5-8 弾けて、散った。
がらがらと。崩れ落ちる音が聞こえた気がした。
築き上げた、張りぼての〝幸せ〟。嘘も真も織り交ぜて、危うい均衡の上に建てられた、二人の城。たった一言で壊れてしまう、脆い砂上の楼閣。
「――大丈夫」
ぱらぱらと。散っていく破片を留めるように、両手いっぱいに掴み取った。
「大丈夫だよ」
さらさらと。掌から零れ落ちていく。大切なものの粒子。
それでも拾い集めて、どうにか繋ぎ合わせて。歪な形を保った。
「俺は、大丈夫だから。……泣かないで」
そう言って、彼女を抱き締めた。ようやく身体が動いた時には、もうきっと、手遅れだと悟っていたけれど。それでも、自責の念に圧し潰されて泣きじゃくる彼女を、精一杯に宥めた。
「大丈夫」
呪文のように、繰り返して。……一体何が大丈夫なのだろう。己でももう分からなくなっていたけれど。それでも縋るように、言い聞かせた。
その日は何とか持ち直した彼女と、曖昧な言葉だけを交わして、別れた。
「今日は、帰るね。……おやすみ」
「……おやすみ」
電気を消した薄暗い自室で一人になると、彼女の放った言葉が何度も脳内にリフレインして、到底寝付けやしなかった。
翌日、砂音は決意した。今日も紫穂の部屋を訪ねると。昨日あのまま一人にさせてしまった事を、後悔していた。彼女が心配だった。一週間後なんて、待てる訳がないと思った。
紫穂の携帯にその旨連絡を入れたが、まだ返事は来ていない。――嫌な予感がした。
気分が優れないと言ってバイトを早退させて貰い、夜の八時頃にマンションへと急ぎ戻った。
雨が降っていた。傘を差すのももどかしい位に、小走りに水溜まりを蹴飛ばして、向かう。その道中、雨音がこれまでの彼女の記憶を呼び覚ましていた。
彼女と一緒の日は、不思議と雨ばかりだったから――。
初めてちゃんと言葉を交わした、あの日。雨上がりの虹よりも綺麗だと思った、彼女の笑顔。
初めて自分の気持ちを自覚した、あの日。義兄への道ならぬ恋心の告白を聞き、彼女の纏う悲哀の理由を知った。いつも悲し気な横顔ばかりの彼女を、幸せにしたいと思った。
初めて共に罪を犯した、あの日。どんな形でもいい。自分は彼女に寄り添って、彼女の為に生きようと決めた。
それからの日々は、例えどんなに歪でも。二人で懸命に幸せを探して歩んだ。
人魚姫が好きだと知った、水族館。水着姿に恥じらっていた、海水浴。「花火は綺麗だけれど、すぐに消えてしまって、何だか寂しい」……そう言っていたのは夏祭り。
「好きだよ」と口付けた頬が、紅葉よりも赤く染まった秋の日。熱心に絵画を眺めている横顔を見つめていたら、「私じゃなくて絵を見なさい」と怒られた、美術館。
寒くなると、暖を取るように狭い室内で二人で抱き締め合った。手を繋いで歩いた、イルミネーションの道。見上げたクリスマスツリーの大きさ。……全部、覚えている。
春には、散りゆく桜の花木を見上げて、ひっそりと彼女が流した涙も……全て。
――愛おしい。
強く、胸に込み上げてくる想いがあった。
彼女と過ごした日々。――彼女の全てが。
愛おしい。大切だ。失いたくない。
――やっぱり、俺は、彼女が好きだ。
好きだ。……どんなに間違った関係だとしても。それでも。
これからもずっと、二人で居よう。
「紫穂」
――今、とても、君に逢いたい。
辿り着いたマンションに飛び込むと、逸る気持ちのまま彼女の部屋まで、エレベーターを待たずに階段を駆け上がる。濡れた靴底がぺたぺたと湿った音を立てて、接地面にスタンプを押していく。
