5-4 堕ちる。


 いつも彼女の横顔を見ていた。物憂げに何処か遠くを見詰める瞳が、自分を映す事は無い。――いつからだろう、振り向かせたいと思ったのは。

 その容顔を彩る悲哀の意味を、知りたかった。彼女の心に降る雨を、晴らしたい。笑って欲しい。――幸せにしたいと、願ったのは。


「……砂音。そこは口じゃない」


 おい、と少々慌てた様子で千真が声を掛けるも、当の本人は気が付く様子もなく。隣にぽかりと空いた口をそのままに、箸で摘んだ唐揚げを自分の頬にぐいぐいと押し付け、しまいにはぽとりと食堂のテーブル上に落下させた。


「あー、ほら、何やってんだ」


 呆れた調子で溜息を吐きながら傍にあった紙ナプキンで頬を拭ってくれる千真の行動で、砂音はようやく物想いから帰還したらしい。ハッとして、「ごめん」と小さく謝った。そんな彼に、千真は気遣わしげな視線を向ける。


「最近、いつにも増してぼーっとしてんな。何かあったのか?」


 唐揚げに限った事ではない。今日は授業中も教科書を上下逆に開いたまま思考の旅に出ている姿を目撃しているし、体育では体操着も裏表逆に着ていた。挙句、それを指摘したらその場で脱ぎ出すものだから、チラチラこちらを窺っていたらしい女子のコートからはどよめきと悲鳴が沸き起こり、何人か鼻血で保健室に運ばれる大惨事にまで発展していた。

 この友人はいつも大概ぼんやりとしているが、それが最近は輪を掛けて顕著に悪化しているのだ。理由を問うと、果たして彼は意を決したように真摯な眼差しで、こうった。


「……千真。俺、好きみたいなんだ」

「っはぁ⁉」

「好きな人が居る人を好きになったら、どうしたらいいと思う?」

「……」


 何だ、吃驚した。あんまり真剣に見詰めて言うものだから、一瞬自分に言われたのかと思って、焦った。思わず引っくり返った声を上げてしまった己を内心恥じながら、改めて千真は砂音の言葉を吟味した。


「……誰か好きな奴が出来たのか」


 確認の質問に、砂音はこくんと生真面目に頷きを返した。

 マジか。こりゃ、コイツのファンの女子共が知ったら卒倒するな。なんて思いつつ、一応訊ねてみる。


「この学校の誰かか?」


 砂音は、今度は左右にかぶりを振った。


「バイト先の常連さん。大学生」


 年上か。それも、他に好きな人が居る、と。どうやら友人は相当面倒な相手に恋をしてしまったらしい。

 コイツなら他にどんな奴でも選り取りみどりだろうに、何だってそんな……。呆れるべきか感心すべきか迷ったように小さな溜息を吐き出すと、千真は友人に向き直った。


「相手の好きな人ってのは、恋人か?」


 また左右にかぶりが振れる。


「片想いか。なら、いいんじゃねえか。付き合ってる訳じゃないんなら、お前にもチャンスはあるだろ」

「……そうかな」


 何で自信無さげなんだよ。お前のルックスならチャンスどころか相手も簡単に落ちんだろ。……などと粗野な感想を抱いてしまったが、流石にそれは口にしないでおいた。代わりに、首肯を返してやる。


「まぁ、何かあったら相談くらいには乗ってやるよ。だから、昼飯くらいちゃんと口で食え」

「ありがとう……。何か千真、母さんみたいだね」

「はぁ⁉ そこは、父親……っつーか、お前みたいなデカいガキ持った覚えはない! せめて、兄貴とかにしろ!」

「兄貴……」


 そこで不意に、砂音の表情が曇った。今度は何だ? と怪訝に思っていると、彼はこんな事を訊いてきた。


「お兄さんみたいっていうのは、どう思う?」

「は?」

「……ごめん。何でもない」


 本当に何なんだ? 千真の膨らむ疑問には答えを寄越す気は無いらしく、砂音はそのままテーブルに落ちていた唐揚げを箸で掴んで、ぱくり。今度はちゃんと口に運んだ。


 自分の気持ちを自覚した所で、砂音はどうすればいいのか分からなかった。何せ、誰かに恋をしたのは生まれて初めてだったのだ。


 ――いや、初めてだったかな?


