第二章 初恋の人

2-1 邂逅


 翌日、朱華がクラスの扉を開くと、彼女の登校に気が付いた先日の三人組同級生女子達が、びくりと身を硬くする様が見て取れた。


「さ、更科さん……お、おはよう。あの、昨日はごめんね?」


 もう完全にビビられてしまっているようだ。ここは極力優しい笑みでもって、怒ってなどいない事を伝えなくては。

 朱華は、内心砂音の笑顔を思い浮かべて真似る気持ちで、目を細め口角を吊り上げて見せた。


「あぁん? 何言ってんだよ、別にあたしはんな事で怒っちゃいねーし」

「ひっ! そ、そうだよね! ご、ごめんなさい! 余計な事を!」


 結果、逆効果だったらしい。余計に怖がられて、そそくさと退散されてしまった。


 ――あたしの笑顔、そんなに凶悪だったか?


 内心ショックを受ける朱華だったが、傍目から見れば口元は引き攣っているし、目を眇めてガン垂れているようにしか映らないだろう出来栄えだった事は確かである。


 ――音にぃは凄いな……。


 彼の柔らかな笑顔に想いを馳せながら、若干傷心気分に浸る朱華だった。

 今日も友達は出来そうにない。


 という訳で、そのまま午前の授業を問題なくこなし、昼休みに至った彼女は本日もぼっち飯を決める事となったのだ。

 楽しそうに食事をするクラスの面々に囲まれて教室で一人弁当をする気にはなれなかったので、裏庭へと移動する。


 最近気が付いたのだが、何気に生徒が集う中庭と違って、裏庭の方はあまり人気が無くて落ち着くのだ。

 中庭は綺麗な池を中心に小さな庭園のようになっているのに対し、裏庭には適当に並べられた花壇くらいしか無いからだろう。ベンチすらも存在しない。

 今日も見た感じ誰も居ない。内心少しホッとつつ、花壇の縁に腰掛けようと、そちらに歩を進めた時――。


「ぅおっ⁉」


 手入れ不足で茂った草むらの中で、何かに足を取られて危うく転びそうになった。

 瞬時に体勢を立て直しつつ、自分が何に躓いたのか、その原因を探るべく足元に視線を落とす。途端に、目を丸くした。


「音にぃ?」


 そこには、草むらに埋もれ無造作に寝転がる砂音の姿があった。それも、下に何も敷かずに直接だ。制服が汚れる事は度外視のようだ。

 今しがた朱華の足がぶつかった事で、眠りの世界から少し引き戻されたのだろうか、「ん」と小さく声を漏らしては身動ぎをする。

 朱華がハッとして見守る中、果たして彼はゆっくりと瞼を開いた。ぼんやりと眠たげな顔で、覗き込む朱華の存在を視認すると、ふわりと微笑みを浮かべ――。


「……おいで」


 優しい声で誘い、招くように片手を伸ばしてくる。

 突然の事に朱華が真っ白になっていると、その手に腕を引かれ、気が付いたら引きずり込まれるような形で彼の腕の中に収められてしまった。


「おっ、音にぃ⁉ ちょっ‼」


 慌てて抜け出そうとすると、思いの外強い力で、ぎゅっと引き寄せられてしまう。


 ――何だこれは、どういう状況だ⁉


 突如早鐘を打ち始めた己の心音が煩くて、一層思考が纏まらなくなる。

 一人ドギマギしていると、やがて耳元で規則的な呼吸音が聞こえ始め、おや? と首を捻った。見ると、砂音は再び安らかな寝息を立てて眠りの世界に落ちてしまっていた。


 ――もしかして、音にぃ……今の、寝惚けただけ⁉


 衝撃と共にそう悟ると、何だか一気に脱力した。……何だ、ビックリした。

 たぶん、朱華と分かって抱き締めたのではないのだろう。そう考えると腑に落ちるが、同時にモヤッとした。


 ――誰かと、間違えたのか?