三〇二号室。彼女の部屋の扉が、いつもよりも輝いて見えた。
呼び鈴を押す。……返事は無い。少し待って、再度押す。……やはり返事は無い。
出掛けているのだろうか。それとも、寝てしまっているのだろうか。携帯を取り出して、確認する。職場を出る時に送信したメールへの返信も、来ていなかった。――嫌な予感が去来した。
携帯から電話を掛けてみる。……繋がらない。
「……紫穂?」
焦燥感が募る。突き動かされるように合鍵を使って、解錠した。玄関から見える廊下は、薄暗い。奥のリビングにも電気は点いていないようだ。やはり、留守なのか。
「紫穂。……入るよ」
それでも不安は止まず。砂音は玄関へと足を踏み入れた。ザーザーと、雨音が聞こえる。……屋内なのに、こんなにも大きく響くものだろうか。
いや、違う。廊下の床に、うっすらと光が漏れている箇所がある。あれは、浴室へと続く洗面所の扉からだ。シャワーの音が聞こえているのだ。
――おかしい。
鼓動が、不穏に波打った。
何かがおかしい。シャワーの音は、鳴り止まない。流しっ放しになっているのだ。……何故だ?
それに、多量の水の臭いに混じって……これは、何だ?
何処かで嗅いだ事のあるような……馴染みのある、
――そう、雨曝しの廃工場から突き出した、錆びた鉄パイプのような……。
どくん。鼓動が、一際大きく騒いだ。
どくん、どくん。指先まで心臓になってしまったかのように、喧しく震える。
急速に喉が渇いていく。浅くなる呼吸を鎮めるように、努めてゆっくりと、深く息を吸い込んだ。膨らんだ肺から空気を搾り出すと、砂音は意を決して、先に進んだ。
手探りに廊下の灯りを点ける。瞬時に照らされて、目が眩んだ。眇めた視線の先に洗面所への扉を捉えると、砂音は一度立ち止まり、呼び掛けた。
「……紫穂?」
返事は、無い。
干上がった喉元を、意味も無く嚥下する。洗面所の扉に手を掛け、ゆっくりと開いた。途端に、強くなる臭気と熱気。
やはり照明は点いていた。
シャワーの音に変化はない。ぴちゃぴちゃ、ザーザー。外の雨と似たような、濡れた床を叩く音が途切れる事無く続いている。
曇り硝子越しにぼんやりと見える浴室内にも灯りがあった。……そして、浴槽に寄り添うように蹲る、人影。
頭の中が、真っ白になった。
呼び掛ける声も喉に引っ掛かって出て来ず、掠れた息だけが漏れる。
ぶるぶると震える手で、浴室の扉の取手を掴んだ。施錠されていない事は、ほんの少し開いた隙間が教えてくれている。
人影は、服を着ている。通常、浴室に
何故、服を着たまま浴室に居るのか。……何故。
扉を引く。むわっと、溢れ出した大量の湯気に顔を打たれ、瞬間、目を瞑る。金気臭い臭いが、一層鼻を衝く。熱気の通り過ぎるのを待ってから、そっと瞼を持ち上げた。そこには――。
彼女が居た。
昨夜と同じ服。眠るように浴槽に寄り掛かり、片腕を湯船に漬けて、もう片腕を投げ出した格好で、何かを握り締めている。
「……紫穂?」
赤い。――真っ赤な入浴剤でも投下したのか、赤く染まった湯船は、並々と溢れ。傍らには、勢いよく湯を吐き出し続けるシャワーヘッドが転がっていた。
「……紫穂」
シャワーで酔いを醒まそうとして、こんな所で眠ってしまったのか。――何処か麻痺した頭が、都合の良い解釈を
「紫穂……起きて。こんな所で寝てたら、風邪引いちゃうよ」
穏やかに声を掛けて、身体を揺する。……すると。
ばしゃり、と。なんの抵抗もなく、彼女の身体は傾いで、床に転がった。
