5-3 思慕
その日以来、彼女は以前よりも打ち解けてくれるようになった。相変わらず砂音を見る表情には悲哀が混じるが、声を掛けられてもすぐに目を逸らすという事は――当人が意識して改善を試みているからだろう――なくなった。
砂音の方もこれまでよりも彼女の事を気に掛けて、積極的に話すようになった。その様を見ていた先輩からは砂音が彼女に気があるものと思われたようで、彼女の来店の度「ラベンダーの君が来たぞ」と揶揄い混じりに報告されては、気を利かせたつもりか応対を回されたりした。
その内に〝ラベンダーの君〟という呼称が当人の耳にも入ってしまい苦笑を招いたが、彼女
彼女……紫穂は、大学三年生。高一の砂音より四つも歳が上だった。私大の文学部で日本文学を専攻しているらしい。時折ノートパソコンを持ち込んで、レポートを作成している姿も見掛けた。
「私の方が年上なのに、兄みたいだなんて言うのは、変よね」と、彼女は申し訳なさそうに笑ったものだ。
自分に似ているとは聞かされたが、その兄という人がどういった人物なのか、砂音は知らないままだった。紫穂があまり話したがらなかったからだ。たまにぽろりと兄の話題を口の端に登らせる事もあったが、その度に何処か辛そうな顔をして、それ以上の話を止めてしまう。やはり彼女にとって兄の事は、何処か触れてはいけない禁忌の類であるようだった。
紫穂の兄は、おそらく既に故人なのではないか。というのが、砂音の立てた予想だった。もしかしたら、今の砂音と同じくらいの年齢の時に儚くなったのかもしれない。だからこそ、砂音にかつての兄の姿を重ねてしまい、感傷的な気分に見舞われるのではないかと思った。
それらの勝手な推測の答えは、図らずも近日中に与えられる事となった。――そう、その日もまた、雨が降っていた。
しとしと、サーサー。いつかよりも、ずっと静かな雨だった。湿り気を帯び、肌に纏わりついてくる制服のシャツを鬱陶しげに指先で引き剥がしながら、砂音は群青の傘を片手に道を歩いていた。今日はカフェのバイトが休みなので、部活動の後は直帰の予定だった。この頃はまだ実家通いで電車通学だった為、学校から最寄りの駅まで向かっていた。
駅前通りのビル群の中、大型デパートの前にぽつりと一人、見知った顔を見つけた。そぼ降る雨に急かされ、皆が立ち止まる事無く足早に通り過ぎる中、一人取り残されたように佇むその姿は目を引いた。間違いない。そこに居たのは、あの
「紫穂さん!」
声を掛けながら、小走りに駆け寄る。迫り出した庇の下で茫洋と遠くを眺めていた様子の彼女は、突然の呼び掛けに、弾かれたようにこちらを振り向いた。
「砂音くん」
瞠目する紫穂に微笑を向けると、砂音は改めて彼女の現在の状況を確認した。大きなショッピングバッグを提げているのでどうやら買い物後のようだが、その手にはまたもや傘が無い。……もしかして、ここで雨宿りをしていたのか。
「また傘を忘れたんですか」
悪戯っぽく訊ねてみると、紫穂は苦笑を返した。
「いえ、今日はちゃんと持って出たの。だけど、お手洗いに寄ったら、置いて来てしまって……。取りに戻った時には、もう無かった。きっと、誰かが持って行ってしまったのね」
そう言って横を向くと、彼女はまたぞろ遠くを見るような目をした。
「傘くらい、買えば済む話なんだけど。何だか悔しくて」
横顔に、いつもの悲哀が滲む。それを見ていると、胸を抓まれる想いがして……砂音は己の青い傘を示して、打診した。
「良ければ、入りませんか? 近くまで送っていきますよ」
すると紫穂はキョトンとした目を再びこちらに向け、その後口元を緩めて、ぽつりと零した。