「おいで」と引き寄せた。流れるような動作で。随分手馴れた様子だった。……あんなに優しい顔と、声で。


 ちくりと、胸が傷んだ。まただ。彼に恋をしていたのは昔の自分なのに、今更こんな事でどうしてこんなにも感情を揺さぶられるのだろう。


 視界に映る、左耳の紫のピアス。片側だけのピアスには、確か意味があった筈。

 どちらかが同性愛者の印。そして、どちらかは――護るべき相手恋人の居る証。

 あれ? 左は、どっちだっけ?


 にわかに混乱し始めた思考を散らすように、朱華は砂音の肩を軽く叩いた。とりあえず、離して貰わねば。


「音にぃ、音にぃ!」


 少し控えめに呼び掛ける。眼前の彼の長い睫毛が、反応を示して小刻みに震えた。しかしまぁ、整った顔だこと。

 朱華が嘆息混じりに苦笑すると、やがて砂音は今一度閉ざしていた瞼を持ち上げた。

 ヘーゼルの瞳に、朱華の姿が映る。暫し見詰め合う内に、徐々に彼の表情に理解の色が浮かんできた。


「……朱華ちゃん?」


 今度こそ、お目覚めのようだ。


「……うす」


 朱華はどういう顔をしていればいいのか分からず、気まずい気分で目礼を交わしてから、そっと視線を外した。

 すると砂音は、ようやく自分が朱華を抱き締めている現状に気が付いたようで、驚いて腕をパッと開いた。

 解放されて、おずおずとその場から起き上がる朱華に、同じく身を起こしながら、砂音は慌てて言葉を繰り出した。


「ごめん! 俺、寝惚けてたみたいだね」

「……別に」


 何が「別に」なんだろうと朱華は内心自己ツッコミしつつ、誰と間違えたのかと問いたくなる衝動を堪えた。

 しかし、それが伝わってしまったのだろうか、砂音は弁解するように続けた。


「千真ん家、大きい犬飼ってるんだよ。ゴールデンレトリバー。遊びに行くとよく一緒に昼寝するものだから、つい」


 そう言って、眉を下げて笑う。それを聞いた朱華は、思わず胸を撫で下ろしてしまった。

 なんだ、犬……何だ、そうか。


 ――って、犬と間違われたのか⁉ あたし!


 安堵した後に、何とも複雑な気持ちになった。まぁ、いいか……。


「音にぃ、何でこんな所で寝てんの?」

「うん……最近、受験勉強で夜眠れなくて」


「仮眠」と、まだ眠そうな目を擦る。そういえば、何処か疲れた顔をしている。――心配だな。

 まだ最高学年に上がったばかりだろうに、もう受験勉強をしているのか。


「それにしたって、こんな地べたじゃ汚れるし、風邪引くぞ?」


 春のぽかぽか陽気とはいえ、屋外では流石に身体を冷やしてしまうだろう。すると、砂音が言うには。


「前は空き教室を使ってたんだけど、見つかっちゃったから」


 ――見つかった?


 誰にだろう、先生にかな。朱華がそう考えていると、砂音は小首を傾げるようにして彼女を覗き込み、


「俺がここで寝てる事は、内緒にしておいてね?」


 と言って、悪戯っぽい笑みを刻んだ。見た事の無い大人っぽい彼の表情に、朱華はついドキッとしてしまう。


「朱華ちゃんは、どうしてここに?」

「あ、あたしは、弁当を食いに」


 ぼっち飯という何となく後ろめたい行動に、視線を泳がせてしまう。

 相変わらず友達が出来ないの、知られたら呆れられてしまうのではないか。


「音にぃ、また寝るんならあたし場所移した方がいいか?」

「ううん、朱華ちゃんとまた話したかったから、居てくれると嬉しい」


 また、そういう事を言う。熱くなる頬を冷まそうと目線を逸らし、朱華は唇を尖らせた。


 ――昔も今も、音にぃには敵わないな。


 そんな己に苦笑しつつ、改めて花壇の縁に二人並んで腰を下ろした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る