5-2 雨音の記憶


「いらっしゃいませ、お客様。こちらのお席にご案内致します」


 真新しい白いシャツに黒の蝶ネクタイ。脚部を覆う程の黒のロングエプロン。男性給仕ギャルソン姿の砂音が恭しく声を掛けると、初顔の女性客達は瞬時に頬を染めて色めき立った。


「何処まででも付いていきます‼」


 心の籠った力強い応答に、砂音は客からのジョークと受け取ったらしい。愉し気にふっと笑み零してみせると、女性客達はそんな彼の表情に一層陶然とするのだった。

 案内を終えてバックヤードに戻る彼に熱視線を向けながら、彼女らが、


「ちょ、マジ、イケメン!」

「ここの店ヤバくない⁉」


 と囁き交わすも、当人は全く気にもしていない様子なので、一部始終を見ていた別のウェイターが、やれやれと肩を竦めて彼に声を掛けた。


「おいおい、また落としたな。あの客もおそらくこれから常連になるぞ」

「先輩」

「いや、恐ろしいな。お前が来てからお前目当ての女性客が増えて急に忙しくなったんだよな。それまで寂れたカフェで暇で良かったのに」


 溜息混じりに愚痴ってみせるが、口調も表情も面白がっているのが伝わってくる。この矢鱈やたらに顔の良い新入りの後輩にやっかむでもなく、親しんでくれているのだ。


「寂れてて悪かったな。アホな事言ってないで働け」


 そこに割って入った低い声の主は、苦み走った四十路の男性、この喫茶店カフェ店長オーナーだった。彼も見ようによってはイケオジと呼ばれそうな類の容顔をしているのだが、如何せん飲食店なのにだらしのない無精髭と皺の寄った制服が、これまでの客足を遠のかせていたに違いない。


「げ、店長」

「〝げ〟とは何だ」

「へいへい、ちゃんと働きますよ」


 先輩と店長の掛け合いに、砂音がこれまた楽しそうに顔を綻ばせると、じゃれ合っていた二人も釣られて表情を緩ませた。

 春に高校生になったばかりの砂音は、人生初のアルバイト先としてこの店を選んだのだが、それは正解だったと改めて思った。店長も先輩も親切で優しく、この店で働く人達の事が彼はとても好きだった。決して広くはないが、木製の調度品を基調とした温かみの溢れるこの店の事も気に入っていた。

 店長が砂音に確認する。


「仕事は大分慣れてきたようだな」

「先輩方の熱心なご指導のお蔭です」

「それが自然と言える辺り、お前本当末恐ろしいな」

「さ、無駄話はここまでだ。これ運べ」


 砂音の返答に満足したようで、先輩がまたぞろ茶化すのを余所に、店長がお開きを命じた。客膳の準備が済んだのだ。シフォンケーキのふわりと甘い香りに、爽やかな落ち着いた華のある紅茶の香りが鼻腔を擽る。――ラベンダーティーだ。

 おや、と思った。それらの乗ったプレートを渡され、砂音は配膳に向かった。


 目的の卓に視線を投げると、予想通り。窓際の席に、一人ぽつんと人知れず咲いた花のようにしめやかに、が座っていた。

 真っ直ぐなセミロングの黒髪に、薄化粧の質素な顔立ち。白いブラウスに濃いベージュのカーディガン。耳朶に光る紫水晶アメジストのピアスに色を合わせたのだろう、薄紫の長いチュールスカートは、夏服への衣替えに踏み切れずにまだ春の装いのままだ。


