第五章 罪過

5-1 覚悟


「おかえりー、シュカ!」

「もう身体大丈夫?」

「心配したよ~」


 三日ぶりに登校を果たした朱華を、友人三人組が温かく迎えてくれる。それだけで朱華は何だかじんとしてしまった。


「ああ、もう大丈夫。心配掛けてごめん」


 あれから、土日も挟んでたっぷり三日間、朱華は熱を出して寝込んだ。日頃の無茶が祟ったのと心労が相俟‪あいま‬って、思ったよりも長引いてしまった。その間、高熱に‪うなされながら、彼女は考えた。‬――砂音の事。満月の夜の告白に、彼の答え。


 取り留めのない思考に、心は行ったり来たり悶々と浮沈を繰り返した末に、やがて時間の経過と共にストンと据わった。時間は残酷だが、薬にもなる。それは良薬か麻薬か、どんな傷も痛みも時と共に癒され、または麻痺していく。一人静かに考える時間を経て、朱華の中には一つの覚悟が生まれていた。


「ところで、時任先輩も風邪で休みって、怪しいな~。シュカが伝染うつしたんじゃないの~? 風邪が伝染るような事って、二人で何してたの~?」


 うりうり、と口にしながら斉藤リサが肘で小突くようなジェスチャーでもって茶化してくる。しかし朱華は、友人が期待したような反応は見せず、不意にもたらされた情報に驚きをあらわにしたのだった。


「へ⁉ 音にぃも⁉」


 風邪で休み、だと⁉


「あれ? 知らなかったの? 昨日授業中に倒れたって。てか、時任先輩から聞いてないの?」


 リサが意外そうに目を丸くする。砂音と朱華は昼休みを共に過ごすくらいの仲なのだから、そうした情報はてっきり共有しているものと思っていたのだ。

 問うような視線を受けて、朱華が答えにくそうに目を泳がせる。


「それが……」


 どう説明したものか、何処まで話すべきなのか。迷う素振りを見せた後、ややあって彼女は意を決したように打ち明けた。


「えーっ⁉ 告って、振られたぁ⁉」

「ちょっ、リサ、声大きいよ!」


 衝撃的な報告にリサが思わず大仰なリアクションを取ってしまうと、小林 マユが慌てて小声で注意した。応じてリサも音量を落とすが、その声音から動揺は消えていなかった。


「いつの間にそんな事になってたの⁉ ていうか、ついこないだまでシュカ自覚すらしてなさそうだったのに、展開早くない⁉」

「うん、まぁ……自分でも予想外だったけど」


 後頭部を掻き掻き苦笑してみせる朱華に、リサとマユが言葉を失っていると、吉田 サエがぽつりと感慨深く呟いた。


「時任先輩の〝好きな人が居る〟って噂、てっきり幼馴染のシュカの事だと思ってたけど……違うんだ」


 あけすけな彼女の言に、マユが再び慌てながら「サエっ!」と咎めるように名を呼んだ。それから、朱華の方を気遣うように窺う。朱華は苦笑したままだが、気分を害した様子も無く、むしろ申し訳なさそうに返した。


「うん……あたしじゃないよ」


 諦観を伴う寂しげな口調に、マユが心を痛める。リサとサエは気になったようで、その内容についての憶測を飛ばし始めた。

 

「じゃあ、誰なんだろうね? 時任先輩の〝好きな人〟って。ファンの人達も誰も時任先輩が特定の女の子と親密そうにしてるのは見た事がないらしいんだよね」

「他校の子とか?」

「そうかも。一色先輩なら知ってるかもね。時任先輩の一番の親友だから」


 一色……千真か。と、二人のやり取りを聞いて、朱華も内心肯いた。確かに、彼なら朱華の知らない砂音の事もよく知っているかもしれない。密かに決意した事柄を実行するに当たっての手段や段取り等を心のうちで模索していると、心配そうにこちらを見ていたマユがそっと声を掛けてきた。