「そういう事がすんなり言えちゃうのって、砂音くんらしいね」
通常ならば、下心があるものと見做して女性が警戒し兼ねないような誘い文句だ。それを自然と、しかも他意なく言えてしまう辺りが、彼らしいと思った。――きっとこれまで、相手に拒絶されたりした事が無いんだろうな。イケメンだもんね。
そんないじけた考えが過り、彼女は酷く罪悪感を抱いた。しかし、砂音にはそれらは伝わっていないようで、彼は無邪気に小首を傾げてこちらを見つめていた。
「ありがとう。でも、気にしないで。このまま、止むのを待つつもりだから」
「だけど、そんな所に居たら、身体冷やしちゃいますよ。せめて中で」
「いいの、ここで」
すっぱりと告げると、砂音はやや困惑の色を浮かべた。紫穂の持つ重そうなショッピングバッグを指して、気遣わし気に忠告する。
「でも、それも濡れちゃいますよ」
購入したばかりのものが入っている筈のそれを、雨で濡らしてしまって良いのか。そう問い掛ける彼に、紫穂は再び斬り付けるように短く応えた。
「いいの」
その頑なな調子に、何か感じ取るものがあったのだろう。砂音がスッと真剣な表情になる。
「何か、あったんですか?」
紫穂は、すぐには答えない。顔を背けたまま黙す彼女に、砂音は「俺で良ければ、話聞きますよ」と、またもや彼らしい申し出をした。真摯な言葉と瞳に晒されて、意地を張り続けている事は難しい。やがて紫穂は、根負けするように、ふっと口元に小さく苦笑を刷いた。
「砂音くんは、本当に優しいね。……そんな所まで、兄さんに似てる」
〝兄さん〟――そう口にしてしまうと、強がりな虚栄心などぽろぽろと剥がれ落ちてしまった。紫穂は、ショッピングバッグに視線を落として、話し始めた。
「これ、ドレスなの。結婚式の。今月末、兄が結婚するの」
砂音は、驚いて瞬間硬直した。兄の、結婚式。――お兄さん、生きてるんだ。
内心で失礼な感想を抱いてしまってから、砂音は慌ててそんな己を叱咤し、こういう時のお決まりの文言を口にした。
「それは、おめでとうございます」
しかし、紫穂の表情は重たい。砂音が顔に疑問を浮かべるのを見て、少しだけ迷うように瞳を揺らすと、彼女は吐露した。
「……出たくないの。結婚式。だけど、親族だから。そうも言っていられなくて。気億劫で、ドレスの準備もこんなギリギリになっちゃった」
――それは、何故。
「お兄さんの事、苦手なんですか?」
「好きよ」
躊躇いがちに訊ねる砂音に、紫穂は殆ど被せ気味に、きっぱりとそう告げた。それから、今一度――砂音のヘーゼルの瞳を正面から見据えて、言う。
「好き。……兄として、じゃなくて」
――男の人として。
「血は繋がってないの。幼い頃、両親の再婚で……連れ子同士。よくある話でしょ?」
そう問われても、砂音は答えられなかったし、彼女も答えなど求めてはいなかった。衝撃的な告白に声を失って固まる彼を余所に、紫穂は続けた。
「兄は優しくて、カッコ良くて……泣き虫で臆病な私を、いつも助けてくれた。私のヒーローだったの」
――だけど、血の繋がりは無くても、兄妹だから。……好きになっちゃいけない。
そう必死に自分に言い聞かせてきた。けれど、思えばその時点で、もう手遅れだったのだ。
「年頃になって、兄に恋人が出来て……その度に私、彼女に嫉妬したわ。私の方がずっと兄の傍に居たのに。私の方がずっと兄の事が好きなのに。どうして、兄妹というだけで、私は選ばれる事は無いの?」
それどころか、この想いを伝える事すら出来ない。許されない。
兄の恋人が、羨ましかった。恨めしかった。