 名前は知らない。ただ知っているのは、彼女がこの店の常連で、いつもラベンダーティーを注文するという事だ。

 香りが強く若干癖のあるこの紅茶を愛飲する客はそれ程多くはない。故に印象に残りやすいというのもあるが、砂音はそれとはまた別の理由で彼女の事が気になっていた。

 今日も彼女は窓の外を眺めている。その横顔がいつも、何だか寂しげで……。


「お待たせ致しました。シフォンケーキとラベンダーティーでございます」


 声を掛けると、ハッとしたように振り返る。黒目勝ちの瞳が砂音の姿を捉えると、明らかに動揺を示して見開かれた。

 それから、「ありがとうございます」と謝辞を述べつつ、ぱっと逸らされる。敢えてこちらの方を見ないようにしていると思しき彼女の安定の対応に、砂音は内心で苦笑した。

 顔を背けた彼女の横顔は、先程窓の外を眺めていた時よりも一層影を落としている。――いつも、こうなのだ。


 目を合わせたがらないのは、シャイな人だからかと思った。けれど、店長や先輩と接している時はそんな事はないようで、彼女がこうした態度を取るのは決まって砂音が相手の時だけなのだ。

 嫌われているのだろうかとも思ったが、それにしては、時折視線を感じて見てみると彼女と目が合ってまた慌てて逸らされたりする。

 目を合わせたがらないのに、こちらが見ていないと、こちらを見ているのだ。


「そりゃ、お前の顔が良すぎる所為だろ。緊張してんだよ」


 先輩に相談したらそんな事を言われたが、そういうのでもないと思う。確かに自分は上背がある所為か人目を引くようで、よく他者から視線を向けられる傾向にあるが、それらと彼女の視線には決定的に異なる点があった。

 ――自分を見る彼女の目が、酷く物悲しい色を帯びているのだ。

 その悲哀の理由を、砂音は知りたかった。けれど、お客様相手に無遠慮な質問をぶつける訳にもいかず、謎は謎のまま、砂音の心にははっきりとしない靄が占拠していた。


 その靄が降らせたわけではあるまいが、その日は唐突な俄雨がやって来た。奇しくも、彼女が会計を済ませて退店しようとしたタイミングでの襲来だった。


「あ……」


 出入り口の硝子扉越しに、降り出した空を眺めて、彼女が立ち止まる。彼女の手荷物には傘らしきものは見当たらなかった為、もしやと思って訊ねてみた。


「大変失礼ながら、お客様、傘はお持ちでしょうか」


 砂音の声にびくりと小さく身を竦ませた後に、彼女はやはりこちらを見ないままに答えを寄越した。


「いえ……降りやすい時期だというのに、失念していました」


 季節は六月、梅雨の頃。ぐずついた天気の続く陽気で外出には雨傘が欠かせない時期だったが、この日は珍しく朝から青空が覗いていた為、彼女も油断したのだろう。突然の雨は総じて威力の強いもので、傘も無く屋根の外へ飛び出すには、いささか躊躇を誘う。困った様子の彼女を見かねて、砂音は提案を掲げた。


「俺ので良ければ、お貸ししますよ。折り畳みの小さいやつしかないですが」


 すると、驚いたように彼女が振り向いた。


「え、でも……それだと、貴方が困るんじゃ」

「大丈夫ですよ、俄雨ですから。俺が帰る頃にはきっと止んでますよ」


 突然の激しい雨は、すぐに止むと相場が決まっている。だから問題は無いのだと彼女を安心させる為に主張してみせるも、彼女の反応は芳しくなかった。


「駄目です。私、雨が止むまでここで待たせて貰ってもいいですか?」

「それは勿論、構いませんが」

「……ありがとう」


 よほど砂音に借りを作るのが嫌なのか、強固に傘の貸与を拒むと、彼女は待合いの椅子に腰掛けた。会計を済ませてしまったので、客席に戻るのは憚られたのだろう。そうして、またそっぽを向いてしまう。やはり嫌われているのじゃないか。そっと苦笑を重ねる砂音だったが、次にある事を思い付いて、早速店長に掛け合ってみた。