 ふと、懐かしい面影が脳裏を掠めた。くるくるとした短い赤髪の、活発そうな、男の子のような女の子。小学生の時の幼馴染だった。名前は、朱華ちゃん。よく一緒に夕食を摂るくらい仲が良かったのに、最後はすれ違ったままに喧嘩別れのようになってしまった。その子の事が、未だにずっと心の何処かに引っ掛かっていた。

 けれどそれは、ああした不本意な別離を迎えてしまった経緯があるから気になっているのであって、恋というのとは少し違うのかもしれない。……たぶん。


 恋って、何だろう。よく分からない。何故紫穂を好きになったのかさえ、砂音にはよく分かっていないのだ。それでも一つ確かな事は、彼女に笑っていて欲しい、彼女を幸せにしたいという気持ち。……それだけだった。

 想いを伝える事すらも、この時はまだ考えていなかった。きっと、彼女を困らせるだけだと分かっていたから。――だから、あんな事になるなんて、砂音は思ってもいなかった。


 それは、その月の終わり頃。砂音がバイトを終え裏口から退店した所、薄暗い路地裏の道に誰かが膝を抱えて蹲っているのが見えた。


「どうしたんですか? 何処か具合でも」


 慌てて駆け寄り、声を掛けると、その人物が伏せていた面を上げた。街頭に照らされたその顔に、砂音はハッとして目を瞠った。――紫穂だった。


「紫穂さん? どうしてこんな所に?」

「あ~、砂音くんだ~。遅いぞ~!」


 おや? と思った。何だか様子がおかしい……というか、呂律が回っていないし目は据わっているし、おまけにラベンダーの香水の香りに混じって、ふわりと酒気が漂っている。


「紫穂さん、もしかして酔ってます?」

「なにをぅ! 私はもう二十歳だから、いいんだもん!」


 これは完全に酔っている。普段の上品で清楚な様子の彼女からは掛け離れた状態に、何かあったのか……と考えて、思い至った。そういえば、そろそろ紫穂の兄の結婚式が執り行われた頃ではないのか。砂音の予想を裏付けるように、彼女は言った。


「だってね~、聞いてよ、砂音くん! 兄さんったらね、誓いのキスで本当にキスしたんだよ⁉ ああいうのって、実際は頬とかにしない⁉ なのに、唇にする⁉ 見せ付けてくれちゃって~! 飲まなきゃもう、やってらんないでしょ!」


 やはり結婚式があったのだ。もう普段着には着替えているようだが、もしかして披露宴後も二次会やら何やらでずっと飲み続けていたのではないか。


「紫穂さん、大丈夫ですか? もしかして、ここで俺の事、待っててくれたんですか?」

「だって、砂音くんには話聞いて貰ったからぁ……報告っていうか? 私、ちゃんと頑張って〝祝福〟出来たんだよ? 偉いでしょ!」


 えへん、と誇らしげに胸を張る。いつもはしっかりとして大人然とした彼女が、今はまるで幼い子供のようだ。砂音は目を丸くした。けれど、例えべろんべろんに酔っぱらった状態とはいえ、自分の所にこうして会いに来てくれたという事実が、何だか嬉しかった。自然と、頬が緩む。


「そうだね。紫穂さんは頑張ったよ。偉い偉い」


 よしよし、と。それこそ幼子にするように優しく頭を撫でて労うと、今度は紫穂の方がキョトンとした。次に、くしゃりと顔を歪ませたかと思うと――。


「うわぁああああああんっ‼」


 突如、大声で泣き出した。溜まっていた色々なものが、一気に噴き出したのだろう。駄々を捏ねる子供のように、何のてらいもなく手放しに感情を放出する彼女の反応に、少々面食らう。けれど、それだけ辛かったのだろうと思うと、胸が傷んだ。このまま思う存分泣かせてやりたい所なのだが、どうも通行人の視線が刺さる。細い路地裏といえど、まだ夜の十時。人はそれなりに通るのだ。


「紫穂さん、分かりました。話はいくらでも聞きますから、とりあえず移動しましょうか」


 泣きじゃくる彼女の肩に手を添えて促してみると、濡れた顔を上げて紫穂はぱちくりと瞬きをした。二重の意味で晴れの日だから気合を入れたのだろう、いつもよりも濃いめのアイメイクはすっかり落ちて目の下を隈のように黒く染めていた。何を言われたのか考えるような間を置いてから、やがて理解が追い付いたようで、急に明るい声を出す。


「もう一軒行っちゃう~⁉ いいけどぉ、砂音くん未成年でしょぉ⁉ お酒は駄目だぞ~!」

「飲まないから、大丈夫ですよ」

「それじゃあ、私のウチ来る? ここから近いんだよ~」

「それは流石に遠慮します」

「え~」

「というか、立てますか? 手を貸しましょうか」

「立てるよ~!」


 と言った割に、紫穂は立ち上がろうとして、盛大にふらついた。慌てて砂音が彼女を支えると、間一髪のスリルが楽しかったのか、紫穂はけらけらと笑い出した。泣き上戸なのか笑い上戸なのか分からない。まぁ、彼女が楽しそうならいいかな、などと砂音が甘い事を考えていると、つい今し方まで愉快な笑い声を上げていた紫穂が、不意に静かになった。

