4-6 告白
カーテンの隙間から、月が見えた。
幼い頃の朱華はよくそんな事を考えて、満月の夜は何だか落ち着かない気持ちになった。だって、お月様には朱華の事なんて、何もかもお見通しなんだから。
窓を背に、こちらを見詰め返す砂音の瞳は、お月様と同じ色をしていた。――何もかも、お見通し。穏やかに澄んだ光を湛える彼の瞳に、全てを曝け出すつもりで、朱華は自分の姿を映していた。
緊張に縮こまった自分は、怯えるようでいて、何処か安堵の表情を浮かべている。今度こそ、彼に嫌われた。……けれど、それでいい。もう嫌われる事に怯えなくても良くなるから。彼の優しさに、罪悪感と自己嫌悪を抱く事も、無くなるのだから。
そう思う一方で――ズキリと主張する胸の痛みだけは、自分でもどうしようもなかった。
本当は、嫌われたくない。嫌われるのが怖い、悲しい。処罰を待ちながら赦しを乞うような、醜く浅ましい、矛盾した気持ち。
それら全てが彼の清い光に照らし出されて、晒される。強烈な羞恥心に逃げ出したくなる気持ちを必死に押さえ付けながら、朱華は彼の瞳から目を逸らさずにいた。――やがて、砂音の唇がゆっくりと開かれる。
「朱華ちゃんは、やっぱり優しいよ」
そこから紡ぎ出された答え。思いがけない言葉に、咄嗟に何と言われたのか分からず、朱華はキョトンとした。
「買い被りだって言うけど、朱華ちゃんが自分を過小評価し過ぎなんだよ。……本当に自分勝手な人は、そうやって悔いたり反省したりなんかしない」
「朱華ちゃんは、綺麗だよ」そう言われて、ようやく反論が口を衝いた。
「っでも! あたし、人を傷付けた! オヤジの事も……‼」
「そうしないと、朱華ちゃんが辛くて壊れそうだったからだよね」
ハッとして目を見張る朱華に、砂音は穏やかに続けた。
「確かに、人を傷付けるのはいけない事だけど。……ちっとも〝平気〟そうじゃないよ? そうやって傷付けた人の分まで、朱華ちゃんは傷付いてる」
――優しい子だよ。
「そんなに自分を責めなくていいんだよ」
大きな手が、朱華の頭を包み込むように撫でた。最初の昼休みの時のように。朱華の犯した罪を
――ああ、あたし。やっぱり悪い子だ。
そう言ってくれる事を……慈悲深い彼が赦してくれる事を、心の何処かで期待してしまっていたのだ。
なんという悪辣。なのに彼は、「頑張ったね」なんて、優しく撫でるのだ。悪い子の自分まで、肯定して……纏めて包み込んで、宥めるように。
もう駄目だった。熱で弱った心と身体では、涙腺の緩むのを止められなかった。
じわりと滲む視界に、彼の微笑みが映る。清らかで情け深い、その笑顔を見ていると――。
「……好きだ」
ぽろりと、溢れ出た。涙だけでなく、想いまで。
「音にぃが、好きだ……。あたし、ずっと……小さい頃から」
それはきっと、初めて声を掛けて貰った時から。――いいや。もしかしたら、校庭で彼を自然と目で追っていた時から……既に。
「ずっとずっと、好きだった」
彼の微笑が、虚を衝かれたように固まる。それから、戸惑いを表して視線が揺れる。如何に鈍感な彼とて、流石に彼女の言葉が特別な意味でのものだと覚ったようだ。
困らせている――なのに、止まらない。一度堰を切った心の奔流は、理性すらも押し流してしまった。
「転校して、逢えなくなってからも……音にぃを忘れた事、無かった。酷い事言っちゃって……ずっとずっと後悔してた。ちゃんと謝りたかった。……もう一度逢えて、嬉しかった」
――けど、あたしは汚れてて。同時に後ろめたかった。
そんなモヤモヤとした陰鬱な気持ちすらも、音にぃは魔法の言葉で吹き飛ばしてくれたんだ。
「あたしは、やっぱり……音にぃが好きだ」
伝えるつもりなんか無かった。だけどもう、満タンで。閉じ込めていた蓋から溢れ出して――隠せなかった。
「朱華ちゃん……」
躊躇うように、砂音が真剣な眼差しで呼び掛けてくる。申し訳なさそうなその顔を見ずとも、彼の答えは初めから分かっていた。だから、先回りして防御する。――あたしは、何処までも狡い。
「大丈夫、分かってる。あたしは、何も望んでなんかいない」
――音にぃには、他に好きな人が居るんだから。
「ただ、言わずにいられなかっただけ……気にすんな。第一、あたしじゃ音にぃには釣り合わないしさ」
気丈に振舞って、
どうすれば彼の罪悪感を拭う事が出来るだろうかと、朱華の身勝手な物思いを他所に、砂音は言った。
「……違うよ。朱華ちゃんが俺に釣り合わないんじゃなくて、俺が朱華ちゃんに釣り合わないんだ」
予想外な言葉。思わず意味を問うように見詰めると、砂音の表情は先程までよりも一層翳りを帯びていた。
「買い被ってるのは、朱華ちゃんの方だよ。……俺は、朱華ちゃんが思うように……優しくも、綺麗でもない」
「汚れているのは、俺の方だ」自嘲の笑みを一瞬口元に刷いて言い切ると、次にはそれもスッと消し去り――。
「俺、人を殺したんだ」
空っぽな
「だから、朱華ちゃんの傍には、居られない」
――朱華ちゃんの傍に居ると、安心してしまうから。
「楽しくて……温かい気持ちになって、癒されてしまうから。……ダメなんだよ、そんなの」
――俺にはもう、幸せになる権利なんて、ないんだから。
「俺も、朱華ちゃんにもう一度逢えて、嬉しかった。好きだって言ってくれたのも、嬉しかった。……だけど、これ以上甘える訳にはいかない」
「もう逢わないようにしよう」――そう告げる彼の声を、朱華は何処か遠くで聞いているような気がした。
何も頭に入って来ない。衝撃が強過ぎて、脳が理解を拒む。凍結したように固まったままの彼女に、砂音は最後に眉を下げて微笑んだ。それは、彼女が好きになった――いつもの優しい彼の
「じゃあ、俺……帰るね。鍵、ちゃんと掛けておいてね」
離れていく彼を、引き留める事も出来なかった。一度も振り返る事なく遠ざかっていくその背を、目前で閉まる扉を、朱華はただ
◆◇◆
――『好きだ』
耳に残る彼女の告白が、不意に脳裏に囁いた。
――『ずっとずっと、好きだった』
気が付かなかった。あんなに傍に居たのに。自分はどれ程、彼女を傷付けてきたのだろう。
アパートの外はすっかり宵闇に包まれていた。高い位置から見下ろす眩しい満月から顔を逸らすように、砂音は俯いて、ついと立ち止まる。
――嬉しいと、思ってしまった。
朱華からの告白に一瞬でも心が湧き立ってしまった己に、自己嫌悪を募らせた。それから、後を追うようにじわじわと罪悪感が支配する。
ぎゅっと瞑った瞼の裏に、〝あの
左の耳朶を穿つ片割れのピアスに、そっと指先で触れる。深い紫の宝玉は、今の夜空の色にも似ていた。
「……ごめん、
届かない言の葉は、虚空をほんの少しだけ揺らして、周囲の闇に染み入るように消えた。
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