「兄が一足先に大学生になって、一人暮らしする事になった時は、ホッとしたわ。傍に居なければ、別々に住んでいれば……その内きっと、この想いも消えるんじゃないかって思った。だけど、駄目だった。私はどうしたって、兄の事を忘れられなかった」
他の男の人と付き合ってみたりもした。いつか、兄よりも好きになれる人が出来るんじゃないかと、期待して。――でも、それもまた、駄目だった。
深く長い溜め息を吐いて、紫穂はショッピングバッグを抱き締めた。紙製のヤワなそれは、既にしっとりと冷たい。
「結婚式なんて、出たくない。兄の隣で幸せそうに笑うお嫁さんなんて、見たくもない。こんなドレスだって、いっそ駄目になってしまえばいいと思うのに……。それでいて、放り出す事も出来ない。中途半端で、臆病で」
ドレスを抱えた腕に、力が籠る。ぎゅうっと、憎くて捨ててしまいたいのに、手放せない。そんな矛盾を示すように、彼女の腕は震えていた。
「煌びやかなウインドウに囲まれて、楽しそうに笑う人達の中に居ると、自分が酷く惨めに感じられて……それで、逃げ出して来たのに。結局、雨に阻まれて何処にも行けないの」
傘を……大事なものを、他の誰かに奪われて、身動きも取れない。
――笑っちゃうでしょ?
「あまりにも駄目な女で、呆れたでしょ?」
口元を自嘲に歪めて、紫穂は嗤った。……己を。己を取り巻く運命の残酷さを。それは諦観にも似た、酷く乾いて疲れた笑みだった。
「――駄目じゃない」
不意に突き付けられた言の葉は、砂音から発せられたものだった。彼は、慄く事も蔑む事も無く、変わらぬ真摯な瞳のまま、彼女を見つめていた。
「呆れる訳がない。だって紫穂さんは、お兄さんの事が大切だから。だから、自分が辛くてもちゃんと祝福しようとしてるんじゃないか」
結婚式に出たくないのなら、無理して出る必要もない。親族だからといって必ずしも出席しなければいけないなんて事は無い。何かしら適当な理由を付けてでも拒んでしまえばいい。――それでも、彼女が出席を決意したのは。
兄に……自分の好きな人に、幸せになって欲しいからだ。
「そうやって、これまでもずっと、お兄さんの幸せを願って……紫穂さんは、自分を押し殺して見守ってきた」
嫉妬して、恨めしくて。それでも兄の意思を尊重して、兄の幸福を壊す事無く――。
「立派だよ、紫穂さんは。凄く頑張ってる。そんな人の事、笑えないよ」
決然と紡がれた彼の言に、胸の奥がぎゅっとした。見開いた瞳が雨以外の水分で潤むのを感じて、紫穂は慌てて顔を逸らした。
『立派だ』なんて、そんな風に言われたのは初めてだった。自分のこの気持ちは、ただ
――『凄く頑張ってる』
――『立派だよ』
誰かに、ずっとそう言って貰いたかった。
「……砂音くんは、本当に優しいね」
先程と、同じ言葉が口を衝いて出た。――そんな所まで、兄さんに似てる。
続きはそっと、胸中に留めて。
そうだ。だからきっと、誰にも話した事のない自分の想いを、こんな四つも年下の男の子に話してしまったのだ。
紫穂は笑った。今度は、見ている者の心も温めるような、穏やかで優しい笑みだった。
「ありがとう……聞いてくれて。何だかスッキリしたよ。結婚式、ちゃんと祝福出来そう」
「応援していてね」――綺麗に微笑んで、真っ直ぐにこちらを見上げて来る彼女に、砂音は同じように笑みを返した。ふわりと柔らかく……けれど、その裏で。
――俺じゃ、駄目ですか?
喉元まで出掛かった言葉に驚いて呑み込んで……この時初めて、砂音は己の気持ちを知った。
それは、自覚した途端に失恋が決まっていた、手遅れの恋だった。
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