弾みで湯船から引き揚げられた彼女の左腕には、ばっくりと。開いた深い裂創……そして、そこから流れる夥しい紅。――赤い入浴剤の正体が、露出していた。
「……あッ」
――血。
血だ。
そう悟ると、一気に総身から、ざぁっと音を立てて己の血の気が引くのを感じた。
「っ紫穂!」
叫んで、彼女の傍らに膝を付く。濡れるのも厭わずに、彼女を抱き起こす。彼女の右手が掴んでいるものが剃刀だと、ここで初めて気が付いた。
彼女の身体はいやに冷たい。鼓動は感じられない。呼気も無い。
「……血。血を止めなきゃ」
それでも砂音が真っ先に思ったのは、それだった。
未だどくどくと鮮やかな血液が溢れ出す彼女の右腕を掴み、己の指先をぎゅっと押し当てる。
しかし、必死な彼を嘲笑うかのように、指先は彼女の血液ですぐに真っ赤に染まっていく。圧迫が足りない。
「駄目だ……っダメだ‼」
押さえる傍から、どくどくと。大量の
留めようとするこの手を擦り抜けて。――彼女の命が流れ出ていく。止まらない。止まらない。
「だめだ、止まらない!」
むっとするような鉄錆の臭いが鼻腔に充満する。
死んでしまう。しんでしまう。このままだと彼女がしんでしまう。だめだ。
「とまれっ‼」
――どのくらいの間、そうしていただろうか。
己の行いが意味を為さない事を完全に理解する頃には、砂音は横たわったまま目を覚まさない紫穂の傍らに座り込み、茫然と放心していた。
見詰める彼女の耳朶には、変わらず
ひんやりとした耳朶に、ごつごつとした、小さな石の感触。それらを愛おしむように指先でなぞり、砂音は眠る彼女を見下ろした。
「……大丈夫。ずっと、一緒だよ」
呟いて、彼女の左耳のピアスを取り外す。それから、壁に設置された鏡に向き直り、映り込む自分の顔に目を遣った。傷一つない滑らかな己の左の耳朶を指先で摘まみ、右手に持ったピアスの細長い金属部位を当てがうと――貫いた。
先が尖ってもいないそれは、肉の弾力の抵抗を受けて簡単には刺さらない。それでも、力一杯に押し込むと、やがて、ぶつりと裂ける音と共に、分厚い耳朶を貫通した。
途端に流れ出す
「紫穂」
自分の左耳に光る紫水晶のピアスを見つめて、愛しい彼女の名を呼んだ。
――ようやく、本当に一つになれた気がした。
◆◇◆
その後、どうやって通報したのかは、記憶にない。気が付いたら砂音は、警察の事情聴取を受けていた。
何を聞かれても、はっきりとした言葉を返せない。そんな彼の異様に憔悴した様に、担当した警察官は、やや面食らっていたようだった。
「――それで、彼女との関係は?」
その問いに、初めて面を上げて、砂音は正面に茫洋とヘーゼルの瞳を向けた。
「……俺は、彼女の……」
――何だったのだろう。
恋人――胸を張って、そうは言えない関係だった。
途中で言い淀んだ彼に、警察官は眼光を鋭くする。赤く腫れ上がって、じくじくと熱を有する左耳に嵌め込まれた紫水晶のピアスは、今回発見された死者のものと同じだと気が付いていた。
やがて、焦点を結ぶようにして、ヘーゼルの瞳が相対する警察官の顔の上で定まると、彼は
「俺が、彼女を殺しました」
突然の告白に、警察官が目を剥いた。
「俺が、彼女を殺したんです。……だから、死刑にして下さい」
譫言のように繰り返す彼の言葉は、しかし聞き入れられる事は無かった。
第一発見者という一番に怪しまれる立場であり、殺人の自供をしたにも関わらず、砂音はあっさりと解放された。
状況証拠的にも、紫穂の死は明らかに自殺であり、他殺の余地はなく。更に部屋には彼女の自筆の遺書まで残されていたのだそうだ。
