛けて、ごめん。俺はもう大丈夫だから』


 久方ぶりに学び舎で顔を合わせた友は、そう言って、前までのように穏やかな笑みを浮かべて見せた。

 二学期の間の大幅な休学は、学校側には長らく体調不良に見舞われていた事になっていて。表面上は何事もなく、元通りになったかのように思われた。――しかし。


「大丈夫な訳、あるかよ……」


 砂音の左耳には、相変わらず見覚えのない、女物のような華奢なピアスが鎮座していた。


 ――ああ。

 ようやく、朱華にも分かった気がした。あのピアス……。彼の左耳に違和感を添えていたあのピアスは、きっと。その女性と関連のあるものだったのに違いない。


 ――音にぃ。

 苦しい。痛い。……胸が、締め付けられるようだ。

 彼の横顔に、時折翳したあの影の正体――。


 ――『俺、人を殺したんだ』


 そう告げた、あの時の言葉の、意味。――あなたはずっと、そうやって一人で背負い込んで、そんな風に自分を責め続けてきたのか。

 平気なフリをして、笑って。大丈夫だ、って。自分にも他人にも言い聞かせながら――。


 突然、目眩に襲われたような感覚になった。そんな朱華の様子には気付かずに、千真の言葉は続く。


「授業中に、よく眠るようになった。アイツは夜に受験勉強を始めた所為だって言ってるけど……」


 今でも悪夢に魘されて、夜は眠れていないのではないか。


「その内、『休み時間に仮眠を摂る事にしたから、昼は別行動を取ろう』って言われて……アイツが唯一校内でなら安心して眠れるってんなら、それでもいいかと思ってその提案に乗ったんだが。……どうもそれは、誤算だったようだな」

「誤算?」


 やっとの事で鸚鵡おうむ返しに訊ねると、隣に座る千真は、試すように朱華の方を向いた。


「アイツに関する変な噂……知ってるか?」


 どきりとした。――〝時任先輩は、頼めば何でもしてくれる〟それを聞いた当初、朱華はまさかと笑い飛ばしたものだが……。

 朱華の表情を見て、千真は心得たようで。一つ頷きを返すと、そのまま先を紡いだ。


「アイツを一人にさせたのは、間違いだった。真偽の程は知らないが、アンタにすらそんな話が耳に入るくらいだ。……何か良くない事になってんだろう」


 想起したのは、いつかの昼休み。砂音が下級生の女子に告白されていた現場だ。 


「その話は……本当だと思う。あたしも、見た事あるんだ。音にぃが、女の子にせがまれて、キスを承諾した所」


 千真がぎょっと目を剥いたので、慌ててフォローを入れておく。


「そん時はあたしが止めに入ったから、未遂だったけど!」


 ――だけど。


「そういうような事が……きっと、それまでにもあったんだと思う」


 時にその要求は、キスには留まらない事も、あったのかもしれない。ずきりと、胸が再び痛みを訴えた。――音にぃ。音にぃ。……あなたは。


「音にぃはきっと、自暴自棄になってるんだと思う。自分を責めて……自分に罰を課してるんだ」


 ――ようやく分かった。あなたの、行動の意味。


「止めなくちゃ」


 朱華が力強く言い放つと、千真は少し意外そうに彼女の顔を見つめた。


「……アンタは、今の話聞いても、退かないんだな」


 問われて、朱華は寸の間思案するように黙した。それから、静かに口を開く。


「……正直、驚いたし……音にぃにそんな関係の人が居たってだけでも、ショックだった」


 朱華の知らなかった、砂音の過去と想い人。

 例え、過ちと後悔で塗り潰されていたとしても、そこには確かに、互いを想う強い絆があったのだ。自分などには到底入り込めない――そう、打ちのめされない訳がなかった。


「でも。……音にぃは、あたしが間違った時も、決してあたしの事を見限ったりはしなかった」


 呆れたり、見捨てたりもしなかった。ただ、理解しようと。分かち合おうと……根気強く待っていてくれた。

 朱華が閉ざした扉の外で、彼女がそこから出て来るのを。


「今度は、あたしの番だ」


 ――あたしが、音にぃの扉をノックする番だ。


「千真」

「お、おう」


 不意に呼ばれて、千真は若干気圧されたようだった。気にせず、朱華は重ねる。


「今日は、音にぃの所に見舞いに行く予定とかあるか?」

「……そうだな。プリントを届けに行くついでに、様子を見てくるつもりだが」

「あたしも行く」


 キッパリと、有無を言わさぬ口調で、朱華は宣言した。


「ただし、あたしが居ると知ったら音にぃは会ってくれないだろうから、あたしが一緒って事は内緒にしてくれ」

「なんでだ? つうか、お前らの間に何があったんだ?」


 〝人を殺した〟などという告白は、そうそう飛び出すものでもないだろう。


「それは、まぁ……」


 そういえば、千真にはまだその辺りの事は話していなかったな、と思い至ると。朱華は、やや言い辛そうに全てを白状してみせた。


「告って、振られて、『もう逢わないようにしよう』って言われただ? いつの間に、そんな事に……」

「あたしだって、言うつもりじゃなかったんだよ。でも、気付いたら止まらなかった。仕方ねーだろ!」


 苦み走った表情で千真が溜息を吐き出すものだから、バツの悪さに朱華は思わず言い訳を噛ましていた。


「……ともかく。そんな訳で、音にぃはあたしには会わないつもりでいるから。見舞い客はお前だけって風を装ってくれ」

「それはいいが……どうするつもりだ?」

「物陰に潜んどいて、音にぃが玄関を開いたら、中に雪崩なだれ込む」

「犯罪じゃねえか」

「それしかねーだろ」


 断固とした朱華の主張に、千真は再度大仰に溜息を吐いて見せた。それから、何やら思う所があったようで、ぽつりと零す。


「……にしても、アンタでも駄目だったとはな。アイツが最近、アンタと昼休み一緒に過ごしてるって聞いて、少しホッとしてたんだがな」

「へ?」


 ホッと? それは何故だ? キョトンとする朱華から軽く視線を逸らして、千真は言った。


「……アンタと一緒だと、アイツ前みたいに、楽しそうにしてたから」

「っ!」


 思わず、鼓動が跳ねた。現金なものだ。一度振られているのに。

 それが本当なら、嬉しい……そんな風に思ってしまう。己のしつこさに内心苦笑しつつ。

 でも、好きなんだから、仕方ない。――そう、開き直った。


 ――音にぃ、待ってろよ。嫌だっつっても、逢いに行くから。



 あなたが扉を開けてくれるまで、絶対に諦めないから。

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