「……シュカ、大丈夫?」

「へ?」

「無理、してないかなって」


 沈思黙考する朱華の様子を、どうやらマユは落ち込んでいるものだと受け取ったらしい。困ったように小さく微笑んで、朱華は返した。自分でも驚く程、心は落ち着いている。


「まぁ……音にぃに他に好きな人が居るってのは、知ってたし。振られた事自体はショックじゃないって言ったら嘘になるけど、初めから分かってた事だからさ」


 ――『もう、逢わないようにしよう』

 そう告げられて、傷付かなかった訳がない。けれど、朱華の心はもう整理が付いていた。志を秘めた彼女の強い眼差しを目にして、サエが感心したように言う。


「その様子だと、まだ諦めてなさそうだね」

「諦めるというか……ちょっと、納得いかない事があって」


 そうだ。この三日間、考えに考え抜いたが、まるで納得がいかない――その結論に達した。振られた事がではない。その、理由だ。


 ――『俺、人を殺したんだ』


 あの言葉の、意味。真意が分からない。聞かされた当初は衝撃を受けて思考が停止したが。


 ――音にぃがそんな事、する筈が無い。


 そう思う。少なくとも、朱華の知るあの優しい人が、そんな事をするとは到底思えない。ならば、何故あんな事を言ったのか。朱華を遠ざける為に放った狂言なのか? ……いや、それにしては、彼の様子は酷く思い詰めているように見えた。


 ――音にぃは、本気でそう思っているんだ。


 その理由は何なのか。何が彼をそこまで追い詰めているのか。それを知らないままに、一方的に告げられた別離など、受け入れられない。だから、覚悟した。彼の隠した何か……あの笑顔に時折翳す影。そこに秘められた領域に、踏み込む事を。


 今度こそ呆れられても構わない。疎んじられても、嫌われても。――あたしはもう、逃げない。

 その勇気は、音にぃ……あなたが、くれたんだ。



 ◆◇◆



 周囲の喧騒から距離を置くように、千真は寡黙に一人、食堂の一角で昼食を摂っていた。少し前までは、昼休みには砂音といつも二人で来ていた場所だった。この頃はいつも一人。が有って以来、砂音が別行動を取りたがるようになった所為だ。

 事情を知る千真としては、親友が心配だし極力一人にはしたくなかったのだが……どうも砂音は彼に心配される事で一層心を痛めてしまうようで、あまり無理には踏み込めずにいた。

 本日はその当人も風邪で休学。行き場のない心配が積もる一方で気分の優れない千真は、箸を止めるとそっと溜め息を吐いた。


「一色先輩、お席ご一緒しても良いですか?」


 声を掛けられたのは、その時だった。顔を上げて見ると、そこには案の定。後輩と思しきグリーンカラーの制服の女生徒達がそわそわと色めき立った様子でこちらを窺っていた。皆知らない顔だ。


「わざわざここにしなくたって、他も空いてるだろう」


 俺は静かに一人で食べたいんだ、邪魔するな。……そんな心の声を隠す事もなく不機嫌そうに眉根を寄せて睨め付けると、彼女達は萎縮したように謝罪の言葉を口にしながら別所へと移っていった。

 全く、忌々しい。なまじ目立つ外見に生まれ着いてしまったものだから、ああいった手合いが後を絶たない。傍から見たら贅沢な悩みだが、人嫌いの千真には深刻な問題であり、無事に彼女らを追い払えた事に内心安堵の息を吐いていた。するとそこに、今度は別の声が掛かった。


「邪魔するぞ」


 随分と男前な文言だが、声は女子のものだ。今のアレを見てまさかまだ挑戦者が来るとは思いもしなかったものだから、少々驚いたように千真はぱっと顔を上げた。許可を得るよりも先に勝手に隣席に腰掛けた相手は、今度は見知った人物だった。派手なうねる赤髪に健康的な肌色の――親友が幼馴染と紹介した、一年の女子だった。

 確か、〝朱華ちゃん〟とか呼ばれていたな。と思い返していると、彼女はその鋭く切れ上がった目をこちらに合わせる事のないまま、まるで独り言のように話を振ってきた。


「昼は‪学食ここだって、神崎さんから聞いた‬」


 それが自分に対しての言葉だと気が付くのに、数秒掛かった。


「神崎って……こないだアンタ、そいつと一悶着起こしてただろ。何で仲良くなってんだよ」

「まぁ、色々」


 色々とは何だ。まさか、脅したりしたんじゃないだろうな。……どうでもいいけれど。


「で、何の用だよ。砂音なら休みだぞ」

「知ってる。あんたに訊きたい事があって」


 先回りして、相手の目的の答えと思しきものを寄越してみたが、返ってきたのは意外な言葉だった。怪訝げに眉を顰めて無言で促すように見詰めると、朱華は更に信じられない話を切り出してきた。