遺書の存在になど全く気が付いていなかった砂音は、警察官からその事を聞かされて驚いた。それは、砂音宛てのもので――こう書かれていた。
『砂音へ。
こんな事になってしまって、ごめんなさい。
貴方との関係は、貴方を傷付けるだけのもの。そう分かっていたのに、臆病な私は一人になる事を恐れて、貴方を手放す事が出来なかった。
貴方はどこまでも優しくて。どこまでも私を赦してくれる。私はそんな貴方の優しさに甘えて、どこまでも身勝手に縋り付いてしまう。――そうして、どんどん自分を嫌いになっていく。
だから、もう終わりにしましょう。
私は、私の死を
こんな手段しか取れない、弱い私でごめんなさい。
貴方は何も悪くない。どうか自分を責めないで。
そして、どうか私を忘れて。幸せになって欲しい。――紫穂』
〝貴方は何も悪くない〟――その一文に目が留まると、砂音は唖然となった。
「……どうして」
――悪いのは、俺だ。俺が、君を追い詰めた。
俺が、君を縛り付けて。罪悪感で圧し潰したんだ。――なのに。
彼女は、そんな彼を責めなかった。いっそ、恨み言の一つでも叩きつけてくれた方が、余程良かったのに。
警察も、彼には何の罪も認めなかった。
葬式で初めて顔を合わせた紫穂の両親に至っては、砂音に同情まで寄せた。砂音の容貌が彼女の義理の兄に似ているのを見て、彼らは何も言わずとも色々と察したらしかった。――彼女の道ならぬ恋は、親に気付かれてしまっていたのだ。
「娘が迷惑を掛けてしまって、申し訳ない」――殴り飛ばされる事すら覚悟していた筈の彼女の父親には、そうやって、頭を下げられた。
――どうして。
どうして、誰も俺を責めない。
どうして、誰もかれもが、俺を赦そうとする。
悪いのは、俺だ。俺が、悪いのに――。
「――誰でもいい」
誰か、俺を――。
彼女と同じマンションから、砂音は敢えて引っ越さない事にした。夜、彼女の居ない部屋で一人になると、決まって彼女の事を思い出した。眠ろうとすると、彼女の夢を見た。浴室で彼女を発見した、あの時の夢を――。
幸福を願った人魚姫は、しかし運命の筋書きに負けて……原作の童話の通りに、泡となって消えた。
そんな悲しい結末、誰が望んだろう。
目を覚まして、空虚な隣に。彼女の喪失を想い知らされる度、砂音は気が狂いそうになった。己を呪った。
それでも彼女の後を追わなかったのは、彼女が逢いたいのは――彼女が待っているのは、自分では無いと、知っていたからだ。
彼女の形見の紫水晶のピアスの存在だけが、彼の心の拠り所となった。
雨の日の夜、彼女との思い出の切れ端を集めに、街へ飛び出した。傘も差さずにふらふらと。
歩き疲れて路地上に座り込んでいると、不意に声を掛けられた。
「ねぇ、君。そんな所でどうしたの?」
それは、派手な格好をした、見知らぬ大人の女性だった。
「高校生? こんな夜中に、そんな所に居たら、補導されちゃうよ? それじゃなくても、こんな雨の中居たら、風邪引いちゃうし」
――誰でもいい。
顔を上げて、見詰めると、女性はハッと息を呑んだようだった。
「キミ、可愛い顔してるのね。ねぇ……お姉さんが、拾ってあげようか? お代は、身体でいいわよ?」
なんて、冗談めかして笑って見せるが、その瞳には紛れもない情欲の色が映っている事を、砂音は見逃さなかった。
誰か、俺を――。
「……いいよ」
寒さに震える唇で、しかしはっきりと、肯定を返した。
――罰してくれ。
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