「お客様、お茶は如何ですか?」


 待合いに座す彼女の元へ新たに淹れたラベンダーティーを運んでいくと、彼女は目を丸くした。


「でも、私……注文してないけど」

「店からのサービスです。お代は頂きませんので、よろしければ、お待ちの間どうぞ」


 はぁ、と虚を衝かれたように生返事をしつつも、彼女は受け取ってくれた。それを見届けて嬉しげに微笑を浮かべると、砂音は通常業務に戻っていく。

 離れゆく彼の背を見つめながら、彼女は何を想うのか、ラベンダーの香りは心を落ち着かせ、淹れたての紅茶はぽかぽかと身体を芯から温めてくれた。


 見立て通りに、雨はさほど時間を掛けずに止んだ。分厚い雲が流れて晴れ間が覗いたのを確認すると、彼女は改めて待合いの席を立った。食器を返却し、そのまま出口へ向かうかと思いきや砂音の方に来て、「これ」と何かを手渡そうとする。

 見ると、彼女の掌の上にはきっちり紅茶分の代金が乗せられていた。慌てて彼女の顔を見る。


「お客様、代金は結構だと――」

「店からのサービスじゃなくて、貴方の奢りだって、別の店員さんが教えてくれました」


 先輩が彼女にこっそりその事実を伝えていたらしい。先輩としては、砂音が彼女に苦手意識を持たれている事を気に病んでいるのを承知の為、仲を取り持つようなつもりで気を利かせたのかもしれない。だとしたら、その思惑は見事に外れてしまったようだが。


「それは、受け取れません。俺が、したくてした事ですから」

「でも」

「もし、気になるようでしたら、またお店にいらして下さい。それが代金という事で」


 名案のように砂音がそう告げると、彼女はまたぞろキョトンとした表情を浮かべた。それから、ぽつりと零す。


「……私、元々ここの常連だから、それじゃあお代にならないじゃない」

「そういえば、そうですね」


 あっけらかんとした彼の返しに、彼女はぽかんと口を開けたまま固まった。そうして、次の瞬間――思わずといった風に、表情を和らげる。


「何それ」


 それは丁度、雨雲の切れ間から覗く青空のように晴れやかで眩しくて――息を呑んだ。可笑しげに笑み崩れる彼女に、砂音は照れ臭そうにはにかむ。


「ようやく、笑ってくれた」


「え?」と彼女が再び目を丸くしてこちらを見上げてきた。

 砂音はつい口にしてしまった安堵の言葉に、己で焦ったものの、一度出してしまったものは仕方がない。観念して皆まで話す事にした。


「お客様、いつも俺を避けているというか……俺を見ると辛そうな表情かおをなさるので」


 何かしてしまったのかと、と白状すると、彼女が血相を変えた。


「そんな! 貴方は何も悪くない! 私……私、そんな顔をしてましたか?」


 おろおろと言い募る彼女に、控えめに首肯を返すと、彼女は思い詰めたように俯いてしまった。その様が何だか痛ましくて……申し訳ないやら心配やらで何かしら言葉を掛けようと砂音が口を開くが、そこから音が漏れるより先に、彼女が続けた。


「……兄に、似てるんです。貴方。それで、つい」


 予想外の告白に、今度は砂音がキョトンとする番だった。


「お兄さんに?」

「はい。初めて貴方を見た時、驚いて……」


 そう語る彼女には、嘘を吐いているような様子は無かった。嫌われているのかと思っていたが、どうやら本当にそういう訳ではないようだ。けれど、分からないのは、やはりその表情だ。何故お兄さんの事を話しながら、そんな悲しげな顔をするのか。


 ――もしかして、お兄さんを亡くしているんじゃ。


 だから、兄に似ている砂音の事を見ると、思い出してしまって辛い気持ちになったり、寂しくなるのかもしれない。そう考えてみると、辻褄が合うような気がした。

 しかし、彼女本人に推測の正誤を求めるのは当然無礼千万なので、砂音はその事に関してはそれ以上深くは追及しなかった。


 不意に、店内の客が窓の外を指差して歓声を上げた。二人して釣られて窓越しに空を見上げると、雨上がりの蒼穹には見事な七色の虹が架かっていた。

 夢幻のように美しい泡沫のその光景よりも、先程彼女が一瞬だけ見せた笑顔の方が、砂音には強く印象に残った。



 ――俺はただ、彼女に笑っていて欲しかっただけだった。

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