「何だよ、それ……」


 それは、砂音が朱華に放った「人を殺した」などという物騒な発言に関しての相談だった。


「音にぃが何であんな事言ったのか、過去に何があったのか……あんたなら分かるんじゃないかと思って」


 実際に、朱華のその考えは当たっていたらしい。


「アイツ、やっぱりそんな風に思ってやがったのか……」


 苦い口調で零した千真の反応が、それを物語っていた。急くように、朱華は彼の方に半ば身を乗り出して乞う。


「良かったら、知ってる事、聞かせてくれないか?」


「お願いだ」と、真剣な瞳を向けてくる彼女に、千真は躊躇いを見せた。


「勝手に人に話していいような内容じゃないが」


 けれども、朱華の必死な形相を見ていると、砂音への彼女の気持ちが、決していい加減なものではないと伝わってくる。

 脳裏に浮かぶのは、この少女の事を話していた時の、親友の嬉しそうな笑顔。――あんな表情かお、もう久しく見てはいなかった。

 もしかしたら、彼女なら……。そんな淡い期待に、縋りたくなった。

 大きく息を吸い込むと、千真はゆっくりとそれを吐き出した。そうして、片手で額を押さえてから、やがて決意したように朱華の方に向き直る。


「そうだな。砂音も、アンタの事は信頼してるみたいだったからな。……アンタになら、話してもいいだろう」


 逸る気持ちを抑えて、朱華は居住まいを正した。互いに無言で視線を交わす。暫しそうして覚悟を固めた後、千真はようやく口を開いた。周囲の耳を気にするよう、静かに、ひっそりと。


「アイツには、内緒で付き合ってた秘密の恋人が居たんだよ。俺にだけ話してくれた。……最も、アイツ曰く自分の片想いだから、あくまで恋人ではないとの事らしいが」

「……秘密の、恋人」


 ――音にぃに、そんな相手が。


 その事実だけでも充分に衝撃的だったが、続けて千真が聞かせてくれた話の内容は、更に胸を抉るようなものだった。



 ◆◇◆



 ハッとして、飛び起きる。急速に覚醒した意識の中、砂音は浅く荒い呼吸を繰り返しながら、自室の壁を見詰めていた。布団から半身だけを起こした自身の状態に、ああ、またか……と、事態の把握が遅れて訪れる。


 ――また、‪‬‪の夢を見た。‬‬


 繰り返し繰り返し、ほぼ毎晩。砂音は同じ夢を見続けていた。それは寝ている時だけでなく、起きている時でも時折フラッシュバックする、悪夢の光景。――罪の記憶。


 身体が熱い。それなのに全身から噴き出した汗は、いやに冷たく、皮膚を流れる感覚にぞくりと背筋を震わせた。

 そうだ、自分は熱を出して学校を休んだのだった。朱華から伝染った訳ではない。あの夜、朱華と別れた後、物思いに耽って遅くまでずっと外で過ごした所為だ。

 そのまま土日は通常通りに部活とバイトに励み……疲れが出たのだろうか、昨日、月曜日。体育の授業中にクラスメイトの目の前で倒れてしまったのだ。

 また千真には心配を掛けてしまった事だろう。仄暗い罪悪感に、そっと自嘲の笑みを浮かべる。窓の外からは、シャワーのそれにも似た、打ち付けるような水音が聞こえていた。


「……雨」


 ぽつりと、独り言ちる。起き抜けの喉からはしゃがれた声が漏れた。

 夢の中でも聞こえていたあのシャワーの音が、起床後も絶えず響いていた理由は、どうやらこの雨の仕業だったようだ。記憶野を刺激する愛しくも忌々しい水音に、砂音は想いを馳せた。


 ――雨は、あのヒトを思い出させる。


 あの‪ヒト‬と一緒の時は、不思議といつも雨ばかりだった。

 ……そう、初めてちゃんと会話を交わした時も、こんな篠突く雨の降る初夏の午後だった。

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