 訝しんでそちらを見下ろすと、彼女の顔は、すっかり青ざめており――。


「きぼぢわるい」


 呟いた途端、砂音の胸元に向かって思い切り吐瀉物をスプラッシュした。



 ◆◇◆



「砂音くん、ほんっっとごめんなさい……」


 両手で頭を抱えながら、紫穂が消え入るような声で謝罪の言葉を口にした。お風呂上りでぴかぴかになった砂音は、何とも言えない困った笑顔でもって、それを受けた。


「いえ、何かこちらこそ。結局お邪魔してしまって、シャワーまでお借りしてしまって」

「それはだって……私の所為だし」


 あの後、紫穂は一頻り吐くとスッキリしたようで、酔いがめてから己のしでかした事に改めて打ち震えたのだった。そして、吐瀉物まみれの砂音をそのまま帰らせる訳にはいかないと、遠慮する彼を強硬に説き伏せてとにかく自分の住むマンションの一室まで連れて来た。

 紫穂は現在、一人暮らしだった。彼女の言葉通り、砂音のバイト先のカフェから程近い場所に住んでいた。だからこそあのカフェの常連だったのだろうと合点がいく一方、彼女の部屋の荒れ具合は少々意外だった。汚部屋とまではいかないが、足元に無造作に積まれた書類の山が崩れるに任せて散乱していたり、色々と整理整頓が間に合っていない様子だった。清楚なイメージのある紫穂の意外な姿を今日は沢山知ってしまったようで、何だか逆にこちらが申し訳ない気がした。


「制服のクリーニング代も、私が出すから。ていうか、替えとか大丈夫?」

「平気です。家に予備があるので」


 今はとりあえず汚れた学生服を脱いでバイトのシャツとズボンに着替えていた。紫穂の方は崩れたメイクを落としてすっぴんを晒しているが、普段が薄化粧なのであまり印象は変わらない。


「紫穂さんの方こそ、身体もう大丈夫ですか?」

「うん……もうすっかり、酔いも醒めたから。本当に、迷惑掛けちゃって、ごめんね」


 そう委縮する紫穂があまりに小さく頼りなく見えたので、砂音は彼女の頭をそっと撫で、安心させるようにふわりと微笑んで見せた。


「迷惑だなんて……俺、ちょっと嬉しかったんですよ。紫穂さんが、俺の事頼って来てくれたの」

「え?」

「あんな泥酔した状態でも、ちゃんと頑張った事俺に報告しようって、会いに来てくれたんでしょ?」


「嬉しかった」――砂音がもう一度言うと、紫穂は瞠目した。


「何で……砂音くんはそんなに優しいの? そんなだから、私、甘えちゃったんだよ」


 ――また「頑張ったね」って、言って欲しくて。


「それで店まで会いに行って、待ち伏せなんて……我ながら、気持ち悪い」

「いいよ、もっと甘えてよ。だって紫穂さんは、これまで沢山辛い想いをして、頑張って来たんだから。今日くらい、甘えたっていいんだよ」


 見上げてくる彼女の丸い瞳に、今一度優しく笑み掛けて肯く。それからふと気が付いて、砂音は壁に掛けられたアナログ時計の文字盤に目を向けた。


「あ、終電ヤバいかも。俺、そろそろ行かなきゃ」


 途端に、下方からくいっと遠慮がちに腕を引かれた。再び紫穂の方に視線を戻す。見詰める彼女の瞳は潤んで、揺れていた。


「行かないで」


 予想外な言葉に、砂音は虚を衝かれたように思考回路が真っ白になる。


「今日は、甘えていいんでしょ?」


 縋るように彼の腕を抱き寄せて、紫穂は言った。


「――抱いて」


 乞う声音は、か細いようでいて、熱を帯びて存外強く響いた。

 砂音のヘーゼルの瞳が驚愕に見開かれ、じわりと動揺の色を示す。


「でも」

「お願い。今夜だけは、一人にしないで。忘れさせて……何もかも」


 否定的な返事を拒絶するように、紫穂は砂音の言に被せて懇願した。突き放される事を怯えているのか、それとも己のこれからそうとしている行いの罪深さに慄いているのか。――彼女の腕は震えていた。

 それが、あまりにも心許なく、今にも折れてしまいそうに脆く映って――。


「……分かった」


 短く了承の意を示すと、砂音は彼女の細い身体を腕の中に引き寄せた。紫穂は一瞬だけびくりと身を硬くし、それからすぐに力を抜いて、彼に寄り沿うように体重を預けてきた。

 カーテンで閉ざされた窓の外からは、控えめに壁を打つ水の音が響いていた。いつの間にか、また雨が降り始めていたらしい。



 ――君がそう、望むのなら。俺は、何だってしよう。

 それが例え、過ちであったとしても。

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